空気を読めないバカが異常者として排除されるのは昔からよくあること(追記あり
小女子を魚というのが悪質という裁判官とそれを支持する者は、問題が全く見えていない - kentultra1の日記や、
「小女子予告事件」が有罪になった件がどうして言論統制になるのか一から説明して欲しい - 最終防衛ライン2のコメ欄を読んで思ったことを。
この話を漫然と眺めていた限りにおいては、私の意見としては「事実として小学校の生徒やその父兄に恐怖を感じせしめ、集団下校という対策までとらせたわけだから、威力業務妨害に該当するのは当然」くらいに思っていたのだが、上の二つの記事を見て、問題はもう少し複雑なのかと気がついた。
即ち、ひとつには、もともとの書き込みは「明らかに」単なる悪戯であって、その悪戯を恐怖を煽るレベルまで至らしめるには、別の力が必要であり、その力こそが「諸悪の根源」なのではないかという問題である。世間が「アホ」だとも言える。
ただ、この力やアホさは、悪意なのか善意なのかわからないので、これを断罪するのは現実的には難しいだろう。例えば、予告.in*1をたまたま見たが元スレまで辿りつくほどのネットリテラシーはないおばさんがいたとする。そのおばさんは、その小学校に通う生徒のお母さんとたまたま知り合いだったので、電話で「よくわからないけどお宅の○○ちゃんの小学校で少女を殺すみたいな書き込みがあったみたいよ」と言ったとする。その連絡に恐怖を感じたお母さんは、たぶん学校に相談するだろう。相談を受けた学校は対策をとらざるを得ない。
この一連のたとえ話のどこかに断罪されるべき悪意や重度の過失が見られるだろうか。確かに善意を装ったたちの悪い悪戯の可能性はある。しかしそれを断定するのは難しいのではないか。本当に善意の第三者として疑わしいものを通報したのかもしれないのに、いちいち悪ふざけの可能性を勘ぐることが果たして望ましいのか。
次に、冒頭で紹介した下のほうの記事のコメント欄でのid:y_arim氏の発言はさらに興味深いので、少し引用する。
あと、「その時期に紛らわしい犯行予告をすればどうなるのか容易に想像できるはず」「そのような時期に悪ふざけを行えば騒ぎになることも明白」これすっごくキモい考え方だよね。
戦時中、「時局認識不足」という表現があった。(中略)
事件が起きたあとに、紛らわしい書き込みをしたらどうなるか? なんて想像力を働かせることが容易であり明白である状況など、唾棄すべきだ。
要するに、アンチ・ファシズムだった。
タイトルはさすがに釣りというかネタというかたとえ話のようなものだが、現代社会において狂気が精神病などとして異常者の扱いを受け排除されることと、今回の件の図式は似通っている。
狂気は、それが特別他人を傷つけるようなものではなかったとしても、社会の常識が通用しないために何をしでかすかわからないという理由で、結果として排除されるのだ。人間は自分の安心のために相手が自分と同じであることを望む。その欲求を肩代わりする社会的な機能が、司法や精神科医といった、正義や正常を司る権力なのだろう。
そもそも人間の精神に正常も異常もないし、純然たる正義というものもなくて、あるのはそういう人の数が多いか少ないかだけだ。
今回の件の被告は、秋葉事件のすぐあと、予告.inなんていうサイトも跋扈しているような状況で、ああゆう殺害予告に見間違われるに違いないテキストを「悪の巣窟であるところの2ちゃんねる」に書き込むと、「ネットリテラシーのない善人」を中心に話が極端に膨らんで、ちょっと大変なことになるかも、という想像を欠いた。しかも実際にちょっと大変なことになってしまって、裁判にまで至ってなお、「2ちゃんねらーでニートなくせに」反省するどころかふてくされるばかりだった。
一連の態度は、「常識的に考えておかしい」。「常識」が通じないヒトには社会からご退場いただこう、というのが本件判決の意図だろう。
この「常識」という判断について、そんな常識を強要するなというのが、おそらく今回の判決に否定的な立場をとる人たちの主張で、これは要は社会的に虐げられている弱者による権力闘争だ。上の段落で括弧に括ったような何の根拠もない迫害からわが身を守ろうと言う話であって、当然の主張だとは思うし、やるべきだとも思う。2ちゃんねらーのニートやワープアはなにを考えているかわからない犯罪者予備軍というレッテル張りが、判決に至るまでの背景にあるような気は私もするからだ。
ただその方法として、アンチ・ファシズム的な流れに陥るのはあまり健全ではないと思う。
そもそも、上で考察の対象とした「ただの悪戯を恐怖を煽るレベルまで至らしめた力」についてそれを悪意であると断じる姿勢や、元スレの流れを辿れば一目瞭然であるただの冗談にうっかり恐怖してしまう(=空気が読めない)人をアホとして非難する姿勢は、それこそ常識の強要なのであって、自己矛盾に陥るからだ。
求められるのは、社会に迫害されているという事実を淡々と論証する姿勢ではないのか。
※追記
id:kentultra1さんのエントリでちょっとやりとりさせてもらったので、備忘録的にこっちにも転載させてもらいます。ご迷惑だったら消しますのでお手数ですがご指摘くださいませ。。
まずkentultra1さんのエントリ内で、私のブコメを取り上げてもらった。
2008年09月30日 chnpk 水面に石を投げたら波が立つのはあたりまえで、投げるやつが悪い。水面に罪はない
一見綺麗な例え話ですが、wikipedia:豊川信用金庫事件において、結果として多くの人に多大な恐怖と迷惑を掛けた友人B・Cは、その全責任を負って断罪されるべきででしょうか?とくに「明日にはシャッターはもう開かない」と言って回った者は、断罪する資格があるでしょうか?
それに対するレスをコメ欄にした。
>kentultra1さん はじめまして。
自分のブコメにレスをいただいていたのを今知ったので、いまさらではあるのですがコメントさせていただきます。
あげていただいた信金の例は実に面白い極論だと思います。
今回の件は、「秋葉事件の直後に」「ただでさえ怪しい匿名掲示板」に石を投げたという点が特徴で、ちょっとした小石でも大きな波が立つ可能性を察して然るべきだというのが世論だと思います。
信金の例はあまりに奇跡的な話の広がり方であって、察して然るべきという判断はできそうにありません。
ただしこの判断の曖昧さについてはもちろん議論の余地があるわけであって、今回の件はおそらく「ただでさえ怪しい匿名掲示板」というコンセンサスが世論になければ導かれなかったものだと思います。つまり、水面を波立ちやすくするような器のいびつさ、とでもいいましょうか。この辺を問題にする必要性を感じることは自分のエントリでも言及したとおりです。
もう一点は、うわさの発信源の反省の態度だと思っていて、今回の被告人が小石を投げた意図のうちに、波紋が見たかったというのが入っていると思われてもやむをえない状況で、さらに開き直るといのはかなり致命的でしょう。
警察のお世話になった段階で、「こんなことになると思わなかった。二度としません。お願いだから見逃してください。」と反省の態度を前面に出せば結果は全然違ったでしょう。
kentultra1さんからの返答。同コメ欄。
>chnpk さん
信金との自明な区分はないという共通理解が得られたと思って良いでしょうか。なお、chnpkさんは私の態度を「差別闘争」のように捕らえられているようですが、いささか飛躍に思います。私は「他人に迷惑をかけてはいけない」という常識を普通に支持します。その「迷惑」がどこで発生したのか精査せずに一方的な曲解で司法を含む公権力が暴走していることを非難しているだけです。友人B,Cが世にもてはやされる女子高生であっても同様の処罰を受ければ今回と同様に非難します。
>反省の態度を前面に出せば結果は全然違ったでしょう。
彼の擁護は本エントリの趣旨ではないので、そもそも私は法廷戦術や処世術として反省の素振りを見せるとか、そういう小賢しいテクニックの話しはしていません。というか彼には、「世間様」への迎合という処世術以外には、反省の必要が基本的にはありません。
私がもう一度返答。同コメ欄。
>kentultra1さん
レスどうも。信金との自明な区分はないという共通理解が得られたと思って良いでしょうか。
おっしゃるとおりです。
chnpkさんは私の態度を「差別闘争」のように捕らえられているようですが、
少し違います。今回の件を批判するには差別の構図を見出さないと、話はすすまないんじゃないの、ということです。暴走しているのは公権力というより、世論(多数派?)ではないでしょうか。
ちょっと勝手に↑の法律家見習いの人の言葉を拝借して補足させてください。
即ち、本件の争点はまさに「業務を妨害するに足る行為」か否かであって、その判断はまさに「現代におけるインターネット犯罪予告の一般的悪質性なども斟酌」されることによってなされたと推察するわけです。
であれば問題はこの「一般的悪質性」の出自かと思います。
たぶんこれを勝手にかつ過剰に判断したことをもって公権力の暴走だと感じたのがkentultra1さんの立場だと思うのですが、司法と言うのは思った以上に世論に気を使っています。自らの権力が国民の主権に立脚するわけですから当然と言えば当然です。
では世論とはなにかという話ですが、これは残念ながらワイドショーと電車の中吊り(週刊誌)です。これは公権力が暴走しているわけではなく、世論の程度が低いことの帰結です。
この構図がおそらく問題の中核なのではと思うわけなのですが、これは情報を受け取る個人(=水面)の問題ではなく、社会(=器)の問題だろうと言うのが私の認識です。
社会を問題にするには個人を問題として扱わざるを得まいというのはご尤もな反論としてありますが、社会を問題として扱う場合の個人に対する情報発信はまた少し方法論的に異なるべきかとも思います。
kentultra1さんからの返答。同コメ欄。
>chnpkさん
ご解説ありがとうございます。なるほど。確かに観念的に筋が悪いやり方ですね。ご指摘感謝します。しかし、私はそれでもなおこの方向を志向します。なぜなら、既に述べた通り、本件で問題視する個別的問題と迫害という広い問題の間にはやはり距離があると考えるからです。お互いにブーメラン同士の殴り合いに陥るとしても、永遠にそれはどうしょうもない事だと思うのです。
同意にこそ至らなかったものの、意志が伝わると言うインターネットでは極めてレアなケース。
この距離感についての感覚と、「ブーメラン同士の殴り合い」の有意性は極めて主観的な議論にしかならないので、この話はこれでおしまい。