ソーシャルキャピタルを構築する経済的営みとしての擬似科学批判

宗教と科学と疑似科学とニセ科学について - よそ行きの妄想に寄せられる批判などを見ていて、以下のような視点との共存関係を示せばご納得を得られるのではないかな、という。

経済的な視点からすれば、科学的な商品と擬似科学的な商品では経済的な価値が異なる。科学的商品はそれこそ然るべき検証を経て、その価値の確からしさを高めたものであり、その確からしさ自体が価値であるからだ。

本来的な経済的価値が低いにもかかわらず科学的商品を装った擬似科学的商品を科学的商品と見誤り、科学的商品と同等の対価を支払った場合は、損失が発生することになる。これは信じているのなら問題ないとか、いいとか悪いとかという類の話ではない。経済的損失は経済的損失である。『Archives » ページが見つかりませんでした』という記事が俄かに注目を集めているが、これはヴィトンのバッグに例えることで科学的な視点を排除したために、この損失に関する記述もわかりやすいものになっている。視点を単一化する(論点をすりかえる)ことで理解が容易になるのはよくある話だろう。


そして、この経済的損失については、自己責任として問題自体を切り捨てることもナンセンスである。

なぜなら、ミクロレベルにおいて経済的損失を歓迎する経済主体というのは存在しないので、判別が困難な模倣品が世の中に跋扈すると、必然的にミクロレベルでの対策が活発化する。具体的にいえば、都度、信頼できる専門家などを探し出してその真贋の判定を依頼するという行為である。これは心理的、時間的にも高コストである。そしてミクロレベルで、個別にコストを払い続けると言う行為は社会全体から見て非効率なのであって、社会の経済発展を阻害する。無論、経済的に。


ここで望まれるのが、模倣品の販売事業者に対する道徳的規制や、模倣品に対する真贋を可能にするノウハウの共有といった、模倣品を排除するための社会的な仕組みである*1。そしてこの仕組みをソーシャル・キャピタルと呼ぶことにしよう。*2

ソーシャル・キャピタルは道徳や倫理といった、原始的な規範として人間の行動に組み込まれたときに最も機能する。例えば盗みはダメ、詐欺はダメ、お客様は神様だからタメ口を使ってはダメ、路地裏をクルマで走り回って写真を撮り漁ってはダメという具合だ。

これら規範の違反者は、批判され、糾弾され、ソーシャル・キャピタルの枠組みから排除される。村八分と言ってもいいかもしれない。つまりは、これは道徳の経済的観察である。

日本の生産性が低いと言うのはよく言われることだが、おそらくこのソーシャル・キャピタルという無形資産を貨幣的に換算すれば、かなりいいところにいくのではないかというのは私の所感だ。


さて、疑似科学批判の話に戻ると、その疑似科学が、科学的検証のプロセスをまったく経ずして、科学を模倣し、不当な経済的価値を実現せしめんとするような、いわゆる悪意の下にあるのであれば、これは道徳的に不正義であって、これを排除するよう努めることが経済的に価値があることは上で述べたとおり。

また、科学と疑似科学の境界線を素人にも分かりやすく定義しようと言う試みについても、相当に難しいとは思うが成功しさえすれば、疑似科学を利用した科学模倣と言う悪意を抑止する効果を持つだろう。より高次な模倣を突きつけることによって、今度は模倣自体のコストが上昇するからだ。


こうした意図のもとに行われる疑似科学批判的な取り組み自体について、私は相当の困難性が伴うとは思うものの、その趣旨に対しては批判的な立場にはない。

ここで、私の批判の対象をもう一度引用しておく。

科学に無知なままに行われる科学的区別に基づく疑似科学批判と、科学的信仰を普遍化するようなニセ科学批判(及びその布教活動)
宗教と科学と疑似科学とニセ科学について のコメント欄

である。つまり、経済的な目的から離れ、科学的な区別に没入する姿勢、勢い余って科学的な区別と道徳的な区別を混同する姿勢である。つまり、「ニセ」科学的疑似科学批判とでも言うか。まして、それが科学的に無知のままに行われかつその行為に他者に対する啓蒙が含まれるのであれば、それはもはや害悪の領域である。無論、経済的に。

経済的な効率を重視すれば、科学的な区別に没入する必要性はない。<科学的>な立ち振る舞いを味わいたい場合を除いては。

信頼に値する権威に対して然るべき経済的報奨を支払い、悪意を量産するものに対しては経済的制裁を与えればよい。ソーシャル・キャピタル的には職業的倫理観の醸成に心血を注げばよいだろう。いずれにしてもそこに科学的な区別は必要ない。


ということで、もし上であげたような、私の批判対象たる姿勢が世の中にまったくないということであれば、前回前々回のエントリーは撤回させていただくがどうか。


■追記
書き終わってすぐに、視点の作為的な移動と言う意味で実に的確なエントリーを見つけたので紹介しておく。
ニンゲンは賭けをする。そのとき科学は宗教になる。(追記アリ - 地下生活者の手遊び

だから、疑似科学はその【割のよさ】を擬装して、投機を誘おうとするわけですにゃ。chnpkにもわかりやすいように説明すると、疑似科学は偽ブランド品というよりも、リスクなどの説明を誤魔化した債券や証券といったほうがいいのではにゃーかと思う。あるいは偽札かにゃ。
したがって、疑似科学を縮減するように社会的に取り組む必要はあるのですにゃ。
(同エントリーより抜粋)

おっしゃるとおりであるが、敢えて言えば疑似科学(被害)を縮減する取り組みの是非と科学的区別の重要性は、また別。


■追記2

id:karaage280 批判の対象をもっと具体的に示してもらいたい。

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や、

id:You-me [社会] 「私の批判対象たる姿勢が世の中にまったくないということであれば〜」/その前にはてなーの中にいたのかどうかchnpkさん自身が言わなきゃだめよ。そして何よりこのエントリ「違いは大事だった」ってのの確認だよね?

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など、どうも私の批判対象を明確に把握した人が多いようだ。ただ、これについては申し訳ないが、具体的に誰それと名指しで提示することは難しい。というのは、私の批判の基準として「科学に無知なままに」とか、「科学的区別に基づいて」とか、「科学的信仰を普遍化」とか、ちょっと傍目からでは判別がつきづらい要素が多分に含まれるためである。推論と受け取っていだたくわけにはいかないのだろうか。

ちなみに、id:You-meさんの指摘事項である『このエントリ「違いは大事だった」ってのの確認だよね?』について一言述べると、当初から「科学的区別は必要ない」という論旨は変わってないはずだ。そのうえで、本物とニセモノを経済的に区別する必要性について指摘をされているのなら、間違いない。


■追記3(11/19)
と言ってもなお、

id:YAOsan [ニセ科学] chnpkさんの判断基準を知る助けにしたいから,”chnpkさんが”「科学的に無知and/or科学的信仰を普遍化という態度を取っている」と判断した対象を挙げて欲しい.他人が同意する基準であることは要求しない.

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というリクエストが来るので、まあ仕方ないから敢えて言おう。有名そうなところをテキトーにあげると、

  • 科学的区別に無駄に没入している例

はてなダイアリー
まあ、詐欺に対する反応だと言われてしまえばほんとにそれまでなんだけど、記事中に取り上げられているような、明らかに怪しいわけのわからないものを批判するのに、科学とか疑似科学とかという視点はいらない。なんぼ出産が不安でもまともな神経(←疑似科学??)を持ち合わせれば近所の産婦人科にでも行って相談するだろう。逆に、藁にもすがりたいならすがればよろしい。大体、疑似科学疑似科学と太字で騒ぎ立てる割には、その批判は全然科学的でもなんでもない。「リアル専門家」と称される謎の権威が引用されているに過ぎないのだ。話はgoogleの広告審査がまともかどうかに及ぶが、この記事自体の判断がまともかどうかがそもそも怪しい。

  • 科学的区別と何か他のものを混同した挙句に、科学を妄信している例

NC-15
今朝見つけたんだけど、ニセ科学の行く末はホロコーストなんだそうだ。だったら科学の行く末は核戦争なんじゃないのか。ニセ科学は悪意の結果なのかもしれないが、原因ではないだろ。また、こうしてニセ科学を「悪者視」することで、科学の危険性が盲点になる危険性を感じる。悪意の下にあって、本当に危険なのはニセ科学なのだろうか。ただこれも、科学とニセ科学を区別する基準が周知されていさえすれば悲劇を防げたかもしれないという可能性の話だとかなんとか言われれば、まあそうねとしか言いようがない。しかし少なくともこれを読んだ人のうちに一人くらいは、ニセ科学=悪、科学=善みたいな不思議な図式を脳内に構築してしまう人がいるのではないの。

*1:ここでは法的な取り組みは度外視する

*2:[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%94%E3%82%BF%E3%83%AB:title]