エスカレーターの上で歩く人と止まる人
むかーしからこういう議論はあって、ちょっと検索しただけでもたくさんの自称論壇に出くわす。
かくいう私も少し前までは、エスカレーターを利用しながらにわざわざ歩くという行為はエスカレーターという制度の想定外利用にもかかわらず、その行為者(いわば制度の違反者)が、止まる人たちに対して片側を空けるように無言の圧力をかけてくるのが実にけしからんという論者だった。
確かに、階段を上るよりエスカレーターを上った方が若干早い。それは理解するが、誤差程度の違いだ。それをわざわざ歩きたがるってお前、忙しぶりたいだけじゃないんかと。それ単なる制度外利用ですから、残念、と思っていた。稀にわざと右側(空けるべき側。関西では左側。)に敢えて立ち止まり、お手軽な階級闘争を楽しんだりさえしていた。
しかし先日ふいにあることに気がついた。実に当然のことなのだが、階段を上るのとエスカレーターを上るのを比較した場合、エスカレーターを上る場合の方が上る段数が減るのだ。エスカレーターを上っている間中、エスカレーターの段数は到達フロアに順次吸収されていく。上るのに時間をかければかけるほどエスカレーターの段数は減ぜられることになり、止まって利用した場合にかかる時間において、その段数はゼロになる。上りのエスカレーターで降りることも可能なので、段数にはマイナスもある。
考えればすぐにわかることなので、賢明な読者諸兄におかれては別に説明は不要と思うが、上で書いたように時間的な尺度に捉われてしまっていた私には、上るという行為内に存在する段数的な差異がすかっり盲点になっていたようだ。
より私の中での発見に近い言い回しをすると、つまりこういうことだ。エスカレーターでわざわざ歩く人のインセンティブというのは、時間の短縮という階段を上る人及びエスカレーターで止まる人との間の比較におけるポジティブな動機だけでなく、上る段数の減免という階段を上る人との比較におけるネガティブな動機があり得たのだ。
そしてもっとも興味深い発見はこのあとだ。即ち、私の心情なのだが、このことを発見して以来、なんとエスカレーターで歩く人にあまり腹が立たなくなったのだ。つまり、同じ制度外利用という行為であっても、ポジティブな動機を推察する場合とネガティブな動機を推察する場合とで認識される受け取り方が異なったのだ。
これは、私の当初の怒りが、制度外利用などとはまったく別次元のものであったことを如実に表す。私の怒りは、制度外利用に対する義憤のような形式を装っていたが、単なるポジティブ思考に対する嘲りだったのだ。前向きな精神に向けられた嫉妬や妬みと言っても過言ではないだろう。
この、自分の単なる嫉妬や妬みなりから来る単なる不快感を道徳や正義にこじつけて他者を批判するという図式を、私は猛省すべきと捉えたが、世の中を観察するにこの図式は実に多方面で散見される。
うちの息子(3歳)はまさに典型で、例えば私に叱られるなど、彼にとっての嫌なことがあると、保育園で習ったらしい善悪の尺度で私を断罪し、泣きながら罵ってくる。反逆だ。ところが彼の例でわかりやすいのは、そもそもそこまで話がこじれるケースというのは、往々にして彼が眠いときなどであって、つまりまったく話の筋とは関係がない原始的な不快感こそが彼の怒りの原因なのだ。ここまで関係がないと逆にわかりやすい。つまり私に叱られるという出来事などは単なるきっかけに過ぎないばかりか、きっかけすら原始的な不快感との因果だ。不快感ありきで、それを顕在化させる機会を探しているのだ。
おそらくこれは人間の原始的な行動様式のひとつではないのではないか。自身が再び陥らないためにも、不快感を顕在化させること自体が目的化している行為として、とりあえず不快感ドリブンとでも名づけておこう。*1
ちなみに、最後にべき論を展開すると、行為のドライバーは不快感ではなくて、利害やリスクであるべきではないか。それが近代的な理性というものだろう。
■追記
ちなみに、橋下知事が女子高生を泣かせた事件で、id:y_arimさんは何をそんなに怒っているのかが少し気になる - よそ行きの妄想というエントリーはこの辺の観察を意識したものだったが、結局よくわからんかったという失敗。