呪術と科学の違い

先般の疑似科学論争で思ったこと。

大体すべての行為は、元を辿れば呪術なんじゃないの。

呪術(じゅじゅつ、magic)とは、目的を果たすためになんらかの現象を起こそうとする行為、もしくはその体系。

呪術 - Wikipedia

思うに、「不定の存在」たる我々人間には、他の動物のように強い「本能」というものが備わっていないので、まず何かを為そうという強い方向付けが所与のものとしては存在し得ないし、なにかを為そうと思ってもその方法については思考しなくてはならないから、思考の過程においても当然、その方法論の意味や根拠を探ることになる。例えば昔の人に山が噴火する理由はわかりようがないから、山とか大自然という超越的な存在を擬人化することで自分の理解可能な領域に定義しなおし、さらに噴火のイメージからそれを怒りという感情と括りつけ、そのうえで自分なら何がうれしいか、何によって怒りを収めるかを思考し、生贄に若い女性を捧げていたのだろう。また、人間超越的な大自然と自分の目の前にいて触れることも出来る若い女性とでは、感覚的に考えてレイヤーが違いそうだから、これは殺して魂のレイヤーに昇華させないと大自然様のもとに届くまい、と考えたのであろうことも想像がつく。

生贄は山の噴火の因果とまったく相関がないから、現代でこんなことが行われたらトンデモ中のトンデモではあるが、なかには、当時の風習にも現代の視点から見てもそれなりに確からしいものもあったかもしれない。Wikipediaの上と同じページから引用すると、『たとえば、雨乞いの儀式で狼煙を上げさせる。上空の水分が煙の不純物を含み、大気中の水分が重くなる事によって、雨を降らせる。これは奇術か?いや、むしろ科学的根拠と裏付けがあり、証明されている事』*1なのだそうだ。つまり、この段階において、科学も奇術も宗教もそういった区別は特になかったはずだ。単に<それっぽい人>が提唱する<それっぽい方法論>であるから信じるに値する、という純粋に政治的な枠組みでものごとが決定されていたのではないだろうか。


現代の話に戻そう。我々は何故、科学的なものを特別に信じるか。それは、それが十分に合理的だからである。そして科学に裏付けられた技術が、現にわれわれの生活を便利で、豊かなものにしてきたことを知っているからだ。現代における<それっぽい人>とはつまり<科学者>であって、<それっぽい方法論>はその合理さ故に、政治的にも公原理として受け入れられた。

しかし、科学とはなにか。何らかの命題【及びそれの真偽を検証する方法論について、それが科学的であるかを判別する】*2ことは可能である一方で、「科学」に対応する対象物がどこかにあるわけではない。「科学」はそれら「科学と思しき命題」の無限の集合であると考えることも出来るが、無限の集合もまた、どこかに存在するものではない。

我々が「科学」という言葉にいかなる意味を持たせているかと言えば、それはまさに「科学」とそうでないものを区別する方法であると言えるのではないか。具体的に言えば、「帰納」や「演繹」という方法論がそれにあたる。

この仮説が意味するところは、科学的なもの自体は科学ではなく、科学的なものとそうでないものを区別する境界線こそが科学だということだ。より一般化すれば、次のようにもいえる。行為に意味はなく、それを区別することにこそ意味があるのだと。

区別の境界線はいかようにでも引ける。いかようにでも引けるからこそ、合理的な根拠が必要なのだろう。

私が、科学について教条的であると感じる人たちは、どこかに「科学」という超越的な存在や、普遍的な概念、絶対的な真理のようなものが存在しており、「科学」と「それ以外」の境界線が「ある」という認識があるように思う。境界線は「ある」のではなくて、人間が「引く」ものではないかと思う。

*1:[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%AA%E8%A1%93:title]

*2:【】内訂正。