そもそも勤労の美風とか言ってる場合なのかという問題その他

この間、ソーシャルゲームと賭博の保護法益の関係などを眺めていて、少し思ったことがある。

極論すぎるかなと思って当初のアジェンダには書かず、話が盛り上がってきたら煙幕的に投入しようと思っていたのだけど、どうやらディベートとして盛り上がっていく雰囲気もなさそうなので、何か変な間になってしまうけど、つらつらっと書いておく。まあ、なんでも好きなことを好きなときに書いていいのがブログのいいところであるな。と自分に言い聞かせつつ。


さて、賭博はなぜ罪なのか。みなさんはご存じだろうか。

それは、「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済に影響を及ぼす」からだそうだ。

私はソーシャルゲームは賭博ではないと思うけれど、とはいえ賭博じゃなければなんでもやっていいのかというとそんなはずもない。もし賭博でない何かが、まるで賭博のように国民の射幸心を煽り、結果として国民経済に悪影響を及ぼしていたら、それは賭博でないにしろ、さも賭博であるかのように規制されて然るべきだという理屈になる。ソーシャルゲームは賭博とは違うとしても、どのように違うのかというのは検討されるべきなのだ。

ソーシャルゲームは勤労の美風を損なうのか

これについて、まず細かい話としては、程度の問題だという論点はある。つまり、当たり前だと思うのだけど、射幸心を煽ったからと言って必ずしも勤労の美風を損なうことになるわけではない。これは、現に世の中に射幸心を煽るタイプの商売があまた存在していることからも明らかである。くじ引き然り。おもちゃのガチャガチャ然り。宗教然り。

なので、程度の問題なのである。勤労の美風が損なわれた状態というと、つまり、一獲千金の夢に憑りつかれ、真面目に働くことがバカバカしくなってしまったような状態を指すのだろうが、果たしてソーシャルゲームごときで本当にそんなことになるのだろうかというのが最初の疑問だ。

例えば私がソーシャルゲームのレアカードで一山あてちゃおっかな♪と無邪気に考えるとき、どうしてもリスクとして意識せざるを得ないのが、換金市場の不安定さだ。レアカードを引いても、換金するまで人気が維持されるかわからない。換金できたとしてもレートは蓋を開けてみないとわからない。仮にパチンコにおけるケイヒンの買取価格が同じような感じで時価だったら、それはギャンブルとして成立し得るのか。

このあたりが要するに、ソーシャルゲームのアイテムやカード類が、法的に財産的性質を持たないとする由縁なのだろう。こうしたアイテムの類というのは、大元であるゲームの運営が終了してしまったら当然に価値が消滅するものなのであって、単独で存在することはできない。財産として考えるにはそれを担保する価値が薄弱すぎるのである。だから、財産と言うよりはゲームの一環として提供されるある種のサービスとみなすのが、まあ適当だろうという話になっている。らしい。

こんなあやふやなものに、仕事や生活をなげうってまでのめり込む人が本当にいるのだろうかというのは、当然の疑問だろう。現に何十万もつぎ込んでいる人がいるのだ!と鼻息を荒げる向きもあろうが、何十万程度つぎ込んだところで、例えば私なら、破産するようなことはまずない。時間的にも、仕事の合間に充分こなせる量だと思う。私以外の多くの人も同じような感じではないか。

さらに、売却はマーケットプライスでしかできないわけだから、市場が効率的であるという立場に立つと、単に確率論上の期待値が対価として支払われるだけであるから、長い目で見れば見るほど、一山あてられる要素というのは限りなくゼロに近づくという問題もある。

長い目で見ると絶対勝てないというのは何のギャンブルでも同じだと思うかもしれないが、一発逆転大当たりの存在は無視できない。宝くじは、配当還元率で考えると相当に割りの悪い賭けだけれど、1等を奇跡的に引くと額がでかいので、そこに勝ち逃げできる余地がある。この奇跡を願う気持ちこそが、まさに射幸心と呼ばれるものだろう。競馬もそうで、本命にコツコツと長年かけ続ければそりゃあ負けるだろうが、一発逆転奇跡の万馬券を引き当てれば、勝ち逃げできるのではないかという予感が頭をよぎり得る。パチンコ・スロットも、最近は射幸心を煽り過ぎないようにということで数々の規制が入り、あまり「大爆発」と呼ぶにふさわしい当たり方をする台はなくなったが、昔はあった。そういう台を引き当てることが出来れば1日に数十万の収益を得ることができ、勝ち逃げが可能と思わせる節があった。要するに当たりの大きさというのは、確率云々は差し置いて、射幸心を煽るためには非常に重要なポイントなのだ。

ところがソーシャルゲームにはそれがない。あんなわけのわからないビックリマンの出来損ないのようなカードが数万円もの値段で取引されていると聞くと、何となく異常に高額のような気がしてくるが、よくよく考えればたかだか数万円ということなのである。そんなものが日に1枚や2枚あたったところで、勤労がバカバカしくなるほどの話には到底なるまい。精々趣味の領域だ。必然的に量の勝負ということになっていくが、量をこなせばこなすほど、期待収益はゼロに収れんするわけだ。

とまあもろもろ考えると、やはりソーシャルゲームが勤労の美風を損なわせるためには、射幸心の煽り方が不十分なのではないかと思うわけなのである。

勤労の美風が損なわれると経済に悪影響が及ぶのか

で、加えて、である。そもそも、仮にソーシャルゲームが勤労の美風を損なったからと言って、それって本当に国民経済にとって悪影響なのかという根本的な疑問もある。

と言うのも、勤労の美風なるものを維持したところで、どのみち仕事自体が不足しているわけで。

我が国の失業率は、他の先進国から比べれば幾分マシで、何だかんだ4%台にとどまっているが、若者の失業率に限れば、就職浪人と言ったような実質的には失業にほかならない隠れ失業者を除いても10%近くになっており、かなり世界と互角に渡り歩ける水準になってきている。要するに、職がないのは他国と一緒だけれど、解雇規制が強力だから、既存正社員のクビが切られず、新卒の採用枠がひたすら減っているというだけなのだ。

アメリカでも、先の金融危機の際に失業率は、従前の3〜4%から、10%台に急増した。一時的なものという見方が大半だったと記憶しているが、あれからもう4年もたつが未だに8%台をしっかりキープしている。何十万人と言う雇用を産んでいた金融業界の化けの皮がはがれ、頼みの綱であるアップルを筆頭とするIT業界も国内では全然雇用を生まないから、どう考えてもこれは構造的な問題なのだ。おいそれと解決する問題ではない。


そんな中、勤労の美風なるものだけをひたすら維持するという行為は、何か射幸心なんかよりもよっぽど煽ってはいけないものを煽っているように思えてならないのである。まあ、極論だろうが。

いや極論なんだが、まあとにかく働けと、労働は美しくそして素晴らしいのだと、額に汗して働かない輩はもういっそのこと犯罪者であると、そうまでして勤労意欲を煽り、ともすれば勤労と自己実現を完全に同一視させておいて、でも現実的に仕事はないのだけどねハハハというのは、一体何の嫌がらせですかという気がしないだろうか。

思うに。この勤労の美風なるものが国民経済の発展に自明的に寄与するのは、高度経済成長期のような、ものをつくりゃつくるだけ売れる時代、経済学っぽく言えば供給がそれ自体に対する需要を生み出すという関係が暗に成立する時代に限られるのだ。

申し上げたように、現代はそのような時代ではない。グローバリズムによって国際労働市場におけるアービトラージが進み、低付加価値の労働力は必然的にコストの安い途上国に求められる。国内生産へのこだわりなどというものは、今や単なる負債に過ぎず、為替リスクを考えれば地産地消が原則となった。結果として国内需要が減れば、国内の生産も減ることになる。更には一人あたりの生産性は高まり続けているから、ある産業が生み出す価値が高ければ高いほど、その労働需要は低いという関係が成立しつつある。googleを見れば、ほんの一握りの優秀な人間が全世界に対して価値を提供しているという現実は明らかだろう。つまりこれは、前世紀に起こっていたこととはまったく反対なのである。即ち、需要量が生産量を制約しているのだ。

経済の前提が全く逆転したのに、果たして同じ「勤労の美風が損なわれる」という事象が、経済に対して等しく悪影響を与え続けられるものだろうか。新しい時代に必要なのは、新しい価値観のはずではないのか。

就職が決まらないとか仕事をクビになったとか、たかだかそれしきのことで絶望したり自殺を考えたりするようなら、いっそWEBに引き籠って射幸心を煽られていた方が、人として幸せだとは思わないか、みなさんは。どうなんですか!

と、こんな極論みたいなことばかり言っていると、次第に読者の反感を買い、ネガコメが殺到するようになって、はてなブックマークページを非表示にせざるを得なくなりかねない。

ただ一方で、高まった知名度を利用して著書を出したり、有料メルマガを始めたり、有名市長と絡んだりするようなことになるかもしれない。

うむ。私もいつかは有料メルマガとやらで安定的に毎月100万円くらい稼いでみたいものである。何の話だ。

参考

思想としての近代経済学 (岩波新書)
森嶋 通夫
岩波書店
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ちなみに、というわけでもないが、「供給がそれ自体に対する需要を生み出すという関係」のことをセイの法則と言う。同著は、そのセイの法則を軸に、リカードからケインズまで、主要な経済学者の経済理論を論じている。軸がしっかりしているので経済学の歴史をざっくりと把握しやすく、入門書として重宝する一冊だと思う。歴史が分かれば未来も分かる、なんとなくそんな気分に浸れる。