日本人がつい「報連相」を重視してしまう本当の理由

確かに一理!「報連相なんてムダ!」という外国人ビジネスマンの言い - モチベーションは楽しさ創造から
こちらの記事を読んで、「なにをいまさら」と思ったので書いてみる。
なお、状況を冷静に俯瞰すると私のほうがよっぽど「なにをいまさら」なのは内緒だ。

件の記事のブコメなんかを見ると、「要は『報連相』だろうがなんだろうがやり過ぎると逆に意味がないということでしょ」という結論が醸成されつつあるのを感じるが、そんなことは当たり前すぎて相槌を打つ気にもならない。

あるべき問題設定は、「日本人はなぜ、本来的な意味を度外視してまで、相対的に『報連相』を求めがちなのか」ということではないのか。


これはなぜか。日本人は基本的に、欧米人よりも相対的に「個」を信頼するということをしないからだ。

報連相」を求めずに、成果だけを「管理」するという手法は相手に対するある程度の「信頼」を要する。その相手が、目的を見誤っていることはおそらくなく、かつその目的に対して少なくともその相手なりのベストはつくすだろう、という暗黙の信頼である。


欧米人が「個」を信頼するということの背景は、彼らの宗教観にある。言うまでもなくキリスト教は父なる神が唯一の神であるから、「まあそうはいっても相手も同じ神を信じる仲間だ」という安心のメカニズムが機能する。

一方、日本はご存知の通りもともとが多神教であるうえに、そこに仏教やキリスト教なども加わって、いまや神様の坩堝みたいになっている。当然のことながらそういう状態では、いま目の前にいる相手は根本ではなにを考えているのか、価値観としてなにを重視するのかなどは、相対的にわからりづらいということになる。

例えば、拝金主義という言葉が日本にはある。確かにいいニュアンスではないが、まあカネにはカネの神様がいるという話だ。「拝金主義のなにが悪い」と言われて、その「悪さ」を断言できる日本人というのはまずいないだろう。斜に構えて「それが資本主義だからね」とか言い出す奴もでてくるだろう。ところが拝金主義を英語にしようと思うと、たぶん「greed」か「mammonism」という感じになるだろうが、これは要するにずばり「悪」という意味である。greedyはキリスト教の7つの大罪のひとつだ。言葉自体が「悪」という概念を内包してしまっては、もはや議論にすらならない。

よって欧米では、目の前にいる相手が「拝金主義」かどうかという疑念を特に持たないということが可能となる。万が一本当は拝金主義的な思想を持つ人であったとしても、露骨に拝金主義的な行動を取れるはずがないという安心感がある。


こういう「個」を信頼するという思想的な背景を持たない日本人は、あらゆる局面に「文化」を介在させることで安心を得てきた民族である。安心を得るという目的を考えるにあたって、「文化」が「宗教」の機能的代替を果たしているということである。

その「文化」が「和」という「空気」なのだろう。聖徳太子が、憲法17条の一番はじめにもってきた「和を以て尊しと為す」とうやつだ。これについては井沢元彦氏の逆説の日本史がすごく詳しいので是非一度読んで欲しいが、「とにかくまずは話し合いましょう」ということだ。

話し合いによってムラ社会をつくり外部を断絶することでムラの内側の安心を得るというのが、日本的安心のメカニズムなのだ。

そしてこう考えれば明らかだと思うが、要は会社における「報連相」というのは、ムラにおける「井戸端会議」と似たようなもので、それ自体に大した意味はなくても、信頼関係をつくる重要な手段なのだ。


結論。ほうれんそうを重視しすぎるのは当然効率面から望ましくないが、欧米の表面的な猿真似でインチキ成果主義を掲げることが一番危険である。

信頼関係を構築する手段を代替も用意せずに捨ててしまっては、社会に安心がなくなり、人々が不安定になるからである。



「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

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逆説の日本史〈1〉古代黎明編―封印された「倭」の謎 (小学館文庫)

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