差別のアウトソーシング?わかりません><
「はてなダイアリー」について。
「差別のアウトソーシングとは、早い話が『差別の責任主体を自分以外の何者かに託し、曖昧にすること』」なのだそうだ。換言すると、「『俺が差別する』を、『差別される』とさらっと言い換える」ということらしい。
「『俺が差別する』を、『差別される』とさらっと言い換える」という文章は普通にわかりづらいが、これはおそらく「『俺があなたを差別する*1』を、『あなたが差別される』と言い換える」という意味だろうと思う。
言い換えるというか、形式的には単に受動態にしただけで、差別の主体が変わっているような気がするのは単に聞き手の解釈の問題だと思うのだが、ここで突如受動態になること自体に不自然さを感じておられ、その不自然さの源泉を「差別の責任主体を自分以外の何者かに託し、曖昧にすること」に見出しているのだとお見受けした。
しかし不自然だろうか。
wikipediaの受身(言語学)という項目に、以下のような記述がある。
有方向詞と受動態に関する補足:言語学上の受動態の意義としては、次のようなものが考えられている。
受身 (言語学) - Wikipedia
1,動作主を軽視または省略し、相対的に被動作者を重視すること。
2,被動作者を文の話題として強調すること。
3,被動作者の意志によらないことを強調すること。日本語ではこの意義が特に重要であると考えられる。
「被動作者の意志によらないことを強調する」とある。至極最もではないか。例えば「そんなことをしたら(あなたが)差別されるよ」という場合の方が、「そんなことをしたら俺が(あなたを)差別するよ」という場合と比べて、「『あなた』の意志にかかわらず」というニュアンスがよく出ていると思う。後者の言い回しを「あなた」がされた場合、「いやそんなことしないでよ」という「俺」に対する働きかけが当然にあり得、その場合話の焦点は相当ぼやける。「俺」の差別に関する基準は、ここではどうでもいいことだ。ここでの「俺」の忠告は、「あなた」が「あなた」の意志にかかわらず、「あなた」の働きかけもむなしく、結果として差別されてしまう可能性に言及しているものと考えるのが自然だろうと思うので。
ということで、別にこの受動態への言い換えについては「差別のアウトソーシング」などというアクロバティックな解釈を持ち出さなくとも、こうした一般的な解釈で十分に説明可能なように思われ、むしろ「差別のアウトソーシング」などという解釈をわざわざ持ち出す様にこそ強い違和感を覚えるのは私だけではあるまい。
次。
冒頭で紹介した記事においては、太宰治の『人間失格』から以下の記述が引かれている。孫引きで恐縮だが以下引用。
はてなダイアリー「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
「世間」などの大きな、そして抽象的な主語を持ち出す。確かによくある。ただ、この人間失格の例で「世間」にアウトソースされているのは「ゆるす|ゆるさない」の判断であって、差別などの行為ではない。この辺は消毒先生の「アウトソースされたのは差別行為ではなく、差別であるか否かの判断だろーがwww」というツッコミが的確なのでそちらをご参照いただくとして、ここではとりあえず差別かどうかの判断をアウトソースすることが差別自体の責任を曖昧にし、結果として差別を助長するのだというドミノ理論が成立するとして話を進めたい。
判断のアウトソーシングは、責任を曖昧にする意図によるものか。
これについては、より身近な事例で考えてみたい。私が一昨年辺り、某上場企業の資本関連でありとあらゆる揉め事に巻き込まれていた際、やたらと筋を通せだなんだと喚き立てる経済ヤクザのような連中と対峙するにあたって非常に重宝した金看板的キラーフレーズがある。「株主が納得しない」。これである。
「世間」と比べて「株主」とは随分具体的な例を持ち出したと感じる向きもあろうが、一部のオーナー系企業を除き、上場会社の株主というのは非常に細かく分割されており、一番シェアが高い人で10%前後、いわゆる大株主でも1%前後という状況はよくあるし、株主の総数で言えば数万人、数十万人というケースもざらである。つまり、現代において「株主」という呼称はまったく具体的な個人を指し示すものではなく、なんとなくの、総体としての抽象的な概念に過ぎない。ネット界隈の人にもわかりやすく言えば、「中の人などいない!」わけである。
では何故、「株主が納得しない」という言い回しが重宝されたか。それは客観性に関する議論に誘導できるからである。往々にして揉め事というのは、どちらか一方が相手方の都合を考慮しない自己中心的で主観的な主張をするから起こるのであって、双方が客観的な視点を保って議論を進めれば、徒に揉め事に発展するケースというのはかなり減る。
自己中心的で主観的な主張をする輩に対して、「株主」という、何の利害関係もない、常に合理的な意志決定をするような、仮想の意志決定者を意識させ、議論の争点を客観性の有無に持っていくということの運び方は、非常に有用である。ここに込められた内なるメッセージというのはまさに、「あなたの主観や都合だけではものごとを決められないんですよ」ということに他ならない。このメッセージをただ鏡に映したようにこちら側の主観や都合をアピールする方法によって伝えようとすると、相手からまったく同じツッコミを受けてくだらない堂々巡りになるから、敢えて第三者的な基準を持ち出すわけである。
少し説明が冗長になったが、要するにこれは上の話と同じである。即ち、「世間」などの大きな、そして抽象的な主語を持ち出すことの意義というのは、まさに個人的*2な「意志によらないことを強調する」ために他ならない。
コーポレート・ガバナンスという考え方がある。
現在、コーポレート・ガバナンスの目的は、(1)企業不祥事を防ぐということと、(2)企業の収益力を強化することという2点にあるとされている。また、それらを社会全体の視点から見た議論と、投資家の視点から見た議論がある(⇒#コーポレート・ガバナンスの目的)。
コーポレート・ガバナンス - Wikipedia
そして、そのために、様々な法制度、組織内の制度、またインフォーマルな慣行が設けられている。それらを性質によって大きく分けると、トップ・マネジメント組織を通じて行われる組織型コーポレート・ガバナンス、証券市場を通じて行われる市場型コーポレート・ガバナンス、そして経営者に対し経済的インセンティブを付与する方法がある(⇒#コーポレート・ガバナンスの方法)。
コーポレート・ガバナンスの本質というのは、会社として、特定の個人又はステークホルダーの判断や利害に基づいたような意思決定を行わないということである。そのためには、意思決定は十分に抽象的な対象にアウトソースされる必要がある。これは責任を回避しているとか、卑怯とかそういう問題とはまったく別の次元の問題だ。判断の基準がどこにあるかにかかわらず、責任は行為者とその代表者が負う。当たり前である。
差別的な行為をしたものがいて、本人がそれをどのように思っていようが、それが違法性のある行為であれば当然法的に裁かれることになるだろうし、道徳的な問題であれば道徳的な対処がなされて然るべきだろう。差別か否かの判断基準を外部に持つことと責任の所在には関係がないと言わざるを得ない。
追記(9月30日午前1時ごろ)
コメント欄の返答は有村さんからしかとされているが、消毒先生からつっこみをいただいたので応答。
いやあ、緊張感のあるタイトルですね!
さて、私が上の本文で「単に受動態にしただけ」云々と書いた部分に対するつっこみが以下。
アホかwww 「受動態にしただけ」では差別の行為者は変わらないではないかwww 「あなたが(俺に)差別される」であったなら有村はエントリ上げてねえよwww いったい何を読んでんだw 「みんなに差別される」の意だと書いておいたじゃねーかw 「俺」は自分の差別行為を隠蔽しているというのが有村や増田の主張だよwww
あらら、またチンポコに戻っちまったw - 消毒しましょ!
なるほど。
いや、なるほどというか、ご指摘の点くらいはさすがにもともと理解してる。「受動態にしただけ」というのはあくまでも形式の問題で、「差別の行為者が変わ」っているというのは読み手の解釈の問題でしかないから、この辺を区別したつもりだったのだけどまったくうまくいかなかったようだ。(という書き方もうまくいってるとは思えないが。)
有村さんなんかが言ってるのは、受動態にすることによって差別の主体が省略され、曖昧になっているという話である。ただし、「差別する」を「差別される」と言い換えた「だけ」では、差別の主体はまったく変わらない。差別の主体が「俺」から「世間」などに変わっているように思えるのはあくまで印象の話であって、「あなたが差別される」という文章には差別の主体は一切明示されていない。
だからこそ「書いてあること」と「そこから受け取られる印象」を区別する意味で、「受動態にしただけ」と書いたつもりだったのだが。。なんとなく書いていてわかりづらいかなーというのはあったのだけど、実際に指摘を受け、なるほどそういうところかというのはある。
「アクロバティック」は大野さんが先日使ったフレーズw 他にもオレの言い回しを真似ただけの文章があちこちに見られるw 練習台にするのはいいが、無自覚にエントリ本番にまで持ち出すのは恥ずかしいからよせwww
あらら、またチンポコに戻っちまったw - 消毒しましょ!
ご指摘の通り「無自覚に」持ち出してるんだから、よせと言われてもわからねえよw というか「アクロバティック」など、他人に気を使わなければいけないほどに珍しい言い回しか?
まあ、確かに他人の文章を読んでいて、なんとなく単語の使い方が上ずっているときというのはあり、自分の文章がそういう風になっていたのかもという不安は払拭できない。きっとそういう印象を与えたのだろう。反論なし。
その「ツッコミ」は、手塚プロに対するものであり、太宰についてではないw 太宰に突っ込まなかったのは、明らかに堀木は姑息にも世間を盾に己の態度・立場を曖昧にしているからだ。
あらら、またチンポコに戻っちまったw - 消毒しましょ!
そうですよねー。言い訳をしても仕方がないのだけど、有村さんの記事を読んだのが消毒経由だったからどっかに消毒先生の名を書かなければと思ったら変なとこにいれちゃったのだよね。これは完全におかしい。失礼しましたー。
私が一昨年辺り、某上場企業の資本関連でありとあらゆる揉め事に巻き込まれていた際、
オイオイ、こっちの方がよほど面白そうな話じゃねえかwww 書ける範囲で書けよwww
あー。こういう話はすぐ会社名とか個人名とか特定されそう*3でなんとなく控えてたのだけど、そう言われちゃぁ何か書かねばなるまいw この辺の追記スペースならPVもなさそうだし平気だろ。
えー、あー。
その昔、私は某上場企業に勤めており、主にM&A等の担当をしていた。ときは2006年。ちょうどライブドアショックがあったころだ。私が勤めていた会社は急激に業績が傾き、それまで凄い勢いで買い漁った子会社群を、さらに凄い勢いで整理するという仕事に取り掛かろうとしていた。
そうした折、私が売却を担当した会社はどれもひと癖もふた癖もある会社ばかりで、なかなかファンキーな経験の連続だったが、その中の1社 --上場会社だった-- は特に素晴らしかった。何が素晴らしかったか端的に言えば、その会社の歴代オーナーの面々である。当該会社は創業以来不幸にもさまざまな事態に見舞われ、そのたびにオーナー変更に晒されてきた。その面子が強烈だった。誤解を恐れずに言えば、あれは右翼とヤクザである。
わが社が沈みかけるまでの間は旧オーナーの面々も至極おとなしくしていたのだが、わが社の業績が急激に落ち込むにつれて彼奴等は息を吹き返した。不思議なもので、沈みかけた船のうえでは必ずといって良いほど熾烈な、しかし無様な船頭争いが繰り広げられる。これは当時得た貴重な教訓である。
彼奴等の主張は基本的には単純で、対象会社の株を安価で買い戻したいというものだった。我々は買収以降、その会社に対して追加資本を投下するなど、少なからず株式価値の向上に努めたつもりであったが、なぜか我々が買収した当初の金額よりもずっと安い金額で株をよこせというのが彼らの主張の中心だった。意味はよくわからないが、それが筋だというようなことを喚かれた記憶がある。
当然わが社としてそのような主張をのめるはずもなく、上の本文に記載したとおり「株主に説明がつかない」の一点張りで通したのだが、あれほど埒の明かない打ち合わせを経験したことはその後ない。想像していただけるだろうか。我々がいかなる主張をしようとも、安価で株を譲れという無理難題を、考えられないくらいに大声で、繰り返し主張されるわけだ。主張というか恫喝といってもよい。それが4時間×2回くらい続いただろうか。ミーティングの中にあって私は、完全に心を閉ざしていた。そうした中で、我々の主張で功を奏したのは結局、わが社には明確な意志決定者の中の人はおらず、あくまでも客観的な基準によって判断を下し、それをもって株主を説得するというプロセスを経ずにはいられないのだという根本的なルール説明というか懇願であった。これがヤクザのほう。
一方右翼のほうは、わが社役員宅に街宣車を送るなどの、意図不明の破壊活動を繰り返していた。
そんなこんなで株の売却先選定などまともにおこなえるはずもなく、当社としてはもう少し付き合っていかざるを得ないという判断を下すこととなったのであった。そうした場合に問題となるのは役員の面子である。ごたごたしたため既存の役員がほぼすべて退任してしまっていたことから、新しく役員の面子を揃える必要があった。もう少し付き合うのであれば、役員の過半数は占めたいというのは当社として当然の判断だったと思う。
この人選がまた揉めた。直前まで誰だ彼だとやっており、最終的に白羽の矢が立ったのは何故か私。正確には私含む数名。決まったころには株主総会の直前(2-3日前ではなかったか)だったので、今更議案の変更などできるはずもなく、株主総会当日に緊急動議で株主提案を行うこととなった。で、動議をあげるのも何故か私がすることになった。想像して欲しい。上場会社の株主総会で、動議を宣言し役員の候補者に自分を加えろと要求するわけである。「代打、おれ!」のインパクトを遥かに超え、ほとんどキチガイの部類である。
しかし残念なことにこの株主総会の主役は私ではなかった。キチガイじみた動議を提出してなお、である。例の旧オーナーの右翼のほうが、総会屋を送り込んできたのだ。右翼のほうの行動の意図はいまでもよくわからないが、とにかく、おかげさまで、私が動議をあげてもたいした騒ぎに至らなかった会場は一転して大荒れの様相となった。総会屋はどう考えても外部者では知り得ないような情報を並び立て、ひな壇上の役員の面々を厳しく糾弾していた。
少し背景の説明になるが、右翼じみた旧オーナーは、その会社内に一定以上のシンパを抱えていた。オーナー時代の威光は消え失せてはいなかったわけだ。彼を慕う人物が実は社内に多いという事実は、私も予め聞き及んでいた。
聞き及んではいたものの、株主総会で見た光景にはさすがの私も目を疑った。乱れ飛ぶ総会屋の怒声に対して同調する野次があるのに気づき私は野次のもとを突き止めたのだが、なんとそれはその会社の社員だったのだ。総会屋の罵声に便乗して、社員が自分の会社の役員に対して口汚く野次を飛ばしているのだ。「そーだそーだ!おかしいじゃねーか!」など。いや、お前がおかしいわ。
しかも驚くべきことには、その社員は窓際の平社員とかそういうレベルではなく、普通に執行役員レベルだったのだ。私が役員に就任した後も、取締役会などの場でしばしば見かけた。私は、大荒れの株主総会を俯瞰しながら社内の雰囲気は一体どうなっているのかと想像をめぐらせ、一瞬気を失いかけた。
かくしてトンデモ企業の役員に就任してしまった私であったが、その後の会社運営も、案の定というべきか、苦難というかもうほとんどコントみたいな出来事の連続であった。
今でも忘れないのは、いつも無駄にテンションの高い某役員から貰った「玉虫色とはこのことか!」という書き出しのメールと、「売り逃げですか!」という決め台詞で締められたメールだ。受信したときは、それぞれ1週間分は笑った。
まあ、つい盛り上がってちょっと長くなってしまったが、他の話はまた今度機会(リクエスト)があれば。
追記の追記(10月2日)
無視かーい!