てんとう虫の生と人間の生命の間に介在する社会的事実と「人間の都合」

自然界の厳しい掟です/GSV/ホームレス - 過ぎ去ろうとしない過去のコメ欄で少しやり取りをしたわけだが、その続き。

id:hokusyuさんは次のように言う。

そりゃ「しくみ」で利益を得ている人はいるでしょ。投資家連中が石油に投資して儲ける。そのあおりで北国の人々の生活が苦しくなる。これは資本主義の「しくみ」からいえば当然のことになってしまいます。でも、そんな資本主義のしくみなんか知るか。灯油を安くしないとこっちは凍死するんじゃというのが「人間の都合」です。あなたも資本主義で儲けてきたでしょうと言っても、そんなの関係ない灯油よこせというのが「人間の都合」です。「しくみ」に生かされているかどうかなんて関係ない。生きているから生きているんです。「しくみ」を変えなければ根本的な救済が無理だとしても、古代ユダヤのクムラン教団よろしく「しくみ」を変えるのに「しくみ」から外れた生活をする必要なんて全然無いんです。

この『生きているから生きているんです。』というのは、単なる屁理屈だと強く思うわけである。この文章は前者の「生きている」と後者の「生きている」の意味の間に何かしら差異があるからこそ意味を持つのであって*1、それを同じ言葉を敢えて使うことによってまるで自明の理のように扱い、証明を割愛しているところに疑問を感じざるを得ない。


まずは両者の意味の違いを考えてみたいが、例えばてんとう虫が生きているということと、人間が生きているということ、この2つのテクストについて、現代では「生きている」の意味が異なる。てんとう虫ではなく、原始時代のホモサピエンスを想像してもらってもかまわない。

現代において、てんとう虫やホモサピエンスのように単にそこに存在しているだけでは、それは人間にとって到底望ましい状態とはいえないだろう。てんとう虫の生命と人の生命はまったく並立ではないともいえる。このてんとう虫の生命と人の生命の違いこそが2つの「生きている」の間の違いではないか。

前者の単に生きていると言う状態を「自然の一部として存在している」とし、後者の括弧で括った生きているを「生命を実感している」と言い換えたい。この2つの「生きている」をとりあえずこのように換言しておいて、その定義は追って明らかにしていきたい。

現代で単に生きていると言った場合は後者の意味を持つ可能性が高い。*2


『「しくみ」に生かされているかどうかなんて関係ない。』ということはあるだろうか。
「自然の一部として存在している」状態と「生命を実感している」状態の間に乖離があるとすれば、その乖離を埋める何らかの力が介在しているのだと考えることは自然で、であれば何らかの力に生かされているという言い方は可能だろう。

その力とは神だろうか。そこに神を見出すことを、私は思想としては決して否定しないが、現実論としては説得力を見出せない。私の立場はその力とはまさに人が自ら作り出した「しくみ」だろうとするものである。


この「しくみ」という概念は、hokusyuさんのエントリから拝借したものだが、いまいち定義がはっきりせず使い勝手が悪いので、私なりの解釈を述べるが、要はこれは社会的事実としての支配の構造*3のことだろうと思う。id:hokusyu氏の例を借りれば、ジャッカルがシマウマを捕食する場合、その瞬間においてジャッカルはシマウマの生命を支配している。ところがこの例は、シマウマが「生命を実感している」存在ではないために、シマウマを擬人化しない限りわかりづらい。純粋に野生のジャッカルが野生のシマウマを捕食する構図は、単にそれぞれの個体の本能行動の結果の総和であって、社会的事実とはいえないだろう。


では、人に生命を実感させる「しくみ」とは具体的に何を指すか。
まず生命という概念の本質は、その有限性であり、それに基づくかけがえのなさである。昆虫や動物は自らの有限性を認識せず、自己を把握しない。種の保存を目的とした本能に基づいて活動するだけである。これに対して人は、本能の働きが極端に弱い代わりに、それを文化で補完することで繁栄を続ける動物である。
人が生命と言う概念を自らのうちに見出したのは、人が主体と客体を持つことに由来する。客体として人体の構造を把握してはじめて、その存在が必然的に有限であり、かけがえのないものだということを認識できるからだ。
よってひとつには、自らの生物学なり医学なりの学問としての知が、自らの身体を支配している構造が、我々に生命を認識せしめるわけである。このことからわかるように、我々は「生きているから生きている」のではない。「しくみ」によって生かされているのである。人が孤独を嫌うのは、結局のところ主体のみでは自己の生命を認識できないからだろう。


そして自らの生命を認識した人類は、そのかけがえのなさ故に、自らが生存するための権利を欲する。これが人権という概念だろう。
人はこの人権を守ることを社会や国家に委託するわけである。なぜか。人権とは考え方としては、人が人であるが故に万人に対して生来的に与えられたものであるにもかかわらず、我々は万人に与えられた権利を主体的に実感することはできないからだ。主体のみの人間社会においては、人権は神の視点からのみ存在する。もともと生来的に有しているはずの基本的人権のくだりをわざわざ憲法に書くということにはそういう意味がある。さらにいえば、我々が人権を本当の意味で実感したいと思うのであれば、おそらく、人権を否定されている人との比較において、自己についてはそれが否定されていないという事実を把握することが最も効果的であろう。又は人権を与えられなくて当然と思われるような一部の人間と自身との差を人権と捉える方法もあるかもしれない。これも生命の認識と同じ構図であり、即ち客体を持ってはじめて把握が可能になるということだ。
支配の構造に当てはめると、(福祉)国家が我々を支配しているということが、我々に人権を実感させているのだといえよう。とここまで前置き。


思うに、我々が実感する人権と、hokusyuさんが言う人権はたぶん別のものだ。前者は「それが否定されていないという事実」であり、後者は「人権というある種の理想的な概念」だ。
hokusyuさんの言うのはつまり、現実はどうあれ万人に基本的人権が自明的に与えられているというある種の理想形から議論をスタートさせるべきだという話。それはそれで大いに結構なことだとは思うが、人権でさえも、それを我々に与えるしくみが既にあるのなら、それを無視して議論を進めるのは危険だろうというのが私の主張である。もちろん、世の中の人全員がhokusyuさんのようにたとえ人権を実感できなくてもそれを概念として信仰できるのであれば、おそらくそれに越したことはないだろうから、「生きているから生きているんだ」という啓蒙は非常に有意義なものではある。

ただ一方で、我々に人権を実感させる(与える)「しくみ」があるとすれば、それは明らかに人権の存在を高らかに宣言したのと同じ一般意思が社会や国家に求めたものである。その方法論として構造的に噴出した問題を、そもそもの目的をすげ替えるような真似で解決することが果たしてできようか。それをはじめると、基本的人権は自明だから、国家に保障させる必要はまったくない、という解に落ち着くのではないか。国家にそれを保障させている段階で、一般意思は概念としての人権よりも一歩踏み込んだ実感を求めており、その要求が「しくみ」を作るのではないか。

だとすれば考えるべきは、「しくみの理屈」の先にある誰かの「人間の都合」を明らかにし、他の誰かの「人間の都合」との折衝を探ることだろう。




全然人来なくてがっかりしていたら、どうやら
「人権」っていつから信仰の対象になったんだっけ? - 想像力はベッドルームと路上からや、
権利は戦って勝ち取るものだという意識 - 狐の王国
に話は移っていたらしい。乗り遅れ。

*1:もし同じ意味なのだとしたら、わざわざ文章にする意味がない。この鉛筆は鉛筆だと言ってるのと同じで、トートロジーにもほどがある。

*2:「ありさんだって生きているんだよ」というときは蟻を擬人化している。

*3:自然的に発生したものか、誰かが意図的に作り上げたものかは問わない。