被害者の自己責任と加害者の人権
『「責任」スタグフレーション - 国語の成績が悪い』を読んで、以下「ぼくのかんがえたほうりつ」を展開する。
論点整理
同記事で話題になっているのが、尊属殺重罰規定違憲判決についてである。同記事内では『�����E�d���K���ጛ�����@�㍐�R』が取り上げられているが、『尊属殺法定刑違憲事件 - Wikipedia』の方がわかりやすいので、あわせてご確認いただきたいところだが、あまりにも胸糞の悪くなる事件なので、心臓の弱い方のために以下にソフトに要約しておく。
要は、親から暴行を受けた子が、その親を殺害してしまったのだそうだ。で、当時の法律では子の親殺しは(儒教的な系譜だと思うが)普通の殺人より刑罰が重く、死刑と無期懲役のみが法的に規程されていたが、最高裁はこの法律について、法の下の平等を謳う憲法に違反しているとしたうえで、被告人に懲役2年6月執行猶予3年を言い渡したのだそうだ。
で、この事件の被害者、つまり殺害された親は「自己責任」であるというのが判決の趣旨ではないんか、というのが同記事の論点。の様子。
司法の論点
結論から言うと、私は違うと思う。判決の趣旨は「被害者の自己責任」ではなくて、「加害者の権利」だと思うわけだ。
まず、思うに国家とは暴力を独占する機関であって、法がその行使の手段であれば、裁判とはその暴力の適正性を担保するプロセスに他ならず、その争点は当該暴力(=刑罰の適用)の対象たる加害者の人権以外にはありえないのではないか。
国家が暴力を独占する機関であることは、同記事内にも『ホッブズの社会契約説以来、警察と軍隊という国家権力にだけ暴力(リバイアサン)が委託され紛争や不平等は最小化されるようになっているはず』*1とあるので、ここで誤解が生じる可能性は少ないだろう。では憲法がなにかといえば、国家の暴力が暴走しないための取り決めであるということにも異論はないはずだ。そしてその憲法という原理原則の下で、国家が暴力を行使する局面や方法を細かく規程したのが法律ということになるだろう。司法権が立法権と分断されている理由も然りだ。国家権力の暴走を監視するためと言えるだろう。つまり、法律によって誰かが裁かれるという場面において、それはまさに国家による暴力が行使されようとしてるわけであって、司法権はその暴力が適正なものであるかどうかを最大の論点にする必要がある。必要があるというか、司法権はそのために存在しているのではないのか。要するに、裁判の論点は構造上、常に「加害者の人権」なのであって、「被害者の人権」ではありえないと思うわけである。
こういう書き方をすると、被害者の人権を無視するのかなどとして、顔を赤らめたエセヒューマニストから厳重な抗議をいただきそうだが、被害者の人権が関係ないかと言えば、当然関係ある。但し、それは既に侵害されたものであり、誠に残念ながら、極刑をもってしてももはや取り返しはつかない。あくまでも暴力の連鎖を食い止めるのが国家の役割なのであって、被害者の損失(害)を補填するということではない。加害者が法に則ってその罪を問われるのが司法の場である。そういう意味で、被害者の人権や、もっといえば社会の秩序もまた、裁判上の論点ではない。それらはどちらかと言うと立法の問題だろう。
司法のロジック
であれば、加害者の量刑を決定するにあたっては、被害者が被った損害と「被害者の自己責任」から加害者の責任を逆算するのではなくて、為された罪状を法律に照らし導かれる最大の量刑をもとに、加害者の権利を考慮してそれを減免するというアプローチが適当なのではないのか。
前者のアプローチによる場合は、当然第一に被害者の責任の範囲が定義されることになるだろう。「責任」とは何かと言えば、自己のとった行動から生じる損失や損害について、当然予想されるべきものについては、自分で負うべきということと考える。他人の権利を侵害したのであれば、その当然の帰結として、報復または罰というかたちで自分の権利が侵害されることは覚悟しなさいよということだ。
そして「責任」の範囲を考えるにあたっては、フランク・ナイトが提唱する「リスク」と「不確実性」の区分が有効なように思う。簡単に説明すると、ナイトは所与の情報によってそれが起こる可能性についての確率分布が思い描けるものを「リスク」、確率分布を思い描けないものを「不確実性」と定義した。*2自己責任が適応されるのはこの「リスク」についてではないか。つまり、当然知るべき情報を知らなかった、若しくはその情報から当然予期できる危険に備えなかった、という場合に「責任」が生じることになる。
こう考える場合、司法のロジックとしては次のようなものになるだろう。即ち、被害者は、これだけの情報は知っていたかまたは当然知り得べきであったから、その行動はこれだけのリスクを有することになる。対して被害者の被った損害はこれだけである。リスクとして予期が可能な損失(害)と実際の損失(害)の差はこれだけだから、よってその差の部分は加害者の責任である、と。
このロジックに準ずると、当然次のような疑問がつきまとう。以前にある通りを歩いていて通り魔的に刺殺された人がいたとする。するとその通りを歩いていて刺殺される確率は一応計算できることになるが、では次に備えなくその通りを歩いていて刺殺された人は「自己責任」なのか。逆に、加害者の意思を確率論的に知り得る方法があるのかというと、これは当然ない。【つまり、犯罪をある程度自然災害的に捉えれば、単純な確率を過去のデータから予測することが可能だが、犯罪を悪意の結果と捉えると、その可能性を定量的に把握する手立てはなくなる。その悪意が復習や報復の類であってもだ。】*3これらは極論だが、司法がこうした論理的アプローチを採用した場合に、どちらの極論によるかと言えば無論後者だろう。【上の尊属殺人の例で言えば、確かに被害者の加害者に対する行動は常軌を逸するが、それが当然に加害者の殺意を招くとは断言できない、ということになるのではないだろうか。】*4であるから、この方法論によると無責任な野次馬としては「自己責任」の線引きを楽しむことが出来るのかもしれないが、現実的にはむしろ単純に加害者の量刑が重くなる一方のように思われる。そしてこのことが何を意味するかと言えば、国家権力の肥大化である。果たしてそれが望ましいのか。
私が思うのはそうではない。加害者の犯した罪状*5は、法に照らしてこれだけの量刑に相当する。但し、加害者の犯した罪は自己に対する権利侵害に抗う手段としてこれだけの必要性があり、かつこれだけの相当性をもつので、加害者の犯した罪のうちこれだけの部分は万人が有する権利の範囲内であると考えることが妥当であるから、差し引きこれだけの量刑に処する、という感じだ。法の趣旨を鑑みても、私はこちらがより妥当だと考える。
金銭賠償について
これはついでの話だが、どうもトラックバックをしていただいたid:letterdustさんは、私の先の記事をご覧になって、私の発想のタイプとして、従軍慰安婦に対して「要はお金が欲しいんでしょ」とか言っちゃう小林よしのりみたいな印象を持たれたらしいのだが、これはまったくの誤解で、私が金銭賠償を前提に話をしたのは、以下の法律を参照してのことに過ぎない。
(損害賠償の方法)
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第417条
損害賠償は、別段の意思表示がないときは、金銭をもってその額を定める。
『「責任」の果し方には金銭的な賠償もあるけど、例えばマスコミの誤報道を巡ってよくある「謝罪記事を載せて欲しい」というような経済以外の方法もとられる』*6とは言うものの、それは損失(害)の内容が名誉の毀損だからなのであって、そうであればこそ、その補償として公な謝罪と訂正が効果を持つが、それ以外の場合ははっきり言って金銭以外では補償しようがないだろう。特に失われた命を補償することはできない。慰謝料として無理やり定量化するほか無い。
念のため
それから念のために言っておくと、私は法を学んだことがあるわけでもなく、仕事の実務上、にわかにかじった程度の法知識とWikipediaレベルの知識をもとに考察を進めただけに過ぎない。ホッブスもルソーも概要しか知らない。よって、必然的に上記内容も最初に書いたように「ぼくのかんがえたほうりつ」の域をまったく出ないので、なにか間違っていればご指摘いただきたい。
■追記
まあ強いて言えばこの辺の影響は多少あるかなっていう。
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