2ちゃんねるに見る道徳的潔癖さとその系譜について
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恋人がバレエで男に体触られてる つづきが流行ってるので。ちょっと意見。
読んでない人のために適当に1行そこらでまとめると、
長年付き合った彼女がバレエならってるんだけど、そこの男と浮気してたので、頭にきて彼女の親にも言いつけたらさあ大変だ!みたいな。
確かにこの主人公の彼女について、「あら、おまたがゆるいのね、動物みたいw」とは思う。確かに思う。色欲下品だねとも思う。
ただ、この主人公の男の対応だって相当気持ち悪いでしょ。
なんでこんなに、相手の親まで巻き込んで、ことを荒立てる必要があるの。結婚してるわけでもないわけだから、そういう浮気とかする人は嫌いということなら単に二度と会わなければいいし、それでもやっぱり好きだというなら別に「もうしないでね悲しいから」とだけ言えばよろしい。それが粋*1というものだろう。
長年付き合ったからけじめ?うそこけ。おそらく次の部分が根源だろう。
なんか、彼女との楽しい思い出ばっかりだった。
んで、なんでこんなことになってるんだろう、
どうしてこんな目にあってるんだろう、って思うと涙が出た。
けど、それはすぐに怒りに変わった。
俺を裏切った彼女と、どういう経緯があったか知らんが、
俺と彼女の関係をぶち壊した間男に、鉄槌を食らわせてやる、って決意になった。
裏切られたという怒り。その行為に対する復讐。
要は他の男に寝取られたと言う事実からくる敗北感、支配欲が満たされなかったことや得られるはずの幸福が失われたことによる憤怒が、相手の色欲に転化されている。でも色欲も憤怒もキリスト教で言えばどちらも7つの大罪のひとつなわけで、それはまあどうでもいいんだけど結果的には別にどっちもどっちと言っていいのではないの。
ただ誤解のないように言っておくと、この「憤怒」はほめられたものでこそないが、「仕方ないよね。人間なんだから。*2」という類の話であって、誰だって頭にくることはある。実際私が上の話の主人公の立場であれば、歯軋りをしながら壁を殴ったりしただろう。相手のことを口汚く罵ったりもするかもしれない。あくまで言いたいのは、【追記:あそこまで憤怒に対して正直に、それこそ下品なメールを送ってみたり、証拠を捏造してまで親にちくったりしてしまっては】「結果的にはどっちもどっちなんじゃないの」というだけで、野暮*3だとは思うが、別に怒ったこと自体を悪いと言うつもりなどは毛頭ない*4。
私が一番違和感を覚えたのは、その聴衆についてなのである。本来、第三者として客観的な視点を持ちえるはずなのに、上のような「どっちもどっち」的視点や「どっちもどっち」になるなよという抑制は少なくとも私の見た限りまったくなく、ただひたすらに「色欲にまみれたビッチは粛清せよ」という空気で満ち満ちている。そしてこの空気は別に今回に限ったことではなく、浮気とか性産業とか性にまつわるお話に対して概ね共通して寄せられる反応だ。(これとかこれとか。)
これらはあまり自然な状況に思えず、特定の道徳的価値観に対する潔癖な信仰、ある種のファシズムのようなものを感じる。
なにも性に限った話ではない。少し前の話になるが、これもそうだ。
大聖堂に落書きをした日本人女子大生について
確かに大聖堂に落書きをしてはだめだ。そんなことはわかってる。ただそんな、マスメディアまで動員して袋叩きにしなくてはならないような深刻な問題か?なんか間違ってるだろ、プライオリティが。
これについても上の例とまったく同種の道徳的潔癖さを感じるわけである。
と、いうことでずいぶんと前置きが長くなってしまったが、ここからが今日の本題。
これらの道徳的潔癖さの系譜を辿った場合のその根源はなにか。
これについて仮説を提示すると、道徳が善悪の判断だとすれば、それに対して潔癖であるということは、悪に対しての過剰な反応であって、つまり裏を返せば自らが善であることについての過剰な欲求なのではないか。自らが善であるという確信が持てないが故の善に対する渇望であって、善を渇望するからこそ、ビッチやDQNなどという概念で悪を排撃することにつながっているのではないか。
人類の歴史とその発展は細分化の歴史であって、価値観も細分化を続けている。さらにここにきて、情報通信技術の発展は、世界に混在する無数の価値観に対するアクセスを飛躍的に向上せしめ、我々に無数の価値観を提示したのである。それらの間には何が正しくて何が間違っていると言った相関関係はなく、ただ無数に存在しているのだ。そういった状況は、既存の価値観の重要性というか絶対性を相対的に希薄化させる*5。ニーチェっぽく言えば、「神は死んだ」のである。ニーチェがそう叫んで以降、その状況はますます加速しているわけだ。
そうして我々は、いままさに価値観が無限へと拡大していく中、つまりすべての価値観が失われていく中を生きている。価値観が失われるということは、善たるものの喪失を招く。しかしながら我々は、本質的に自らが善であることを望む。なぜならば自らが欲すべきものを善と名づけたからだ。
上で見たように人々が善を渇望するのは、価値観がますます多様化していくことに対する反動なのではないか。今まさに消えていこうとする善という概念に必死にしがみつくその力の強さこそが、道徳的潔癖さの根幹なのではないだろうか。
ちなみに、だからどうしたということは特にない。