「スイーツ(笑)」という行動様式

1ヵ月半くらい前に私が書いた
スイーツ(笑)は甦らない。 - よそ行きの妄想という記事に、さきほどご返信を頂戴した。
はっはっはっは
見ていただければわかるとおり、専門用語が多くて難解なのが玉に瑕だが、私のくだらない問いかけに丁寧に対応してくれたので素直に御礼を言いたい。ありがとうございます。

さて、おかげさまで私の拙い理解は大分深まったものの、あたまがわるいのか、実は当初の疑念はあまり払拭されていない。
即ち、それはid:magician-of-posthuman氏が提唱する、『「スイーツ(笑)」のコミュニケーションが各種の機能システムに回収され得ないというテーゼ』に対する疑念である。


論点としたいのは下の引用部分のみ*1

しかし、システム論や埋め合わせ論、あるいは負担免除論は、こうした阻害論を単純に受け止めようとはしません。機能システムに回収されないが故に、派生的に構成される新たな概念(意味形式)に気を配るからです。そこで着目されるのが、「愛」や「道徳」や「人格」です。システム論的に大雑把に言えば、こうしたコミュニケーションは、情熱という形式に方向付けられた上で、親密さの度合いに基づいて構成されていきます。

引用部分の内容自体は、おそらく正しい。機能的に分化し専門化した社会は排除又は疎外される者を生み出し、彼らはその負担を免除するために「松葉杖代わりの形而上学的概念」に頼る。私も書店に赴き、「愛とは何か」「人生とは何か」を説く眉唾的自己啓発本や江原なんとかの売れ行きの好調さを見るにつけ、資本主義経済の高度化の弊害を感じる。


しかしながらこのことは、『「スイーツ(笑)」のコミュニケーションが各種の機能システムに回収され得ない』という命題を導かない。
私の認識では、「スイーツ(笑)」のコミュニケーションは、「愛」や「道徳」や「人格」といった形而上学的概念のいずれにも当てはまらないからだ。


おそらく、そもそもの発端となったid:iammgさんもそうだと思うが、少なくとも私は、『「スイーツ(笑)」のコミュニケーション』という単語を「恋愛に対する信仰」のような意味合いで用いている。ひとことで言うと「コイバナ」。

愛と恋愛は違う。

定義することは難しいが、愛とは人間の内的(本能的?)なものであって、恋愛とは文化である。愛は概念であるが、恋愛は行動の様式である。愛は利他性を表すが、恋愛とは利己性である。

ただまあ、この定義は私が勝手につけたものであって、勝手な定義で反論を気取られてはかなわないというご指摘は確実にご尤もなものとしてあるので、反論と言うよりはそれこそひとつの問題提起くらいに受け取っていただけるとありがたい。


しかしそうは言ってもだ。イケメンをゲットするためにみんながみんな愛されゆるふわカールに収束していくさまは、文化的行動としか形容しようがない。

彼女らの行動を言い表すにあたって、『情熱という形式に方向付けられた上で、親密さの度合いに基づいて構成され』るというよりも、モテという真理への欲求によって方向付けられた上で、イケメンからの愛され力という価値基準に基づいて序列付けがなされるという方が近くないだろうか。

真理のゲームである。

さらにこのことを決定付けるのが恋愛の売春化という傾向であって、彼女らは結婚というイグジットによって、愛され力のキャピタルゲインを得るだけにとどまらず、恋愛の自由化によって倫理的抵抗が下がった援助交際というツールを用いて、愛され力による配当収入までも得るに至っている。

これはもう経済システムだろ。


もしそういった恋愛感があって、それを「スイーツ(笑)」と呼ぶならば、「スイーツ(笑)」は以下の社会システム群、特に経済や宗教などと並列に扱われるべきものであって、

経済、法、政治、学術、芸術、宗教、教育などといった諸領域

以下の崇高な概念とは区別されるべきものではないか。

「愛」や「道徳」や「人格」


ということが言いたかった。論点ずれ*2&駄文スマソ。

*1:他の部分は完全に同意します。というかぎりぎり理解しました。

*2:あれ、でももともと議論を吹っかけたのはおれだから別にいいのか。