客観的で普遍的な正しさなんてない

私はこう思うよというだけの話だけど。

正しさとはなにか

私が先日書いた記事に対する反応をいくつか紹介する。

id:Yagokoro とりあえずお子さんが振りかざしてるのは子供らしい屁理屈であって正論じゃないだろう(笑)

はてなブックマーク - うちのこどもと、「正論原理主義」 - よそ行きの妄想

確かにそういう見方があるのはわかる。ただし問題は、うちのこどもはおそらく正論のつもりで言ってるのだろうなということだった。屁理屈と正論を客観的に区別するという難しい問題に踏み込んだ覚えはない。私が、「うちのこどもが振りかざす正論」という紹介の仕方をしたことによって、私がその理屈について客観的に正しいと判断したものだと受け取られているように感じる。

id:Midas アホか。言葉にならないもの≠正しい。何かを排除した上に確かに言葉は成り立つ。排除されたものが正しかったと証明する事など誰にもできない。原初にあるのは正義でなく嘘、見かけ。難破船のバカと同じ倫理的な誤り

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正直、なにを言ってるのかまったくわからない。Midasさんの認識は<「chnpk」=「アホ」=「言葉にならないもの=正しいと思ってるやつ」>ということなのだろうか?そんなこと全然思ってないんだけど。確かに言葉にならない正しさに言及はしたけど、私はそれがいいものだというような認識は特別持ち合わせていない。ちなみにMidasさんによる上の発言は、なぜか全然関係ないところでも取り上げられていた。⇒『否定神学と左翼 - 地を這う難破船

id:kanchii また読む 前回の記事では「正しさ」という言葉がどのように使われてるのかわからなかった。今回の記事では「正論」という言葉がどのように使われてるのかわからなかった。/

はてなブックマーク - 正論原理主義発言の迂闊さについて考える - よそ行きの妄想

ストレートに不明点を指摘していただいた。

ということで、以上を枕にして、今日は私の「正しさ」に対する認識を紹介しすることにしたというわけ。

正しさの客観性

まず我々は「正しさ」を求めるのだというのはいいとして、その我々が求める「正しさ」については、往々にして客観的で普遍的なものであると思う。理想としての正しさとでも言うか。

それでは、そんなものがどこかにあるかと言われれば、そんなものはどこにもないというのが私の認識。よって、私が「正しさ」と書いたのは基本的にある人にとっての主観的な「正しさ」のこと、つまり信じるものの基準のことである。当然、それによって導かれた「正しいもの」が他人から見ても正しい保証はどこにもない。以上は私にとってはあまりにも当たり前の話だったので、うっかり省略することで誤解を招いてしまったのかもしれない。

これは、科学的にある命題の真偽を問うことはできるが、別にどこかに科学自体があるわけではないということと一緒だと思っている。科学というイデアがどこかに存在し、我々はそれを認識するというわけではなくて、科学という判別の基準を自らが持つことによって、対象命題に対する区別を適宜行っているに過ぎない。

客観的な正しさや普遍的な真理に見えるのは、例えば法律や、学問などの何らかの前提を共有した上でのフィクションであり、その前提がたまたま広範に受け入れられているように見えるからそう見えるというだけの話だと思っている。

私の認識をまとめると、まず客観的で普遍的な「正しさ」は存在せず、「正しさ」とは判断の基準でしかあり得ない。「正しさ」を内面化するとは、自分なりの判断の基準を持つということ。それには当然言葉になるものもあるだろうし、ならないものもあるかもしれない。正論とは、なんらかの共有された前提のうえに構築された、確からしい命題のことで、正論に固執する危うさとは、判断基準の多用さを見失うことである。

前提を共有できないという現象

共有された前提のうえにのみ、正論は成り立つと書いた。前提とはどのようなものか。

先日随分話題になっていた記事からの紹介だが、見も蓋もない悪口を大胆に放言するという芸風(?)で再ブレイクした元猿岩石の有吉弘行さんが、ブレイクするということについて興味深い見解を披露していたそうだ。

ブレイクするっていうのはバカに見つかるってことなんですよ。
ブレイクしないっていうのは目利きの利くちょうどいい加減の人に面白がられている時期なんです。

2009-03-06 - てれびのスキマ

確かに、ブレイクするということは、自分の言動なりが内輪の枠を出てそれを見る人の範囲が広がるということに他ならないと思う。であれば、その内輪でない場所に自分の価値を理解できない人がいるということは、至極当然のことにも思える。突然現れたその「自分をまったく理解しない、しようともしない人」は「バカ」に見えるかもしれない。

ただ、思うのは、その「バカ」な人も何かしらの内輪に包摂されているということである。つまり、世の中は目端が利いてセンスのある人と「バカ」な人の二項図式ではなくて、何らかの前提を共有する「内輪」が無限に存在する空間ではないかということ。

このことから言えることは、「バカ」とは自分とは価値の前提が共有されない人のことだということである。こういうタイプの「バカ」は当然そこかしこにいるだろう。だが、自分と価値の前提が異なるという事実のみを持って他人を「バカ」と切り捨てるのであれば、まさにそれこそが他人から見れば「バカ」なのであって、「バカって言ったお前がバカ」には一理どころか十理くらい感じるというのは余談だ。

持つべき「正しさ」

以上は要するに、「正しさ」や「価値観」なんて人それぞれというクソの役にも立たない単なる相対主義の話なのであって、腐れポストモダニストじゃないんだから今更そんなことを言っていても仕方がないので、ここはひとつどのような「正しさ」を持つべきかという話に進んでみたいと思う。

さて、上述したような現象、即ち共有されるべき前提が拡散し、「正しさ」が人それぞれであることが如実に可視化された現象の遠因は、間違いなく全体性の喪失や既存コミュニティの崩壊にある。いわゆるひとつの「『大きな物語の終焉』という大きな物語」というやつ。ここまでポストモダン的。

我々の精神の帰属先はいまや特定集団ではありえず、抽象的な社会システムであり、バーチャルなコミュニティとなった。会社に忠誠を誓ってさえいればあとは年功序列で出世できるという社会制度は終わりを告げ、我々はより抽象的な社会の諸機能に包摂される必要性に晒されている。簡単に言うと、手に職*1をつけろという話。

そうした中にあっては、普遍的な態度を探求するのは単なる時間の無駄で、日々の活動において我々は、既存の議論と接続することで前提の共有が成される可能性と、なんらかの具体的な活動に昇華し目的が達成される可能性を追い求め、それがたまたま”あっている”ことを期待するしかない。

所属するコミュニティの規範を内面化することで「一人前」とみなされ、ある程度の成功が担保されていたのはいまは昔の話なのであって、いまや時と場合に応じて、共有され得る前提条件を見出し、自らの立場を構成することで、恣意的に立ち振る舞いを決定する他にはない。

つまり成功のモデルはなく、全ての成功は”まぐれ”なのだ。

であれば、我々が持つべき「正しさ」とは、普遍的な態度に固執せずに柔軟に変化に対応し、目的が達成される可能性を検討し続けることでしかないのではないだろうか。無論、柔軟さに対してでさえ固執する必要はない。重要なことは、我々が探求すべきは人生の意味を物語るような客観的で普遍的な「正しさ」ではなく、自らの行為の目的であるということだ。少なくとも私は、自分のこどもに伝える「正しさ」とは、こういうものだと思っている。

*1:「手に」とは書いたが、当然マネジメントスキルでもいいし、セールススキルでもいいし、ITスキルでもプログラミングスキルでもいい。