脱魔術化の無限後退を体感してみました
私が書いた『ソーシャルキャピタルを構築する経済的営みとしての擬似科学批判 - よそ行きの妄想』にトラックバックされた『批判の批判に批判する - M59の記録』という記事が見事に私の盲点を照らしたので紹介しておく。
科学に無知なままに行われる科学的区別に基づく疑似科学批判と、科学的信仰を普遍化するようなニセ科学批判を批判しているという。つまり、科学を知らないで、科学を盲信・妄信する輩を批判している。
批判の批判に批判する - M59の記録
科学を知らないで、科学を盲信・妄信する人は、結局「擬似科学も信じてしまう(信じるおそれのある)人」ってことだ。結局、これはただの擬似科学(妄信・妄信)批判だった。
擬似科学批判批判論を、盲信する人に言い聞かせたって意味はない。その論自体を盲信するだろうから。この問題の解決策は、科学(=物事を盲信・妄信しない姿勢を保つこと)をさせることなんじゃないか。
私は科学的区別を排除しようとしたのだが、【ものごとを盲信せずに常に疑う姿勢を科学的な振る舞いと言うなら、科学に対して盲信的な】*1疑似科学批判と言う疑似科学を批判することで、自らが科学的に振舞ってしまっていた【も科学−疑似科学の区別から脱しきれていなかった】ようだ。そして、意図せずして科学的に行われた【もしそうであれば必然的に】私の疑似科学批判もまた疑似科学に陥ることになるだろう。これを脱するには自らが疑似科学である可能性に常に科学的に言及しなくてはならない。さらに言えばここで行われる科学的言及もまた疑似科学化する。
という考えに至った。
科学と疑似科学はこういう関係なんではないの。
■追記
うーんと、、
引用したエントリーにあるように、私の批判がもし「ただの疑似科学批判」だったのであれば、私は結局科学−疑似科学的な区別から抜け出せていなかったということになるわけでしょ。そこから抜け出したかったのに。
そういう話。
科学的に振る舞ってしまっていた という言い方が気に障るんでしょうね。科学を信じる方にとっては、科学的に振る舞うということはある意味目標ですものね。失礼しました。
科学−疑似科学の世界から脱しきれていなかったとかにすればいいのかな。
■追記2(11/21)
『疑似科学批判とは | いずれの道にも』を読んだところ、『ご自身のエントリのことを「科学的」と称しているが、』と書かれていて、この誤解は私としてさすがに恥ずかしいので、以下のようにコメントを残してきた。私が科学的に振る舞えば、疑似科学に陥ることは必然だということが趣旨。
すいません、ひとつだけ誤解を解きたいのですが、私は自分のことを科学的と称したかったわけではなくて、疑似科学的と称したかったのです。だからこその矛盾です。私が科学的に振る舞えば、疑似科学に陥ることは必然だと思います。
私は疑似科学批判の批判をしているつもりだったのですが、ある一面において(かなにかよくわかりませんが)私が批判する対象である「疑似科学批判」は、「疑似科学的な疑似科学批判」でした。つまり私は「疑似科学批判」の批判をするつもりで、疑似科学批判という振る舞いをしてしまっていた可能性があるわけです。私が疑似科学批判をしてしまっていたのであれば、私の振る舞いは科学的でなければおかしいと言うことになりますが、疑似科学批判の批判をまったく他の区別で行うことを意図していた私は、当然にまったく科学的ではありません。これが矛盾です。
疑似科学批判とは | いずれの道にも
■追記3(11/22)
ところで、私に科学的な姿勢とは『物事を盲信・妄信しない姿勢を保つこと』だという定義を突きつけてきたid:mandel59さんという方は、以下コメント欄にもコメントをいただいているが、どうやら同定義について撤回する方向らしい。
僕は理系さんという方の指摘によれば、科学的な姿勢とはそういうものではなく、帰納と演繹を信じることだということだそうで、その場合、上の本文はただの間違った定義に基づく思考実験ということになる。
*1:やかましい人が多いので追記。