アブラハムグループは、いつかはゆかすのか

タイトルに深い意味はないが、「いつかはゆかし」ですっかり有名になった、近頃話題のアブラハムグループ・ホールディングス株式会社及びその関連会社(以下単に「アブラハム」という。)についてである。

アブラハムとは何か。今日はそのあたりを考えていきたい。

理由は、特にない。

近頃話題だから?

アブラハムとの出会い

さて、その過剰なまでの露出量から、昨今アブラハムについて語る向きは多く、いまさら私なんぞが何を言ったところで目新しい考察になどなりようもないと思われがちなところではあるが、実は、ひとつだけ重要な手がかりがある。私、その昔、アブラハム高岡社長に会ったことがあるのである。

あれは確か今から7〜8年くらい前。私がまだ20代半ばだった頃だと思う。

当時の私は、何やら哀しい眼をしたオッサン達から、事業計画と名前は付いているものの、どちらかと言うとむしろ夢の跡とでも呼んだほうがよさそうなものを聞いて何かしら預言めいた託宣を授けるという胡散臭いアルバイトのようなものをしていた。何だそれという感じだが。あるんだよ。そういう仕事が。

で、高岡社長は、そんな私に事業計画を語ったうちのひとりだったのだ。

当時の高岡社長は、まだ三井物産に所属しながらにして、アブラハムの基礎工事的な部分を行なっている最中。かなり目処もたったので、ついては物産の方は辞めてアブラハムに専念する予定ですみたいな。そんな感じであった。

なぜ私が、未だにそのようなことを覚えているかと言えば、高岡社長が語った事業計画が出色の出来であったからに他ならない。

20代半ばの小僧が何を生意気なという話だが、流石に十も二十も似たような話を聞いていると、ダメそうなものの判別というのは大体つくようになる。ダメな計画には、何というか、露骨に芯がない。
「営業します」
「競合はいません」
「従って売れます」
えっと、何を売るんでしたっけ。みたいな。

そういった中にあって、高岡社長が語ったそれは、まさに肥溜めの中で燦然と輝く普通の石、荒れ果てた大地に咲いた一輪の普通のタンポポといった様相であり、私の記憶にも確かに刻まれることとなったわけだ。

アブラハムの計画

「日本における数少ない成長分野は、富裕層マーケットである」

高岡社長は、そのように話を始めた。

富裕層と呼ばれる程度の資産を有し、又は所得を稼ぐ人の数は、我が国では現実問題として年々増加しており、そして今後も増加し続けるであろうと。それが、高岡社長の、そしてアブラハムの国内マーケット環境に対する基礎的なビューであり、すべての商品戦略や事業モデル、マーケティングの方針はそれに基づいて構築されていた。

富裕層をSNSで囲い込み、そこに対して、従来ごくごく一部の富める人しかアクセスできなかった情報や商品をシステマティックに販売していく。

まあ平凡といえば平凡。しかし、従来富裕層というのは、そのように一山いくらで取引されるものではなかったのである。基本特別扱い。あくまでも対面営業。腫れ物に触るようにしながらセールストーク。それが富裕層向けビジネスだった。

そんな中、いくらこれから富裕層が増えるからと言っても、何かもう、適当にその辺の富裕層をガーッと掴んで、バーッとザルかなんかに入れて、上からササッと塩でも振っときゃほら、下からカネが落ちてくるわけよみたいな、そういう発想は、それなりにインパクトがあった。

つまるところこれは、あらゆる業界を席巻するデジタル化とオートメーションによる急速なコモディティ化の一形態なのだ。私はそう直感した。

当時旬だった企業といえば、イートレード旅の窓口、楽天、それにエン・ジャパンなど、いずれも既存の商品やサービスを、オンラインに置換することによってより効率的に、大規模に、そして安価にした企業。高岡社長の口から語られた各種計画は、こうした流行りのストーリーの一環であるもののように思えた。

そうか。富裕層ですら、この大きな時代の流れからは逃れることができないのか。そう思うと、気持ちが昂った。

だから、その後会社同士の関係は残念ながら何の発展もみせることはなかったものの、アブラハムには個人的にずっと注目してきたし、ある日ゆかしメディアとかいうイマイチ冴えないサイトから当ブログが記事の提供を求められたときも、運営がアブラハムだったので快諾したりした。結果として、特にいいことは何もなかったが。

いつかはゆかしのはじまり

そうしてある日、「いつかはゆかし」は始まったのである。

はじめは稀に目にする程度であったそのバナー広告は、次第に露出の頻度を増し、終には閲覧するWebサイトの8割で表示されるようになった。電車内をはじめとする物理的広告スペースにも間もなく進出すると、それをも埋め尽くした。東京駅がゆかし一色だったときはさすがに引いた。

「いつかはゆかし」。紛れもなく、今後のアブラハムの行方を占う戦略的に重要な位置づけにある商品だろう。あれだけ大量に広告しているわけだから。それは明らかだ。

で、どうなのか。

結論から言えば、私は「いつかはゆかし」には懐疑的である。

いや、世論の大半というか9割5分は、件の商品に懐疑的であることは承知している。そういう意味で、当ブログも易きに流れたとの批判は避けられないかもしれない。

ただ、ひとつ言わせてもらうならば、私の見る限り、世間は「いつかはゆかし」のビジネスとしての成功をある程度折り込んでいる。その上で、適法性に対して疑問を投げかけている。

「あんな胡散臭いモノ、自分は決して騙されないが、騙される人はきっと大勢いるんだろう」

「それによってアブラハムは暴利を得ているに違いない」

「ケシカラン」

そのような認識が、目下におけるアブラハム批判の先鋒を担っているように見受ける。

私が言いたいことは、少し違う。

そもそもあれは、単なる失敗ではないのか。

高度に大失敗した事業というのは、周囲が訝しがるほどに莫大な収益を上げる大成功と、傍目には区別がつかない。

どちらも派手でいて、そこはかとなく怪しいのだ。そして、羽振りいいなと感じた瞬間、いきなり潰れたりする。恐ろしい話である。

チカラめしとか大丈夫なのか。全然関係ないけど。

いつかはゆかしとは何か

「いつかはゆかし」とは結局何なのか。

まず、あまり取り上げられているところを見たことがないので書いておくが、アブラハムにはそもそも「ゆかし」という、富裕層向けのコミュ二ティがある。

参加資格は、運用資産の規模で1億円以上。与沢翼なら秒速で稼ぎ出すところだが、庶民には高いハードルである。かかるハードルをクリアした一握りの人間が、アブラハムに対して一定の会費を支払うことで、晴れて「ゆかし」の一員と相成るわけだ。

当然、私はそのような参加資格を満たすことができない。よって、その内情は詳しく存じ上げない。ただ、想像するに、アブラハムは当該コミュニティに対して投資助言などを提供し、手数料を上げているのだろう。一応、上で紹介した当初の計画通りに事を運んできたわけだ。

で、「いつかはゆかし」である。

この明らかに「いつかはクラウン」をパクったコピーからも明らかな通り、これはつまり、「ゆかし」に入れない人々、いわばゆかし予備軍、ゆかしワナビーに向けたサービスに他ならない。

「いまは資産が少ないからゆかしには入れない。でも頑張ってお金を貯めていつかはゆかしに入ってやるぞ」

あのコピーは、そういう庶民の感情を頼んでもいないのに鋭く抉り出した問題作なのである。

ゆかしワナビーな庶民なんていうものが果たして存在するのかと言うと実際のところよくわからない。というか、まずいないだろうから、正確には「ゆかし」のブランディングを兼ねた下位組織の新設だろう。

スウォッチ・グループは、廉価なスウォッチを販売して顧客を増やしつつ、一部のロイヤルカスタマーに対してはオメガなどの高級腕時計を販売し、高い利益率を稼ぎ出している。

マテル社は、子供向けのバービー人形は可能な限り低価格で販売しているが、その子供が大人になってから購入するコレクターズアイテムとしての高級ラインナップで、大きな利益を上げている。

アブラハムも、廉価版である「いつかはゆかし」で顧客層を広げ、「ゆかし」の加入者拡大に繋げようというわけだ。うむ。ここまではいいと思う。

問題は、この先にある。それは、アブラハムが「いつかはゆかし」で釣り上げた庶民に対して販売している商品だ。

まさか世界の著名ヘッジファンドなどが月々5万円とかいうクサレ貧乏投資家を相手にするわけなどないから、一体何を売っているのかなと疑問に思っていたのだが、どうも噂によれば、ハンサード社とかいう何やら微妙なイギリスの会社の、ラップ口座みたいな運用商品を紹介しているらしい。ラップ口座というと、なんか大層なもののように思えるかもしれないが、これは要するに保険である。積立型の。

いや、保険て、という話なのである。

別に、保険を売ってはいけないというつもりはない。ただ、突然保険の代理店をはじめる会社に、ろくな会社はないのだ。

さよう。ただの偏見である。

本当にただの偏見なのであるが、本業で行き詰まって営業スタッフを持て余した会社が苦肉の策で販売し始める商品。それが、大体保険なのである。

私の拙い人生経験の内だけでも、手数料競争に敗れ収益源を失った中堅証券会社と、大型の量販店に駆逐された地方の携帯電話屋、それぞれの経営者の口から「保険を売ろう」というセリフを聞いたことがある。

在庫リスクもなくて、商品イメージも悪くない。何より一度売ると手数料が継続的に入ってくる。さあまた新しい1か月がはじまった、というときに、多少なりとも見えている収益がある。そういう安心感みたいなものが、追い詰められた鼠の心をくすぐるのだろう。でもこれがまた売れないんだ。

なんで売れないか。

これは、ちきりんさんじゃないけど、顧客のニーズに基づいてないからということだろうと思う。自社の営業リソースを活用したいというスケベ心がまずあって、では何を売るかという部分を自社の収益性によって決定している。そこには圧倒的に顧客の視点が欠けているわけだ。

そもそも保険なんて、空が落ちてくるかもしれないと怯えて夜も眠れないような人生守りに入ったオッサンと、手元にカネがあるとドンドン呑んじゃうからちょっと手の届きにくいところで貯金をしたいアル中のオッサンが買うものなのであって、1億円もの資産を築きたいと考える野心的な若者が買うようなものじゃない。

それでもまだ、アブラハムとして保険を売って儲かっているならいい。

とはいえ、そんなもの要するに、アメリカンライフの代理店がアウトバウンドのテレマーケティングに精を出して一般家庭に疎んじられているのと根本的には同じ構図なのであって、それがそんなに儲かったら、何というか、世話はないのである。世の中。

「いつかはゆかし」のリインベンション

アブラハムは、事業を拡大する過程で自社の顧客を見失っているのではないか。

いや、見失っていなければ、保険を売ろうなどと思うはずがない。きっと見失っている。見失っているに違いない。たぶん「ゆかし」の会員が増えなさすぎて、目先の売上に囚われてしまったのだ。

であれば、「いつかはゆかし」に必要なのは、必ずしも遵法精神だけではないということになる。必要なのはむしろ、ビジネスのリインベンション、即ち再構築である。

エイドリアン・スライウォツキーは、ビジネスのリインベンションを考える上でのもっとも重要な問いとして、つぎのものをあげる。

「顧客は誰か」


アブラハムの顧客は、言うまでもない。富裕層である。しかしそれだけでは、顧客の定義として不十分だろう。より具体的に、それがどのような人物で、普段何をしていて、どのような潜在的ウォンツを抱えているかを定義しなくてはならない。

現代日本において、年々増加する富裕層の大本命。

それはつまり、ニートなのである。

定職にも就かず毎日ネットをふらふら。気に入らない意見があれば正義の名のもとに鉄槌を下し、頼まれてもいないのに社会問題を論じては思索に耽る。壁をドンと叩けば食事が出てきて、眠くなったら好きなだけ寝る。

ニート。それは、高度成長期から現在に至るまでの過剰な貯蓄が生み出した余剰な労働力の結晶。深刻化する格差社会における二項対立の問題をアウフヘーベンする新機軸。生きるための労働という苦行からまったく切り離された純粋に文化的な存在。まさに高等遊民。現代の貴族。

現代社会において富裕層相手の商売をする、しかも既存のサービスのコモディティ化を目指すとなれば、私にはこの現代の貴族たちにフォーカスしない理由を探すことは難しい。

「いつかはゆかし」は、このような層にこそ向けられるべきものであったはずなのである。

そして、ここまでターゲットを絞ることができれば、まさか保険を売ろうということになどなりようがない。そんなもの、誰も求めてやいない。

彼らが求めているものは何か。

それはずばり、アイデンティティだ。

現代社会において、労働は単なる生活の手段という事実を越えた、複雑な意味合いを持つ。労働を通じて社会に貢献するという一連のプロセスは、欠陥動物たる人間にとっての、数少ない自己実現の手段なのだ。従って、労働の必要性から解き放たれたニートたちは、図らずしもその自己実現の手段をも失ってしまったことになる。自分はいったい何者なのか。ニートたちはそう問わずにはいられない。

オタク的趣味というのは、そんな彼らの華奢で虚弱な精神を支える柱のひとつだろう。

とりわけ「萌え」は、人間のプリミティブな感情と社会の文化的な営みの交錯するところに位置し、精神の支柱としての安定感は高い。

彼らは問う。「自分はいったい何者なのか」。

そして、彼らは答えるのだ。「萌え豚である。ブヒィ」と。

萌え豚というのは、もともとキモオタに対する蔑称だから、アイデンティティとしては少し自虐的だが、これはある意味人類全体に対する諦観でもある。要するに、誰も何物でもないのである。

「いつかはゆかし」も、この「萌え」というエッセンスを、避けてとおるべきではなかった。

あまりにも安易な発想。そう思うだろうか。

しかし、サニーサイドアップを見て欲しい。

サニーサイドアップ。あのサッカーの中田英寿が役員に名を連ねたことで一時期有名になった。スポーツ選手のタレント活動をマネジメントするみたいな、なんというか湿気た会社だった。

それが、最近金鉱を掘り当てたのである。けいおん初音ミク。オタクに人気のアニメキャラを活用した販促プロモーションだ。ローソンのけいおんキャンペーン。ファミリーマート初音ミクキャンペーンは、いずれも同社グループが手掛けた。

手掛けたっつったって、別にそんな大層な仕掛けじゃないし、そもそもそんなキャンペーンなど別に目新しくも何ともないではないかと思うだろう。

さにあらず、である。そんな下らないキャンペーンを2つばかり行った結果、サニーサイドアップの業績はこうなる。

はい、どん。

f:id:chnpk:20130324170606j:plain

それにともなって、時価総額もこう。

f:id:chnpk:20130324171221j:plain

開示資料にもミクたんのおかげだと正直に書いてある。

売上高 7,257百万円、営業利益 552 百万円、経常利益 587百万円、当期純利益 376 百万円と、売上利益ともに、期首予想及び平成 24 年 11 月 5 日公表の業績予想修正額を大幅に上回る見込みです。
これらは主に当社の基幹事業であるコミュニケーション事業と SP・MD 事業が、平成 25 年6月期第2四半期連結累計期間において増収増益を見込むものによります。両事業が好調である具体的な要因は以下の通りです。
コミュニケーション事業においては、ファミリーマート初音ミクのコラボキャンペーンといった全国大型販促案件の対予算規模拡大、インターネット領域において昨今高まるクライアントニーズを受けソーシャルメディアを活用したマーケティング支援案件の増加による売上増大とともに、新規事業の戦略立案領域におけるコンサルティングなど利益率の高い大型案件に注力しました。

業績予想上方修正に関するお知らせ(平成25年6月期 第2四半期連結累計期間および通期)

もうおわかりだろう。

そう。「いつかはゆかし」は、塚本高史などをイメージキャラクターに据えている場合ではないということだ。

初音ミクを使うべきなのである。

コピーも、「いつかはゆかし」では少し固い。「いつかわ☆ゆかぴ!」くらいがよかろう。

あとは、資産を増やすというコンセプトなら、オリジナルグッズは貯金箱をつくるのがいいだろうか。初音ミクの。しかも、それを直接売るのではなく、限定生産のレア景品にすることで一層のプレミア感を演出するというのが今風である。

保険をたくさん契約するとプレゼントとしても良いが、そもそも保険に拘泥する理由がない。はっきり言って、金商法の監視が煩わしいだけなので、金融商品ではないほうがいいだろう。何でもいい。お守りか情報商材でも売ればいいのではないか。

どうだろうか。

私には、実にバカバカしい話をしたなという確かな手応えがあるが。

参考

プロフィット・ゾーン経営戦略―真の利益中心型ビジネスへの革新
エイドリアン・J. スライウォツキー デイビッド・J. モリソン
ダイヤモンド社
売り上げランキング: 131,316

ザ・プロフィット 利益はどのようにして生まれるのか
エイドリアン・J・スライウォツキー
ダイヤモンド社
売り上げランキング: 10,539