金持ちの不幸と貧乏人の幸福 (追記あり

はてなブックマーク - またかよ - good2ndにて、id:kyo_juid:y_arimとやり取りしていてふと思ったことを。

金持ちの不幸は、身の回りのあらゆる些細な問題がその豊富な資産によって大抵解決されてしまうがために、自分の病や死など解決しようのない不安に苛まれることだろう。

貧乏人の幸福は、身の回りに些細な問題が山積しているがために、自分の胃の調子がおかしいことに無頓着でいられることだ。

現実に抱えている不安の大きさ・深刻さで比較するときっと金持ちの方がそれは大きく、大きな不安を抱えている状態のことを不幸と言うなら、金持ちの方がずっと不幸だと思う。人間の生命が有限である限り、不安からまったく開放されることは不可能だから、それをどう誤魔化すかということが要は生きる知恵だろう。

自分が貧乏であることから派生する幸福に気が付かない人は、金持ちになれば幸福になれるのだろうか。


思うに、消費的な欲望の充足の先に幸福なんてない。もちろん、他人との比較でもないし、誰かを不幸にすることでも幸福にはなれない。

当たり前のことだけれども、見方次第によって誰の中にも幸福はあって、それを自分でいかに上手に見つけることができるかどうかだろう。


社会との関係で言えば、社会とは個人が生存するにあたっての「環境」を整備するものであって、その先に万人の幸福があるかといえばそれはまったく別の問題だ。その意味で、我々は突如無人島に放り出されたらおそらく生きていけないのに対して、明日例えば家や職を失ってホームレスになったとしても死にはしないという目処がたつのだから、社会はその役割を十分に果たしている。

そういった社会を形成する上で設けられた経済などのさまざまなシステムがときに人間を疎外するということは確かにあって、その対象となった人が人柱のように見えることは否定しないし、そのシステムは人間と人間の間に格差を設けたかもしれない。金持ちは貧乏人から搾取したカネでより大きな欲望を充足させているかもしれない。でもだからどうしたというのだろう。

健康な人ほど病気の人を不幸だと思いたがるが、病状が昨日よりもずっとましな日や、家族が見舞いに来てくれた日は、健康な人には感じられない喜びを感じているかもしれない。そうして生命をより強く感じることができるなら、病気の人は健康な人よりも幸福だとさえ言えるかもしれない。何かを正当化しているわけではない。可能性の問題だ。機会が平等に与えられていることは望ましいが、結果が平等であることは害悪の方が大きい。現状とは結果だ。そして未来でもある。


結局、健康な人に病気の人の気持ちはわからない。わかった気になっているのは「健康な状態で考える病気」についてだ。いま自分にあるなにか、または自分が欲するなにかが「ない」状態としての理解であって、そこになにが「ある」かは理解できない。

たとえば、ホームレスについて、彼らは差別されているとか、保護するべきだとか、薄汚い欲望を垂れ流しているやからは大勢いるが、あれは自分の欲望をホームレスにただ擦り付けているだけだと思う。ホームレスを欲望の世界に引きずり戻して、一体誰が得をするのだろう。

それが医療であれ、人間の欲望というのは際限がないだけに、逆に意味がない。それを満たしても何も得ることはできない。

「足ることを知る」とはそういうことではないの。


幸福論 (岩波文庫)

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※追記(コメ欄のやり取りを経て。)
私の思う理想の社会とは、道にバナナがたくさん植えられていて、誰でも比較的容易にそれを勝ち取れるような社会だ。困窮者にはバナナを無償で与えよという運動や、僕の持ってるりんごをお食べ的な活動がある社会は少し気持ちが悪いと思う。バナナやりんごを与えられることで、与えられた人は何かしらの枷を負うことになるだろう。バナナを与えられたら次はメロンが欲しくなるかもしれない。
誰しもが自分のためにバナナを植えて、余ったバナナが自然と自分以外にも行き渡り、それが自然に許容される社会がよろしいのではないだろうか。
参照:低所得者が差別されて生存権すら奪われることの「仕方なさ」 - よそ行きの妄想