少年野球に見る信仰と戒律

この間の土曜日の話。公園で野球の練習に精を出す少年たちを眺めていて思ったことを。

結構本格的な練習みたいで、コーチみたいな人が時折怒鳴ったりしながら、守備練習などをしていた。最初は、子供なのに上手いもんだなあとか思って眺めていたわけだが、やけに厳しいコーチに対して段々腹が立ってきた。


少し自分語りさせていただくが、私は中学時代サッカー部だった。はっきり言ってプロになりたいとか高校サッカーでどうこうとか、そういうのはまったくこれっぽっちも考えていなかったが、ただなんとなく、Jリーグも始まったし*1、ボール蹴って楽しければいいかなと思って入部した。にもかかわらず、我が校のサッカー部はなぜか近所のサッカー好きの大学生かなんかをコーチとして招聘し、しかもそのコーチはこともあろうか我々をしごきだした。やれ筋トレだ、ダッシュだ、マラソンだと、それこそボールを蹴ってる暇もないほどに。想定とまったく違った状況に辟易した私は正直慢性的にうんざりしていたが、部活辞めたらみんなに仲間はずれにされちゃうかも的な中学生特有の強迫観念にかられたこともあり、一応だらだらと部活動を継続していた。
するとどうだろう。ある日突然コーチがブチ切れたのだ。「遊びでやりたいやつはやめろ」と。このセリフは、今でもはっきり覚えている少年時代のショック体験ベスト5*2に入る。面喰う私をよそに「ウィス!」みたいな気合入った返事を返す部活仲間たちを目の当たりにして、当時十分なシニカルさを持ち合わせていなかった私は「みんなそんな真面目にやっていたのか」と素直にショックを受け、そそくさと退部するに至った。
しかしながらその後冷静になって考えてみても、やはりどうもいまいち腑に落ちていなかった。というのは、どう考えても私にはサッカーで食べていけるほどの能力はなかった。中学でサッカーやってる人の9割9分はそうだろう。つまり、サッカーは私の人生にとってまったく「役に立つ」類のものではなかった。それはどう考えてもそうだった。であれば「遊びとして」以外にどういう付き合い方があるのだろうかと。
考えるうちにそのうちどうでもよくなって、まったく忘れていたが、頭書のとおりふらりと立ち寄った公園で少年野球の練習風景を眺めていたら、当時の感情が蘇ったわけである。私は、その少年野球のコーチと、中学時代のサッカー部のコーチを完全に重ねていた。


あの「厳しい練習に耐えるさま」は明らかに「不自然」であると思う。
スポーツ脳に言わせればそんなことは不自然でもなんでもなくて、努力して勝利するという一連のプロセスに、いまさら議論の余地などまったくないのだろうが、きっとここ、はてな村はスポーツ脳不在の社会なので、この違和感をある程度共有できるような気がしている。生きるうえで別に何の役にも立たないスポーツについて、厳しい練習という負荷を背負い込むということは、少なくとも自然とは思えない。例えば、インパラを捕食するのに充分な脚力とあごをもちながら、それでもなお、より速くより強くと切磋琢磨し自己研鑽に余念がないチーターというのは、たぶんいない(たぶんね)。生存に必要ないからだ。

この不自然さと、年月を経て改めて向き合ってみて、当時よりは幾分マシな仮説に思い至った。

人間は、他の動物と比べて生存するための本能が弱いため、それを文化で代替している動物なのだと思う。しかしだからこそ、生存の目的*3さえ文化的に補完しなくてはならないのではないか。つまり、我々は生存するために、単なる生存以上の、人生の意味を欲する。行動に意味を与え、それ自体を目的化するというのは人間の特徴だと思う。野球少年の例でいえば、彼らは野球の練習という行動に、「今よりも上手くなるため」とか「憧れの先輩に認められるため」などといった自己実現的な文化的意味を与え、それ自体を目的と考えることに成功しているのではないか。そしてその目的を実現する手段こそが、ほかでもない「厳しい練習」なのではないだろうか。

そしてこれは宗教的な、信仰と戒律の関係に似ている。目的化された意味を信じることが信仰で、それに準じるための手段が戒律だという例え話だ。


とか何とか考えていたら、この図式は全てのことに当てはまるということに気がついた。

その最たるものが労働である。冷静に考えて、生きていくのに必要な以上にカネを稼ぐ必要なんかない。ビルゲイツやバフェットなど名だたる大富豪たちのあの巨万の富を、守銭奴的強欲さだけで説明するわけにもいくまい。あれらはまさに、富を蓄積するという行為自体について、それを善とするような意味を与えることで、それ自体を目的化した結果であると考える。あれだけの資本を得るにあたって、並々ならぬ努力を要したことは想像に難くないからだ。逆に、東南アジアあたりの工場労働者に成果報酬制を導入すると、自分たちが生きるために最低限必要な分の労働しかしなくなり、逆に労働時間が減るという例もある。(実例が掲載されたサイトのアドレスを失念。見つけ次第追記します。)どちらかというと、後者の工場労働者のほうが「自然」なのではないだろうか。

ちなみに、労働がややこしいのは、ただ生存を目的とした伝統的な労働と、それ自体が意味と目的をもつ近代的な労働に明確な区別がないことだろう。コンビニのおばちゃんにマジ切れした例の増田も、要はこの区別が全くついていなくて、コンビニのおばちゃんに近代的労働に対する信仰*4を強要したという図式であった。近代的労働に対する信仰がない限り、振りまきたくもない愛想*5を振りまいたりとか、気にいらない相手に笑顔を取り繕ったり*6することはまったく自然でない。ただクビにならない程度の働きをして、最低限の給与を得ればよろしい。人間にはそういう権利があると思う。伝統的な労働に従事する人間を、近代的な労働に対する信仰の欠如を理由に排除する行為は、要は生存権の侵害であって、社会として望ましいすがたとはいえない。

また、シュウカツの面接でスポーツの経験が比較的重要視されるのはつまりこの類似をふまえてのもので、信仰心の強さ、即ち戒律に対して従順な人を選ぼうという試みだろう。信仰心の強さは、それを信仰する社会におけるその人の強さをあらわすからだ。


ところで、スポーツや近代的労働はまるで宗教のようなものだという話をしたが、しかしそれらと宗教との間には決定的な違いがひとつあることもまた明らかであろう。
それは序列である。
スポーツも近代的労働も、その信者に対して露骨に序列をつける。スポーツは上手い下手があるし、近代的労働は生み出した価値をもとに給与が設定される。このことはつまり、必然的に弱者を生むのだ。小学校低学年から中学校にかけて、スポーツ信仰社会の弱者が学歴信仰社会に生きる道を見出すさまは、誰しも見覚えがあるものと思うが、その学歴信仰社会は、また新たな弱者を生むだけで、根本的な解決にはならない。これに対しておそらく宗教というのは、弱者が自らのためにつくった「序列を生まない」ということに対する価値信仰なのだろう。上のコンビニバイトの話でも述べたように、序列は必ず弱者を生み、弱者に対する差別は歴史的に見ても必ずと言っていいほど弱者の生存権を脅かすレベルに達する。だからこそ宗教や人権思想や憲法など「序列を生まない」ということに対する価値信仰が必要なのだ。


しかしながら、宗教心にしろ、人権思想にしろ、憲法にしろ、いずれにせよそういう全体で共有するような信仰が、価値観の多様化により機能しなくなっている現代社会において、「序列を生まない」という価値信仰を共有する社会とはどこにあるのだろうか。
私はそれは「家庭」であるべきだと思う次第である。


※つづき
低所得者が差別されて生存権すら奪われることの「仕方なさ」 - よそ行きの妄想

*1:私が中学入学した年に始まったはず。

*2:他に、父「お前とおれは対等じゃないんだ」、父「なんでもいいから話す癖をつけろ」、父「役立たず」、など。

*3:動物的自然において、生存こそがすべての目的であって、生存の目的なるものは存在しないという対比。

*4:ウェーバーっぽくいうところの「資本主義の精神」。

*5:振りまきたい場合は別

*6:気に入った相手の場合は別