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日本語が亡びるとかなんかそういうどうでもいい話ばっかりで、言語自体が亡びる可能性が論じられてない件について


あの有名な梅田望夫さんが、なんか日本語が亡びるとき―英語の世紀の中でとかいう本を祭り上げて全員読むべきと啓蒙したり、読みもしないでコメントするやつはバカだと嘲ってみたりと、巷はなにかと騒々しいわけであるが、当然私は読まない。読まないで適当なことを言う。

言語なんて、そもそもただのツールである。手段であって目的ではない。目的はコミュニケーションである。そういう意味で、言語も貨幣も一緒。コミュニケーションのインタフェース部分だ。そんなものにアイデンティティを感じたり、絶対化したがる人の神経がよくわからん。

確かに、言語に基づいた文化があることは知っている。文学とでも括ればよいのだろうか。しかしそれはそれ、これはこれ、である。本来の用途とはまた違う用途で取り上げられ、それが文化的な価値をおびるのはよくあることだ。CDの方が便利でもレコードの趣は廃れないし、写真のほうが正確であっても絵の情緒は失われない。レーシックの技術がどれだけ進展しようと、メガネっ娘萌えはなくならないだろう。どうもこの辺りを混ぜ合わせて話をしている人が多いように思う。

コミュニケーションのインタフェースとして、言語がその絶対的な地位を占めていた期間は確かに永く、我々人類から見るとまるで、言語こそが人間の本質、メタ歴史的な不変項のようにさえ見えるかもしれない。チョムスキーだかもそんなようなことを言っていたような気がする。しかしそれは錯覚だ。言語以前にもコミュニケーションはあったわけだし、当然ポスト言語もあると考えるのが自然だろう。


一瞬話がそれるが、このblogというかダイアリーは以前「BiBowlog」というタイトルで運用していた。すぐわかると思うが、備忘録をもじったものだ。ただあるとき私が急に色気を出しはじめ、備忘録と呼ぶにはあまりに人目を気にしだしたので、恥ずかしくなって今のタイトルに変えた。

しかしながら、基本的な運営コンセプトはタイトルほどには変わっていない。即ち、ここは私の妄想の保管庫、私の脳の外部拡張メモリーなのだ。それをチラシの裏に書かない理由も明白で、インターネット上にあれば分量が多くなっても持ち運びが容易だし、他者からのフィードバックを受け、場合によっては思考が洗練されることも期待できるからだ。

よって、私がこの方針でこのblogを書き続け、相当量が書き溜められた場合、このblogの読者の方々が実現できることは、私の脳内の大部分に検索をかけ、自在にアクセスできることに他ならない。


インターネットは、さまざまな知や情報をDB化し、またそれに容易にアクセスする手段を人々に提供した。この先起こるのは、人々の思想や思考についてのそれであることは想像するに難くない。まさに私のBlogがそうであるように、だ。そういうトレンドだと思っている。

この状況の実現を阻害するものこそが言語だ。言語と言うインターフェースを活用する限り、私は外部拡張メモリーを利用するに際して、いちいち思考を言語の形式に返還してアウトプットしなくてはならない。これは面倒だ。さらに、私は比較的その作業が好きなのでなんとかこのblogも続いてはいるものの、言語化の作業があまり得意ではない人も大勢いるだろう。言語と言うインターフェースの制限下では、そういった人々の思考にはまったくアクセスすることがかなわない。民族によって言語が違うなどという状況はもってのほかだ。


今後あるだろうことをあげていくと、まずは自動翻訳の高精度化だろう。現状はgoogleですら、割とお粗末な翻訳ソフトウェアをリリースして世の中の失笑を買っているようだが、これが完全な精度を実現するのに何十年もかからないだろう。こうして、グローバルにコミュニケーションするに際して、言葉の壁が問題になるというバカバカしい事態はじきに解決するだろう。

次の壁は、アウトプットに際しての言語化という作業だ。これについても、入力インタフェースの開発は随時進んでいると思われ、音声認識による発話入力からジェスチャーやアイコンタクトも折りまぜた感情表現へと進展し、おそらく最終的にはコメカミのあたりにUSBを差し込めば、考えたことが入力できるようになるはずだ。

そこまでくればゴールは近い。すぐに脳みそにLANケーブルを差す日が来るだろう。これを持って人類の頭脳はインターネット上でひとつになる。個々の人間はでっかいひとりの人間の肢体の一部に過ぎなくなる。基本的に個体と言う概念は消える。すべてが細分化され、整理され、アクセス可能になった状態というのは、即ち「無」だろう。


上に書いたのは確かに下らない妄想だが、個人のblogによる情報発信がこれだけ盛んに行われている状況を見るにつけ、我々は上述した妄想へと続く道の入り口程度には来ていることを感じる。気分的には、英語の覇権が、などと言っている場合ではない。