結局社会の木鐸とかジャーナリズムとかって、ニッチな需要なんだろうな

先日、『マスコミになにを求めるか - よそ行きの妄想』というエントリーを書いてぶつぶつ言っていたところ、『日本のTV報道がいかに腐っているか - 自由Wiki』というサイトをご紹介いただき、観てみると面白かったので概要と感想を書き留めておく。

概要

エンターテイメント性への偏重

概況

  • 夜のニュース*1などで、事件や事故を番組のトップに据えて、視聴者を感情的に扇動する意図があるとしか思えないような無駄なディテールを延々と放送する。
  • NHKでも、ニュース冒頭の予告編みたいなときに、六社協議の開催期間中にヒル次官補の映像が流れたので気になって見ることにしたら、松坂の契約金が決まったニュースがトップだった。
  • キャスターがカメラ目線で怒りの演技をする光景がしばしば見受けられるが、本来そうした中立性を損なう演出は過剰であってはならないはず。現状、演出がメインとなっているとしか思えない。
  • そもそも「情報番組」というジャンルは日本にしかなく、ニュースと占いを同時に扱うという光景は世界水準から見て異常。というかオンリーワン
  • とにもかくにも「絵になるニュース」が優先。

問題点

  • 演出が過剰なため客観的で中立な情報を得ることができない
  • 絵になるニュースなど安易に視聴率を稼げるニュースの優先度が高いため、本当に大事な問題や海外のニュースなどが報道されない

原因等(仮説)

  • 新規参入のない温い経営環境に浸り、経営努力を怠ったことからくる、怠慢・高コスト構造のつけ。低コストで視聴率が稼げる事件報道に流れてしまい、海外取材などコストのかかる報道ができていない。
  • 番組構成については、視聴率と自身の立場を過剰に気にするメインキャスターの保身であるところも大きい。
  • 視聴者に対する報道責任がある一方で、大手メディア各社は株式を公開しており、投資家に対する責任も負っているという中途半端さ。
権力との癒着

概況

  • 政治のエンターテイメント化も激しい。小泉内閣の少し前くらい、TVタックルが政治バラエティというジャンルを確立した。
  • 某番組で、MCのみのもんたが政治家に詰め寄られた場面で、他の議員が突如「ファイナルアンサー」(他局)と叫び、笑いをとった。OAではカットされると思ったらばっちり使われていた。
  • そもそも出演政治家のステータスを上昇せしめる、例えばアメリカのC-SPANやPBSのような良質な政治番組が存在すらしない
  • 政府の発表をそのまま報じる。例えば被疑者などが犯行について「供述した」という報道は、「捜査二課長がそういった」という意味。日本的行間。そういう謎の「専門用語」が随所にちりばめられている。
  • 記者会見以外に、これも日本独特の記者懇談会という場がある。記者は懇談会でオフレコ情報を仕入れて記事を書く。よって、本来は唯一の折衝の場であるべき記者会見はほぼ出来レース
  • 一政治記者が政治に関与したりもするらしい。*2
  • キャスターが首相官邸に表敬訪問したりする*3。CMにも出る。報道番組ではなく情報番組だから、ということなのかもしれないが、昔はお天気キャスターであっても番組登板中はCMに出なかった。

問題点

  • 一番得をしてるのは権力。かように長きにわたって実質的に政権交代がないという一党独裁のような非常に例外的な状況は、メディアの貢献も大きいのではないか。
  • 特定の政治家や企業との距離が縮まることで、中立的な報道ができなくなる。
  • 政治家とマスコミの間に緊張感のある関係がなく、すべてがなぁなぁではないかと思わせる。まったく報道を信用できない
  • 記者懇談会は公務員の守秘義務違反だろ常識的に考えて。

原因等(仮説)

  • 民法キー局5社、それぞれの系列新聞社5社、NHK、共同、時事通信、北海道新聞中日新聞西日本新聞の16社が中心で、すべての行政機関と経団連経済同友会ほか主要な経済団体の記者クラブを仕切っており、クラブ員以外は記者会見にも出れないし、報道資料ももらえない。馴れ合いでやっているような状態。記者クラブに入れないのは、レストランをやろうとしたら市場に入れないようなもので、強力な新規参入の阻害要因になっている。
  • 記者懇談会という政治との距離を実現することで、情報を優先的に得られるメリットがある一方で、本来は権力にとりこまれ、報道の信頼を欠くというリスクがあるはずだが、そのリスクを顕在化させる新規参入者がいない。
マスコミ各社の仲間意識

概況

  • 再販制度などの、新聞社にとって核心的な話題はテレビでも報道されない。

問題点

  • 再販制度に限らず、いずれかのメディアにとって都合の悪いことは基本的に隠蔽されている恐れがある。

原因等(仮説)

まとめ

とにかく問題点としては、客観的・中立的な報道がなされておらず、権力の監視などジャーナリズムの本来の使命が果たされていない。その原因の多くは、新規参入がないが故の生温い談合気質にあるのでは、と。

感想

私はそもそもマスコミに報道の使命を果たせと思ったことがあまりなかったのだが*4果たされているか果たされていないかで言えば、当然果たされていないのだろうとは思う。

ただその原因をジャーナリスト各位のパーソナルの問題として取り上げるのは論外だと思うし、ご案内のディスカッションで盛んに謳われていた手厚い規制による新規参入の阻害だけに求めるのも少し違和感があった。

というのは、規制が取り払われ、事実上新規参入が可能な状況になれば、それは確かにいまよりマシになる気はする一方で、なにかもう少し根深い問題があるような気もするのだ。

その根深い問題というのが、本エントリーのタイトルにした仮説である。即ち、本来のマスコミの使命とも言うべきジャーナリズムなるものに対する需要がそもそもニッチなのであって、ビジネスを成立させるには少し心もとないサイズなのではないだろうか。

まさに日本のテレビの現状が示すように、一般的な大衆がテレビに求めるのは感情増幅装置として機能なのであって、社会の木鐸的な小難しい話にはあまり興味がない気もする。テレビをつけると確かに(ニュースであっても)とても上品とは言えない、演出オンリーな番組が溢れているが、それは他でもない我々大衆が望んだ結果なのではないのか。そしてこの問題については、しばしば日本人のメディアリテラシーという問題提起で片付けられていたが、そんなものを持ち合わせている人の割合というのは、案外どこの国でも大して変わらないのではないだろうか。

それこそ、アメリカのC-SPANなどは成り立っているではないかといわれそうなものだが、アメリカはまず国内の人口が日本より多い。加えて、世界の派遣国家たる米国の政治は世界的な関心事である。さらに、世界の公用語は英語だ。つまり、アメリカの報道は世界を相手にビジネスが出来るが、日本の報道は国内を相手にしたビジネスにしかならないメディアリテラシーを持った人の割合が一緒でも、母数が大きく異なれば、メディアリテラシーを持った人の絶対数は当然大きく変わってくる。

もともと小さい日本(語圏)というマーケットのさらにニッチ需要ということになると、視聴率というか視聴者数的に悲惨なことになり、少なくとも広告モデルではどうにもならないことはないだろうか。そもそもは、だからこその、つまりビジネスとしては厳しいが社会的に必要な機能を保護するための規制だったような気もする。

*1:具体名は言ってなかったが報道ステーションを意識してるように感じた

*2:ナベツネ氏のことを言っているようだった。

*3:番組のCM中に本人から聞いたとか。

*4:『[http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20090219/1235008473:title]』を参照。