「かわいい」とは何か
「かわいい」ってどういうことかなと、よく思う。
よくいわれる通り、女性の言う「かわいい」はかなり万能な褒め言葉であり、共通のプロトコルである。
「かわいくなーい?」
「ねーかわいいよねー」
という会話。相手の髪型に関しても言えるし、象の置物に関しても言える。
ここに「やばーい」と「まじか!」を加えると渋谷で交わされる会話の75%にも達する(勘)。
女性だけではない。男性も言う。
これは大体女性のことを評するときだ。
あの娘がかわいい。
どの娘がかわいい。
女性はみんなかわいくなることを目指しているし、男性はみんなかわいい女性が好きだ。
たゆまぬ努力によって高められた女性の「かわいさ」は、恋愛市場で取引されたり、そのままショービジネスのコンテンツになったりもする。
かわいさは価値の尺度であると同時に、交換の手段でもある。元アイドルみたいな肩書が多少なりとも意味を持つわけだから、価値を保存することもできると言ってもいいだろう。
貨幣のようなものだ。
で、だ。腑に落ちないのは、「かわいい」ことがなぜそんなに大事なのかということ。
だって、いくら頑張ってかわいさを競い合ったところで、動物や人間の赤ちゃんには敵わないことはないだろうか。と思うのだ。なぜそんな不毛な戦いにみんなが熱中するのかよくわからない。
佐々木希。たしかにかわいいと思う。なんか、人形みたいで。しかし、あのくらいのかわいさ、小さい子供ではザラじゃないか。いや、別に私はロリコンではない。幼児に対して、別に何も複雑な感情は持っていない。ただ、かわいいなーと思うだけだ。
おかしなことを言っているだろうか。ただ、かわいいというのはもともとそういう赤子などに向けられる表現だろう。で、女性の言う「かわいい」も、基本的には同じ単語だと思っている。高いヒールを履いてヨチヨチ歩いて、リップを塗って唇をテカらせ、チークで頬を赤くみせる。これが赤ん坊の真似でなくて何なんだろうか。
人間は、ほとんど何の能力も持たずに生まれ、現代では20年以上の歳月を経て肉体的、精神的に成熟しつつ、また、徐々に社会化されていく。われわれはもともと成熟することを求めていたのではなかったのだろうか。一体いつの間に、赤ん坊に戻ることが共通の目標になったのか。不思議じゃないか。
これについて少し思うのは、人間の未熟さを許容することが社会の理想だから、ということだろう。
昔から、生活感がなく、浮世離れしていて、成熟していないことは高貴であることの証だ。汗をかかないから眉毛剃っちゃうみたいな。ある種、現代でも同じなのかもしれない。未熟であり、赤子のような様態を維持していることこそが、富の象徴であり、権力の証なのではないか。
未熟な人間と、成熟した社会。これらが表裏となって、「かわいさ」を価値のあるものにしているのかもしれない。
ただ、なんだろう。そうするとわれわれは普段、成熟した社会に興奮しているということになるのだろうか。変態である。