他者による不快感の表明に無自覚でいたいというのもちょっと違うし、立場的な優位性を利用して他人を攻撃するのもキモいし


なんとなく体罰の話を眺めていて、これって教師と生徒の関係(前者に立場的な優位性がある)だからわかりづらいんだろうなーって思って、おなじみのはてなブックマークネガコメ騒動に改変してみたら妙にしっくり来たので、大した意味はないが晒してみようかと。

以下、学校で体罰うけて成長した人、いる?を元にコピペ改変*1

ネガコメがブロガーのためになるかならないか」みたいな議論を眺めていて思うんだけど、これ、「自分の受けたネガコメが自分のためになっているかどうか」って視点で考えてみたらどうだろう。「自分のためになったかどうか」は「よそのブロガーのためになるかどうか」なんかよりはるかに明確な答えを出せる問題だし、そこから議論を始めても良いんじゃないだろうか。「むかしネガコメを受けてためになったから自分もネガコメする」なら一応筋は通るけど、「むかしネガコメを受けたから自分もネガコメする」じゃ危ない人の論理だよね。「ためになった」にしろ「ならなかった」にしろ、ネガコメが日常茶飯事だったトリアージ論争とか人権論争とかの経験者ならきっとみんな即答できるだろうと思うんだけど、どうかな。

私(1980年生♂)の場合、特にためになったことはない気がする。強いて言えば「ブックマーカーだって聖人君子じゃない」って学んだことが収穫だろうか。叩かれたり[死ねばいいのに]タグ付けられたり増田で晒されたり田代砲打たれたりリアルに突撃されたり色々あったけど(これでも私はアクセスランキング上位、品行方正で次期はてなムラ村長の呼び声も高かったりするトップはてなーでした)、たいていブックマーカーの誤読か、そうでなければ単なる党派の利害。ブックマーカーを侮る理由になりこそすれ、敬う理由になることなんてなかった。逆に「このブックマーカーのおかげで成長したなあ」と思えるブックマーカーはネガコメなんてしなかった人ばかりだったな。そういうブックマーカーのコメントには暴力的なタグを出さずとも有無を言わさない説得力があった。「信頼できるブックマーカーからのネガコメなら身に染みるのかも」とも思うんだけど、信頼できるブックマーカーってネガコメしないんだよね。ということで、少なくとも私の経験から考えれば「ネガコメ=短気で能力のないブックマーカーが駄々をこねている」という解釈が一番しっくりくる。個人的には「はてブでのネガコメが役に立った」なんて人が本当にいるのか疑問に思ってるくらいなんだけど……はてブネガコメうけて成長した人、いる?


だからどうしたって感じだけども。やられる側の成長(←人による)だけを尺度にするのもなんかおかしいような、という以外の違和感はない。

まあやる側からすれば、不快感の表明は必要だろう。id:y_arimさんがよくブコメで下に引用したようなことを言ってるけど、結構尤もだと思う。

考えなしにただ【ネガコメという】悪意も憎悪も遠ざけようとする愚か者がこの地上から一掃されることを願う。「悪口を言うあいつら」を「理解できない」と糾弾することで己の悪意をアウトソーシングできると思ったら大間違いだ。*2

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やられる側も、不快感の表現方法として体罰やネガコメがあることを知ることで、得られるものはある。他人を不快にさせて得をするという仕事は多分ないし、不快の程度も知って損はないだろう。単純に他者の不快感を遠ざけたいというのはムシが良いというか、後ろ向きすぎというか、ちょっとなんか違うと思う。

ところが、立場的な優位性を利用しているのであれば、一転してあまりに暴力的だし最高に気持ちが悪い。で、利用しているかどうかの判断は難しいから、全部禁止にしてしまえという意見もよくわかる。

結論的なことを言うと

教師の優位性は立場的にも時には身体的にも断然明白だから、はてブは放置、教師は規制ってのがまあスジなのかなあ。

ちなみに

以前に書いた下の記事は、はてなブックマークのシステムが、1対多のコミュニケーションという立場上の優劣が生じる状況を構成する、ひとつの要素になり得るという可能性についての話。
はてブのなにが気持ち悪いのかさっぱりわかりませんという人が多いので説明してやる - よそ行きの妄想

*1:ちなみにコピペ改変は自身初トライ

*2:【】内引用者補記