親になるとはどういうことか

4年前に子供ができてから結構ずっと考えてることなのだが、親になるとはいったいどういうことなのだろうか。(注:オチなし)

タイトルは問題提起としては抽象的過ぎるので、以下の3つに分ける。

  • 親としての権利とはなにか
  • 親としての義務とはなにか
  • 親と子のコミュニケーションにおけるメディアはなにか

親としての権利とはなにか

いくら親と言えど、子供を「熱湯を入れたベビーバスに1分ほど入れ、両足に重症のやけどを負わせ」る権利などないことは、少し考えれば誰にでもわかるだろうが、一方で「悪いことをしたらケツを叩く(又はご飯抜き)」などの勝手ルールの1つや2つはどこの家庭にもあり、社会的にも許容されているように思う。

これらはいずれも子供に対する権力及び暴力の行使に他ならないわけだが、何が違うかと言えば、前者が親の遊び半分であることに対して、後者は子供が悪いことをしたためであり、子供のためを思った”しつけ”*1であることだろう。そして、もし”しつけ”であれば、ある程度は容認されるというのが社会的な慣例ではないだろうか。

このことは、あまりにも一般的な事象なので看過されているかもわからないが、よく考えるとおかしな話である。例えば、ある地主が、自身が保有する私有地に「ゴミを勝手に捨てたら罰金10万円」と書いた看板を立てたとしよう。その後その地主は、誰か知らない人が実際にゴミを勝手にガンガンばら撒いている現場を見つけ、その人に対し看板に書いたとおりの罰金刑を強制執行(無理やり財布から10万円徴収!)したとする。この地主はただの強盗である。看板を立てるのは地主の勝手だが、その看板に書いたルールに強制力を持たせ、違反者に対して刑罰の執行を行う権利は、その人の私有地の中であってさえ普通は持ち得ない。ところが、これと似たようなことが家庭内ではまかり通っているわけだ。

つまり、親は”しつけ”という名目のもと、家庭内においてかなりの権力や暴力の行使を事実上許されていると言えるだろう。社会契約的な観点から、我々はすべての権力の行使を社会・国家に委託したのだという立場をとるのであれば、当該親の権力は、慣例上単に黙認されているか、若しくは社会から権力の一部を再委託されているということになるのではなかろうか。

親としての義務とはなにか

現状が単に黙認されているだけなのだとすれば、それはつまり、本来親にそんな権利はないよということだ。まさに教師による体罰がご法度になったように、社会が、世論が、子供の教育は親なんぞに任せてはおけないと判断した際には、親が子供に罰を与えることもご法度になる日が来るのかもしれない。最近の流れとは逆に、義務教育の開始もどんどん若年化するとともに拘束時間も長くなり、親による”しつけ”の機会を奪う試みが始まるのかもしれない。

実際、子供にとっても、ゆくゆくは社会に順応しなくてはいけないだろうことを考えると、早いうちから「親」なんかよりも「社会」のもとで育ったほうが、メリットは大きいように思ったりする。子供にとっては親の愛情こそが大事なのだという昔からの御言い伝えがあり、別にそれを否定しようとも思わないのだが、愛情とは時間の長さのことではないことは間違いない。むしろ、短い時間に集中して注いだほうが効果的な類のもののような気さえする。この場合、親が親であることによってなにか特別な義務を負うということはないように思える。


他方、親としての権力の源泉は社会からの再委託なのだと考える立場に立った場合、当然親は権利を得ると同時に、社会に対する義務を負うことになると考えるのが自然だろう。”しつけ”を行う権利に付随ずる義務とは、素直に考えれば、当該”しつけ”の成果に対する社会的な責任である。

社会から期待される成果についても考えるまでもまでもなく明らかであって、それは社会に適合し、奉仕し、そして社会をより良い方向に導いて行く、良き市民の(再)生産だろう。

ところが、ここで問題は、良き市民とは具体的にはどのような特徴を持つことによって上記のような良き行為を為す市民なのか、ということである。現代社会には、「欲しがりません勝つまでは」とか「隣人を愛せよ」みたいな、わかりやすいスローガンや金科玉条は存在していない。社会は、そうした具体的なビジョンもなく、ただ我々に責任を押しつけ、成果を約束させるのだろうか。そんなことがあるとは私には思えない。


以上の認識のもとで思い至った暫定的な結論は、現代においては、ただ親であるということに基く特別な義務はなく、それ故に当然特別な権利もないのではないかということだ。社会から親への権限移譲は、社会的に良き市民象が共有されていた限りにおける、ある種のフィクションだったのではないだろうか。

我が家には今年で2歳と4歳になる2人の息子がいるが、2人とも1歳かそこらから保育園に通わせている。嫁はいまのところ専業主婦なので育児に割く時間的な余裕はあるにも関わらず、である。これは、”しつけ”や愛情などよりも、比較的オープンな社会・コミュニティにおけるフリーなコミュニケーションをより重要視したが故でもある。親としての責任の放棄ととられる方もいるかもしれないが、社会との適切な接点を持つ機会を与えること、若しくはその機会を奪わないことこそが、現代における親の責任なのではないだろうか。

親と子のコミュニケーションにおけるメディアはなにか

親と子の会話についても気になることがある。元来、親と子の対話における基本的な枠組みや方向性、共有される価値基準は、親による子の”しつけ”だったように思う。つまり、元来の親子間の対話とは、親の優越的立場なしには成立しないわけだ。例えば対等の立場であるはずの職場の同僚に”しつけ”られたらどう思うだろうか。死ねと思うはずだ。会話になどなりようもない。親と子の会話が”しつけ”の上に成立するのは、親の優越的立場が両者に認められているからだ。

私は、これについても合点がいっていない。一体自分のなにが自分の子供に優っているのか、よくわからない。上述したとおり良き市民象についての見当もつかなければ、成功の秘訣もわからない。何が正しくて何が間違っているのかという判断の基準についてさえ、普遍的で絶対的なものは持ち合わせず、人生の意味や目的について確固たる答えを示すこともできない。これでは子供と一緒ではないのか。

2年ほど前、保育園に行きたくないと強硬に主張する(駄々をこねる)息子を厳しく叱責したことがある。当初私は、その自分の行いを”しつけ”として正当化していた。保育園に行くという約束を破ってはいけないということや、駄々をこねても思い通りにはならないということを教えなければならないのだと思っていた。しかしその後気がついたのは、息子が保育園に行くのは彼が約束したからではなく、私が連れて行くことを(保育園や嫁と)約束したからだということだった。駄々をこねて困るのは息子ではなく、こねられる私のほうだった。であれば、私がしていたのは”しつけ”ではなく”おねがい”や”交渉”なのであって、その割には偉そう過ぎたと反省したのだった。

こうした経緯もあり、私は優越的な立場から子供と話すことを、基本的に止めた。

先日、いつも拝見しているブログで面白い問いかけがあった。子供に、「ねーねー、おまわりさんとパトカーは、○○ちゃん(自分の名前)を守ってくれるの?」と問われたらどうするか。この問いかけをしたブログ主は、「4歳児に対しては、「警察はおまえを守ってくれる」というファンタジーを教えなければならにゃーだろう*2」と判断し、「そうだにゃー。おまわりさんはこどもを守ってくれるよ」と答えたのだそうだ。で、「教育とは体系付けられたウソ」なのだと。

当然、このブログ主の見解を否定するつもりは毛頭ないが、私の考えはまったく逆で、私が上のように問われたら、私はきっと全力で可能な限りに真実に近い回答を考え、全力でわかりやすい言い回しを考え、答えると思う。構造主義的な考え方が基本である私としては、警察の権力維持こそが警察の諸活動の目的なのだから、その目的に適合しさえすれば全力で守ってくれるはずだという趣旨のことを答えるだろう。当然理解されない可能性は高いが、そんなものはどういう伝え方をしようが同様に不確実なのだから、気にするだけ野暮だと思うわけだ。

ちなみにもっと言えば、伝える内容云々よりもさらに、伝える姿勢のほうがよほど教育的効果を持つのだろうとも思っている。夜、テレビを見つつお菓子をついばみながら、子供に対して「早く寝なさい」と言う。普通に考えて誰がそんな指示を聞くだろうか。早く寝たほうがよいと思うなら、決まった時間になったら自分が率先して寝室に向かい、さっさと消灯するべきなのだ。

相手が子供であろうと、なるべく対等な立場で会話や交渉が成立することを目指すべきだと私は思う。

追記

はてなダイアリーなどを読んで、少し補足する気になった。

上記は基本的に”しつけ”をキーワードにして書いた自分の親観で、”しつけ”なんて考え方は止めたよという話なわけだが、ではその代わりに私が何を与えたいのかという話は書いていなかった。

基本的に”しつけ”の類は社会に丸投げしようかと思っている私は、子供を応援する立場になれればいいのだと思ってる。社会はときに容赦ないが、どんなときでも子供の味方でいてやろうとは思ってる。まだまだ子供だからすぐに約束を反故にしたり、他人の信頼を踏みにじったりすると思うけど、少なくとも自分だけは何度でもチャンスを与え、何度でも信用してやろうと思ってる。こうした方がいいんじゃないの的なアドバイスはしても、何かを強制するようなことはしたくないし、こうあるべきというようなものを押し付ける真似もしたくない。

これはまあ、この世に産み落としたことに因るたったひとつの責任というところなのかな。人生楽しいことも多いけど、やっぱりそれなりに大変だから。

補足

どうも”しつけ”の定義が完全に自分定義だったような気がしてきた。
ので、補足。
「しつけ」について - よそ行きの妄想

*1:教育の意を含む

*2:語尾が「にゃー」で統一されているかわいらしいブログなのだ。