何かを言ってるようで実は何も言ってない人
「考え方の整理箱」というのを読んだ。
説明が下手な理由として、「正確な理解」をしないままものごとを伝えようとするからだということがあげられている。「脳内に描くイメージ以上に正確なものをアウトプットできるはずが」ないのだと。
なにか持って回ったような言い方をしているが、ここに書かれていることは要するに、「知らないことを言うことはできない」というだけの話である。そんなことアタリマエである。「これは林檎です」という主張ができるのは、「林檎」というものを理解しているからなのであって、「林檎」を知らずに同じ主張ができるはずがない。
これでは単にものを伝えるにあたって最低限必要となる条件を述べているだけであり、ではどうすればものが伝わるのかという最大の関心事にまったく応えられていない。この記事では「見てるような気になっているだけで何も見ていない」ことが問題視されているが、言うなればこの記事は「何かを言ってるようで実は何も言っていない」記事だろう。見てるようで見てない人なんかよりも、よほどたちが悪い。噂によると同記事は何かのパクリとのことだが、元ネタの程度の低さも察して余りあると言うものだ。
他者に対して何かを伝えようと思う場合、最も大事なことは正確さなどではない。それは言うまでもなく、相手にとっての理解しやすさである。「林檎」を知らない人に、いくら「林檎です」という正確な記述を繰り返したところで、それが伝わる可能性は皆無なのだ。
なすべきは相手のセカイを理解することなのであって、自分のセカイにおける正確さを押し付けることではない。「林檎です」という主張を通じて、それが食に適したものだということを伝えたいのであれば、相手のセカイにおける「食べられるもの」を例示すればよい。「これはパパイヤのようなものです」という言い方になるかもしれない。話し手のセカイの基準からするととても正確とは言えない表現だろうが、相手にとっては幾分マシになるだろう。
当然話し手は、ひととおりの「林檎」の機能と、それらのうち相手に伝えるべき機能はなにかということ(=自らの主張)について、まずは自分がしっかりと理解する必要がある。それは最低条件だ。その意味では件の記事は正しい。しかしながら、それと伝わるかどうかということはまた別の問題だ。伝わるためには、相手の理解可能な範囲に落とし込むという作業が不可欠なのだ。
同記事でも例示されている絵画の件を引き合いに出せば、もっとも示唆に富む事実は、往々にして写実的な絵画よりもむしろ抽象的なものや心象風景のようなものの方がより高い人気を博しているということだろう。画家は、自らが見た風景や人物そのものを見たままに伝えたくて筆をとるわけではなく、その風景や人物を通じて得た感動を共有したいのである。そのためには、どれだけ正確性を犠牲にしようが、それは合理性の範囲内だ。むしろもっとも避けなければならないのは、正確さに拘泥するあまりに本来の目的を見失うという愚であると言えるだろう。
なお、ついでに言えば、そこが都会であろうと田舎であろうと、日常会話においては、そもそも「伝えたいこと」などない。精々「自分はここにいるよ」ということくらいである。具体的に言えば、「雨が降ってきたね」と「お腹が空いたね」で会話になるのだ。理由は、単に言葉を交わすことが目的なのであって、別に天気の状況やお腹の状況を伝えることが目的ではないからだ。
参照(ネタバレあり)
絵を描けない人、文章を書けない人、なに言ってるかわからない人 - よそ行きの妄想
考え方の整理箱
というか私の書いたのより伸びてるとか。。
EXILEにカヴァーされる昔の曲の歌手とかこんな気分なのだろうか。若しくは「亜麻色の髪の乙女」を島谷ひとみにカヴァーされたヴィレッジ・シンガーズとか。自分の作品が改めて評価されると受け取って喜べば良いのか、自分の力量のなさに落ち込めば良いのか。
しかしこれはあれか、(一部の物忘れの激しい人を除いて)はてなのホッテントリもやっぱり日によって見てる人が全然違うから、同じ内容でも2度載ると単純に2倍注目されるということかな。ガジェット通信とか、向こうの記事もまた載せちゃったりしてね。
今度過去記事のセルフカヴァーでもしてみるかね。