全体最適化(笑)

遅ればせながら、「【赤木智弘の眼光紙背】タバコが迷惑なら、子育てだって迷惑だ!(眼光紙背) - BLOGOS(ブロゴス)」という記事を読んだのだが、この記事のブックマークページには笑ってしまった。

どれがどうとか個別に言及はしないが、おなじみの「これはひどい」タグに続いて「こどもは社会の宝だ」とか「子育ては市民の義務だ」とか「タバコと一緒にするな」とかなんだとか書いてある。そんなに大層な社会的視点をお持ちなら、とりあえず社会様のために自殺の検討あたりから開始されてはどうか。いったい社会に対してどれだけの貢献をなさっているとこのような発言ができるのか、率直に疑問である。

自分の生き方として、タバコを重視する人もいるだろうし、子育てを重視する人もいるだろう。いずれにせよそれらは、個人の趣味嗜好の範囲内なのであって、そこに良き市民としての義務のようなものを介在させるのは、支配されることによる安堵感を得たいからだろうか。

さらに言えば、そうした不可思議な義務感の欠如をあげつらって他者を糾弾するという話に展開すると、それはもうただのルサンチマンにしか見えない。「社会的な視点を欠くリア充どもは悪。虐げられ、苦労している自分たちこそが善」という。昔でいう「隣人愛」と一緒。これらは、そもそもが他者を糾弾するための最終兵器のようなもので、単に人間の自然な姿・振舞いの対極に「善」を位置づけることで、総「リア充」をすべて「悪」と糾弾するものだ。当然最終兵器の火の粉は使用者の身にも降りかかるわけで、即ち、自らもできもしない崇高な理念によって縛られ、苦しむことになる。自縄自縛。

普通に考えて、我々大衆は、自らのポジションをはるかに超えた壮大な視点から最適化を考える必要などない。権力なりシステムに迎合して、自らのうちに義務感のようなものを抱え込む必要もない。ただ権力なりシステムを利用し、良き関係を維持し、自分の利益を求めればよい。その利益が社会的な利益に適うようにするためのインセンティブ設計は、我々の仕事ではない。それでもどうしても社会的な視点からものごとを考えたいのだという人は、然るべきポジションを目指すべきだろう。

全体最適化という言葉があるが、あれは何らかのバリューチェーンや生産プロセスを考えるときに、それぞれの部分に注目してそれぞれの最適化を図るよりも、全体を俯瞰して、ボトルネックを見極め、そこを最大限に活用するために全体をあわせるべきだという話だったはず。あくまで、自らが価値を得るプロセス「全体」についての話なのであって、我々大衆が社会の最適化に思いを馳せたところで、自身に利益が還流しなければ何の意味もない。全体最適化という言葉を使うとあたかも合理的なように聞こえるが、過剰に大きな視点から繰り出される全体最適思想は、単なる道徳であり、抑圧である。我々は、もっと自分の幸福に敏感になるべきだ。


ちなみに、私自身は、子育てに対しては非常に肯定的だ。実際に現時点で息子が2人いる。ただそれは、当たり前のことだが、決して社会のためを思って育てているわけではない。断じて違う。

私が子育てに肯定的なのは、自分の子供をもうけ、家庭という彼らの居場所をつくることが、自分の居場所をつくることになるからだ。私は子供を支えているが、ある意味では支えられている。彼らがいなければ、私は「父」という立場にはたてない。「父」というメディアのうえに成り立つコミュニケーションというものが世の中にはあって、それらのコミュニケーションは、ひとつの「世界」を構成する。そういう新しい「世界」に接続することが、最終的な自身の利益に適うと私は思うわけだ。

そうした思想が利己的で非道徳な「悪」だというならそれでよいが、その私を縛るための「縄」はいつか必ず自分を苦しめるものだともう一度言っておく。これは、上述したブーメラン的な意味合いに加えて、「道徳」や「倫理」といった旧時代的な価値観にしがみついて思考停止に陥ることによる、近代的な社会システムからの疎外を危ぶむものでもあったりする。

我ながら何を言いたいのかよくわからないことになったが、続きはまた気が向いたら。