twitterのremoveについての話題
「日本人はTwitterでRemoveできるのか。―コミュニティとしてのfollowのススメ - てきとーに、てきとーに。」というのを読んで、
以下の内容について、違和感がある。
うろ覚えで恐縮だが、日本でも熱い会議をすることで有名な某社のサラリーマンらがアメリカに研修に行ったら、アメリカではとっくみあいに近いような会議しているのを見て驚いた、という話をきいたことがある。
さらには、そんなだったらさぞ社員同士の仲が悪いだろうと思ったら、会議が終わったあとは笑顔でコーヒーを飲んでいる風景を見て、二度驚いたという。
意見と人格が切り離されているからできることで、日本人はなかなかそうもいかない。どうしても感情的なしこりが残ってしまう。
それが「ゆるさ」がウリのTwitterでも出てしまうのは、なかなか業が深い。
あなたの「Twitterのエントリ」が面白くないだけで、「あなた」自身を否定してるわけではないのに、全人格を否定されているように感じざるを得ないのは、当然俺にだってわかる。
日本人はTwitterでRemoveできるのか。―コミュニティとしてのfollowのススメ - てきとーに、てきとーに。
日本人は、「意見と人格の切り離しが出来ない」から、twitterでremoveされると「全人格を否定されているように感じ」てしまうと書いてある。
そういう問題か??
人格を否定されているように感じるかどうかなどという解釈の問題をわざわざ持ち出す必要はなくて、そもそもtwitter上でremoveされるということは、基本的にtwitter上での関係が解消されてしまうことを直接的に意味するわけだから、その相手との関係の継続を望む人にとってはショックを受けて当然のことではないの。
例えば、メールをして返事がこない場合。人格を否定されたのかもとか悠長なことを言ってる場合ではなくて、そもそも相手の行動が自分の目的にまったくそぐわないわけで、そんなことがあれば日本人だろうが外人だろうが普通に困るに決まってる。
まあ、メールの文面が悪かっただけで嫌われてるわけではないのだと自分に言い聞かせ、明日を生きる活力とすることは否定しないが、メールを返さない側が、別に文面が気に障っただけであなたが嫌いなわけじゃないと居直ってメールを無視しまくることは、どこの世界だろうが決して褒められたものではないだろ。
そうした単なる居直りが、なにか欧米的とでも言われて持ち上げられているようでどうも心地が悪いような。
そもそも、元記事でも指摘されている通り、twitterとは極めて日常生活的なコミュニケーションだと感じる。当該指摘から、元記事では、だから「人格」の問題と混同しやすいのではと述べられているが、普通に考えて日常生活的なコミュニケーションから意見のみを抽出して論じるなどということは難しく、むしろ日常生活的なコミュニケーションであれば、相手の人格を基盤と考える他ないと言うべきではなかろうか。
これがもしブログ程度に長さのある主張であれば、テキストから相手の「意見」の部分だけを抜き出してDISったり議論したりという芸当もできようが、twitterはどちらかというと、断片的なテキストを継続的にfollowすることで、その背後にある相手の思想的背景、趣味、嗜好、並びに「人格」のようなものを徐々に理解していくタイプのコミュニケーションではないかと思う。そうでしかありえないと感じる。単独のPOSTだけ見ても何を言ってるのか、なにが言いたいのか、だからそうしたのか、冗談なのか、本気なのかなどちっともわからないからだ。そういったコミュニケーションにおいて、removeという断絶の通知が、存在を否定するメッセージとして伝わることに何の違和感もない。それは、あなたの存在は私にとって(相対的に)価値がないという通告に他ならないのでは。
そう考えたとき、むしろ「意見と人格の切り離し」ができる人であればあるほど、簡単にremoveなぞしないということになるのではないか。相手の「意見」が多少つまらなかったり意にそぐわなかったりして、その場では多少厳しい受け答えをしたとしても、なにかその次のタイミングでは笑顔で挨拶を交わすような様こそが、元記事で紹介されている「アメリカでの研修に行った際の様子」と対応するものなのではないの。
これはだから、removeに関する考え方が問題になってるのでは実はなくて、followに関する考え方が問題になっているのだ。元記事でもいざ結論の段になって、急に話題がremoveからfollowに移っているのもこのためだろう。
followをあたかも友人づきあいのように捉える人はそれを簡単に解消することに当然違和感を覚えるが、一方で、twitterではそもそもfollowしなくては相手のことがわからないわけであるから、followとはもっとゆるい関係でなければ都合が悪いという捉え方にも一理どころか百理くらいあるのだ。
ミクシィが先般、「マイミク」の上位として「仲良しマイミク」というそのまんまのネーミングの機能をリリースしたが、要するにそういうことだ。別に「マイミク」とその下位としての「コミュニティ」でもかまわない。要はちょっとした知り合いと友人など、親密さの度合いで繋がりの名称や機能をわければいいだけの話である。運営がもしそういう機能を提供すればまあ気が利くねという話だが、そうでなければ利用者が自分のなかで勝手に分類すればいいと思う。