「人助け」という娯楽

金くれ」という身も蓋もない名称のサービスがリリースされているのを発見した。

知らない人のためにサービスの説明を引用すると、「金が欲しい人が口座番号とメッセージを記載する、次世代ネット乞食プラットフォーム」なのだそうだ。一瞬ただのネタと断じて何も考えずに通り過ぎるところであったが、意外とこうしたサービスというのは需要と供給がマッチしたりするのかもしれないと思い至り、少し思ったことを書いておくことにした。


以前、米国のサブプライムローン関連商品の破綻が明るみに出た際に、まるでウォールストリートに巣食うバンカーどもの意地汚い守銭奴的強欲さと、特権階級的な優越意識に溺れた邪悪さなどが調和して凝縮したかのような見事な記事がブルームバーグに掲載され、注目を集めたことがあった。

記事は、人助けと思って貧乏人にカネを貸したことへの後悔と、カネを返さずにファンドに損失を被らしめた貧乏人に対する侮蔑で満ち溢れたものだった。

本件と関係のありそうな部分のみ抜粋してご紹介する。関係ない部分も面白いので未読の方はこの機会に是非ご一読を。

気前のよさが後になってこのように批判されるとは夢にも思わなかった。サブプライム(信用力の低い個人向け)住宅ローン関連資産を購入したとき、私は社会への恩返しのようなものだと感じていた。

ロマンチストだと言われるかもしれないが、私はすべての人に「アメリカン・ドリーム」を感じてもらいたい。働いてその権利を得た人以外にもだ。だから、これらの人々が少なくとも自分の家を持てるように、できる限りの支援をしたのだ。

【米経済コラム】ウォール街とサブプライムと危険な貧者−M・ルイス

引用部分は、同記事の著者がサブプライムローン関連商品の購入を決めた際の心情を表したもので、基本的には「恩返し」や「支援」という、捉えようによっては恩着せがましい言葉で語られている。

ここに綴られるような動機は単なる欺瞞であると切って捨てられることが多いだろうと勝手に推察するが、私はこうした行為を選択するこの著者のようなメンタリティについて、わりと人間誰しも少なからず持っているものだと思っていたりする。こうした行為というのはつまり、人助けをもって快感を得るという行為だ。それが倫理的な意味で、あまり褒められた行為でないことはわかる。ただ、いかに動機が不純であろうと、そこで行われた人助けによって困っている人が助かる可能性が少しでもあるのであれば、自らの不潔さに萎縮して何もやらないよりは、幾分マシなのではとも思う。

それはさておき、こうした行為、又はそれに対する欲求(「人助け欲求」とでも呼ぼう。)こそが、冒頭で紹介したようなサービスというかプラットフォームにおける需給を成立せしめる可能性を持つのかもしれないと思い、このちょっと懐かしい記事を紹介してみたのだった。


人間にそうした「人助け欲求」的なものがあるかもということについては、ニーチェあたりも「力への意志 - Wikipedia」という概念の説明のなかで述べていたように思う。自らについて十分な権力を得、十分な富を手にしたものは、それを他者に施す*1ことを求めるのだというような。

ビルゲイツが財団をつくったり、マイケルジャクソンが多額の寄附を行ったりというのも似たような話のようにも思われたり*2

ともかく、人間には「人助け欲求」があるのだという前提で話をすすめると、冒頭で紹介したサービスと言うのはまさにそうした欲求を充たすものとして意味を持ち得るのではないか。もう少し前のめりな言い方をすると、冒頭で紹介したようなサービスこそは、庶民が、それこそビルゲイツのような成功を収めずとも、お手軽に「人助け欲求」を充たすことのできる画期的なサービスであるのだと言えるのかもしれない。

これはつまり、「人助け」のコモディティ化、「人助け」という娯楽である


世界的な大不況という世の趨勢を考えると、冒頭のサービスを見る際にも、どうしてもカネを求める側の庶民に主眼を置いてしまいがちだが、実はカネを与える側の庶民も、注目に値するのかもしれない。

カネを与える側の需要に主眼を置くのであれば、冒頭のサービスのようなサービスに求められる重要な要素のひとつは「物語」だろう。自分によってカネを与えられた「乞食」が、その後いかにして些細でも幸せを手にしたか、そうした「物語」を見て庶民は悦に浸るわけである。世間一般に普及している募金や寄附などと比べると、与える対象が明確で、物語性があることが競争力になる。ユニセフや変なテレビ局を通すよりは、直接対象が見えたほうが、与える側の満足度は高いのではないか?

「乞食」がストーリーを語るためには、ブログというメディアは最適なように思われるから、こうしたサービスはブログとの連携を最も重視すべきであろう。乞食のための投げ銭システムみたいなブログパーツを無料で公開して、そのブログパーツを導入したブログを一覧・検索したりできるポータルをつくってはどうか。「人助け欲求」に突き動かされた庶民が、物語を求めてサイトに集まり、自らの予算制約のなかで「人助け欲求」を最大化させるような「乞食」をあの手この手で物色するのだ。実際問題としては決済手数料や贈与税などは課題になりそうだが、まあ細かい話は別にしてなんとなくの印象ベースでは結構大きな取引が生れるかもしれないなと妄想した。これはつまり、ついに「乞食」すら資本主義システムに回収されるということを意味する。そして究極的には、市場経済に内包されるかたちで、合理的な社会福祉システムが構築される。なんとなくあり得そうな話ではなかろうか。


どことなく不謹慎な話をした気もするが、そうは言っても貰ったカネで(又はカネを与えた経験を通じて)少しでも幸せになれる人がいるかもしれないのだ。それはやっぱり「いいこと」なのだろうと思うがどうか。

どっかで見たと思ったら

権力の「マキャベリズム」によせて
力への意志は、

  1. 被圧迫者のところ、あらゆる種類の奴隷のところでは、「自由」への意志としてあらわれる。たんに解放されることのみが目標とみえる(道徳的・宗教的には、「おのれ自身の良心に対してのみ責任あり」ということである。「福音書的自由」その他)。
  2. 権力へと生長しつつある比較的強い者のところでは、権力の優勢への意志としてあらわれる。最初それが失敗に終わったときには、この意志は、「公正」への、いいかえれば、支配者がもっているのと同程度の権利への意志に制限される。
  3. 最も強い、最も富める、最も独立的な、最も気力あるもののところでは、「人類への愛」、「民衆」への、福音への、真理、神への愛としてあらわれる。同情、「自己犠牲」その他としてあらわれる。圧倒、掠奪、奉仕の要求として、方向を与えられることのできる大いなる権力量との本能的一体感としてあらわれる。すなわち、英雄、予言者、帝王、救世主、牧人。(略)

「自由」、「公正」、「愛」!
ニーチェ入門 (ちくま新書)

*1:他者に施しを与えるということは、言い換えればその他者を支配するということに限りなく近いという話だったような気もする。

*2:税務メリットがあるからといううわさも一部ではあるが。