市場とは何か
「ザ・クオンツ 世界経済を破壊した天才たち」は、証券市場で莫大な財産を築いた天才数学者(クオンツ)たちの物語だが、それは市場そのものの物語と言っても過言ではないものに思えた。
ザ・トゥルース
市場とはなにか。それは、真実の探求であると言える。
「ザ・トゥルース」とは、市場がどのような動きをするのかという普遍的な謎を解明することであり、数学を通じてしか解明できないものだった。市場のあいまいな動きを研究することによって導き出されるはずのザ・トゥルースは、何十億もの利益をもたらすためのカギだった。クオンツたちは世界中の金融市場にアクセスできるような高性能コンピューターを導入し、ザ・トゥルースを探求することによって莫大な財産を築こうとした。(中略)
クオンツは、とらえどころのないこのザ・トゥルースに名前をつけた。それは、秘教めいた魔法の方程式を追い求めるにふさわしく、「アルファ」とよばれた。
ザ・クオンツ 世界経済を破壊した天才たち
大数の法則と将来の予測
エドワード・ソープは、ウォールストリートで大金を稼いだ最初の数学者で、いわゆるクオンツの創始者であるといっても過言ではない人物だ。
数学者としてのエドワード・ソープが最初に研究の対処にしたのは、株式市場ではなくカジノのブラックジャックだったという。彼は、数学とコンピューターによって、自分がディーラーに対して確率的に有利になる状況を創り出すためのモデルを作成し、実際にラスヴェガスで大勝を収めた。「ディーラーをやっつけろ! 」は、当時(1960年代)エドワード・ソープによって執筆、公表され大きな話題となった。
エドワード・ソープのモデルは、確率論のもっとも基礎的な理論である大数の法則に基づくもので、確率的に有利な状況を創り出すことができれば、数回のゲームでは負けることがあっても、回数を重ねていけば必ずトップに立てるとする考え方だった。これから100回ゲームをした場合に、自分が何回くらい勝てるのかを把握することができるという意味で、学術が亀の甲羅を使った占いのような魔術味を帯びる瞬間であると言える。
ランダム・ウォーク理論とオプション価格
勝ちすぎてカジノを半ば出入り禁止になったエドワード・ソープが、次に目を付けたのが株式市場のオプション取引だった。
オプションというのは、ある株式を、将来、買ったり売ったりできる権利のことで、その権利自体が市場で取引されていた。例えはA社の株価がいま100円であるとする。これが将来200円に上がるだろうと予測した人が、A社株を150円で買うことができる権利を10円(=オプション価格)で誰かから買っておく。予想が的中して株価が200円になったときに権利を行使して株式を取得すれば、オプション価格10円と株式の取得価格150円の合計と、権利行使時の株式時価である200円の差額である40円が儲けになる。万が一当てが外れて株価が暴落して7円くらいになってしまったとしても、損失はオプション料である10円だけで済む。
エドワード・ソープは、このオプション価格についての適正な値を合理的に算出するモデルを作成した。今でいうブラック・ショールズモデルに近いものだったそうだ。このモデルは、株価は完全にランダムであり、上がる確率と下がる確率は完全に50対50で予測することはできないとする理論(=ランダム・ウォーク理論)に基づく。相場を予想したい人にとって、相場がまったくのランダムであるという結論は一見絶望的なもののような気がするかもしれないが、完全にランダムであればそれはそれでモデル化することができる。いわゆるベルカーブだ。
上述の例で言えば、A社の株式が特定の期間内に200円をつける可能性は、将来の値動きがランダムであればこそ、定量的に把握できることになる。市場が評価するオプション価格が理論値を下回るものであれば、オプションを買えばいいし、逆に市場の評価が理論値より高ければオプションを売ればいい。数回の取引では負けるかもしれい。ただそれを数百回数千回と続けていけば、理論価格と市場価格の差額が儲けになるはずと考えることができる。
アービトラージ
例えばオプションを空売りすると、株価が急上昇した際には理論上無限に損失が拡大していくことになり、非常に高いリスクを負担することになるので、そのリスクをヘッジする目的で開発された技術がアービトラージだ。
具体的には、A社株式を買うためのオプションを空売りすると同時に、A社株式を購入する。そうすることによって、A社株式が急上昇した場合は購入したA社株式を売却することによってオプションの損失を補てんすればよく、オプションのリスクをヘッジすることができる。
エドワード・ソープは、オプションのリスクをヘッジするために必要な株式のポジションを計算するモデルも作成した。今日、デルタ・ヘッジと呼ばれる手法である。
スタティスティカル・アービトラージ
上記の仕組みを応用した、スタティスティカル・アービトラージ(通称「スタット・アーブ」)と呼ばれるトレーディング手法も開発された。以下引用。
GMの株価が通常10ドル、フォードが5ドルだったとしよう。GMに大量の買い注文が入ると、株価は一時的に10ドル50セントに上がる。一方フォードの方は5ドルのままだ。この場合、2つの株価の「スプレッド」は広がった(ワイドニングした)といえる。
ヒストリカルなパターンをたどり、かつチータのようなスピードで動くことができれば、こうした一時的な急上昇や急落に乗じて儲けを得られる
ザ・クオンツ 世界経済を破壊した天才たち
要するに、ヒストリカルなスプレッドを分析し、それが将来的にも保たれるとする立場から、スプレッドが広がったり縮んだりした場合に、そのスプレッドがもとに戻る方に賭ける取引手法である。
クオンツの発展
上記で紹介したような基本的な手法自体は大きく変わっていないものの、その後商品の複雑性は一層高まり、取引の時間は短縮され、規模は爆発的に拡大していった。
1990年にハーバードの学生寮で株取引をしていたケネス・グリフィンは、エドワード・ソープの教えのもとでシタデル・インベストメントを創業し、その数学的能力を活かして上記のような手法をありとあらゆる市場に応用し、2007年までに200億ドルを超える資産を預かる世界最大のヘッジファンドを築き上げた。
1994年はじめ、ピーター・ミュラーは、モルガン・スタンレー内でPDTというチームを率い、ミダスと名付けられたスタット・アーブを応用した自動トレードシステムを開発し、結果的に何十億ドルという収益を稼ぎ出した。
効率的市場仮説で脚光を浴びたユージン・ファーマの教鞭を受けたクリフ・アスネスは、師の教えに反し、ある期間において大きく上昇又は下落した株がその後も同方向に動き続け、理論価格から大きくかい離する現象(=モメンタム)を精緻に研究し、1994年、28歳の時にゴールドマンサックスでクオンツのチームを立ち上げた。その後自らが立ち上げたヘッジファンド、AQRの総資産は2兆ドルにも達した。
チェスの天才少年として映画のモデルにもなったボアズ・ワインシュタインは、ドイツ銀行の内部に主にCDSなどのクレジット・デリバティブで資産を運用するヘッジファンドを立ち上げ、300億ドルものポジションを売買する世界で最も影響力のあるクレジット・トレーディング・ファンドに育て上げた。
細かな手法は違えど、彼らが賭けていた対象は、要するに市場価格は合理的な水準に収斂するという仮説であり、彼らが行っていた取引は、理性から逸脱した市場の値動きを是正することに他ならない。まるで白血球が体内に侵入した病原菌を除去するように、クオンツのトレーディング・システムは24時間体制で相場を監視し、少しでも非合理な値動き(つまり、収益機会)があればそれを是正し、それによる収益を得ていた。白血球とクオンツのシステムが異なる点は、クオンツは何が正しい状態(=「アルファ」)なのか、未だ手さぐりで探究している段階に過ぎないということくらいだろう。
市場の失敗
順調に「アルファ」に近づいていっているかに見えるクオンツたちだが、その道のりは必ずしも平坦ではない。
「アルファ」の探索の最中にあって、市場は三度大規模な失敗をしている。一度目は1987年のブラックマンデーであり、二度目は1998年のロシア危機、三度目が2008年のサブプライム危機である。そのたびにクオンツたちがつかみかけていた「アルファ」も泡と消えたのだった。
市場が失敗に至る過程においては、三度とも少なからず共通点がある。まず、誰かが「アルファ」の一片をつかみ、大儲けをすると大量の模倣者が表れる。すると各人の利鞘は減少する。ファンドの運用利回りを維持するためには、新しいモデルを開発するか、レバレッジをかける(ポジションをとるときに借り入れを行うこと)かしかないが、新しいモデルをそう簡単に思いつくはずがないので、必然的にレバレッジが高まっていく。レバレッジが極限まで高まったとき、少しでも想定外の値動きがあるとそれに耐えられないファンドが続出し、危機が連鎖していく。
ここで言う想定外の値動きというのは、マンデルブロが言う「ファット・テール」であり、ナシーム・ニコラス・タレブが言う「ブラック・スワン」である。ベルカーブのすそ野に位置するような急激な相場変動というのは、確率論上は銀河の歴史が何百回繰り返してもほとんど起こり得ないと言えるくらいの事象であるが、そういった相場変動は少なくともここ30年強で上述の通り3回も起こっている。これは、市場を動かしているのは結局のところ我々人間であり、人間はときとして感情に支配されてしまい、合理的ではない行動をとるからであると考えることができる。これにレバレッジによって天高く積み上げられたヘッジファンドによる何兆というポジション解消の動きが相まって、想像を絶する市場の崩壊が起こることになる。
歴史は繰り返す
「アルファ」の探求は、いまも続けられている。「アルファ」の探求こそが市場なのだとすれば、ある意味当然のことではあるが。
エドワード・ソープを除く上記の4名は、いずれも一昨年のサブプライム危機後のキチガイじみたボラティリティと枯渇した流動性の中で大きな痛手を蒙り、運用資産の大部分を失っているが、いずれも新たな「アルファ」に基づいたトレーディングシステムの開発に精を出しているそうだ。
同書によれば、いま、ダークプールと呼ばれる非公開の、システム化された取引所外取引環境が浸透しており、そこで莫大な金額の取引が行われているのだそうだ。ダークプールでは「忍者のようなスキルをもったトレーダー」が「危険なまでの超高頻度取引の世界」で活躍しているとのことである。