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他人のことを我侭とか言う奴は大抵自分が我侭

ヒト 議論

はっはっはっはへの返答をば。

まず、上記のエントリーにおいて長々とご説明いただいている以下の理屈について、完全に同意する。同意するというか、当該叙述は、目から鱗が落ちるほどに、私の潜在的な感覚を顕在化させるものだ。

したがって、社会システムからの排除というのは、排除の対象を社会の中で構成された<社会の外>に差し向けることを意味します。(中略)
システムは自己の外側に位置する対象を適切に観察することはできません。システムが外側を観察する場合、それはシステム自身が擬似的に構成した<外側>を観察することになります。

おそらくこれは、たとえば他人のことを自己中心的だと批判する人物が、明らかに群を抜いて自己中心的であるという事例がよくあるという事実と同じことだと思う。即ち、「彼は自己中心的だ」という第三者批判的なコミュニケーション自体が、実は自己言及的なコミュニケーションメディアによって形成された他者に対する観察というコミュニケーションであるという構図が、他者批判が単なる自己言及であるケースの蓋然性を高めているのだろう。そしてこの他者への批判を形式化するコミュニケーション・メディアというのは、要は自己に対するコンプレックスやリヴァイアサンだろう。

ちなみに、私の「他人を悪く言う人は、大概自分のことを言っているに過ぎない」という感覚は、「子供は我侭だ」という何の意味もないただの事実というかむしろ単なる言葉の定義を、公然と主張し続ける我侭な人に対する長年の観察の経験から得られたものであって、「結局は自分が恥ずかしいだけだから他人の悪口は言うべきでない」という私の原始的な行動指針につながっている。その感覚が、『ネオ・サイバネティクスや精神物理学方面によって実証的に認められて』いるというのは実に驚きだ。

このことは、また、被差別者による差別者批判からかたちづくられた道徳心が、結局ただの人間批判であるという構図とも整合するものだとも理解している。


ところで、同エントリーは、私が先のエントリーで適当に整理した論点を論外だと位置づけるところからはじまるが、実は私にとって前提となる論点整理自体は正確なものである必要はない。フリードマンではないが、私の前のエントリーの目的は、反論という形式で自身の主張を行うことであって、その主張さえ正しければその前提となる整理が正確かどうかは何の問題にもならない。確かに、私は愛という概念と愛というコミュニケーション・メディアによって形式化されるコミュニケーションを混同したし、社会システムと機能システムの違いもいい加減な理解だった。ただ私の主張は以下のとおりなのであって、これらの誤解は1に対しては何の影響も及ぼさないし、2においては単に社会システムという単語を機能システムに換言すればよろしい。

  1. スイーツ(笑)」のコミュニケーションは、「愛のコミュニケーション・メディアによって構成された恋愛」ではない。
  2. 恋愛はいまや、「モテ」というコミュニケーション・メディアを携える社会システム機能システムであって、愛と恋愛の区別は、愛と民主主義の区別と差異はない。

そしてこれらの主張の意味するところは、「スイーツ(笑)」のコミュニケーションは、機能システムからの阻害の代償として機能しないということである。
1については、まさにmagician-of-posthumanさんも言及されている通り、「スイーツ(笑)」のコミュニケーションは、『排除された観察者が擬似的に構成した<恋愛的コミュニケーション・システム>に過ぎない』ということだ。これは何がいいたいかと言うと、要は当初のiammgさんの脱・「スイーツ(笑)」化宣言の狡猾さを示唆するものである。即ち、彼女が放棄したのが純然たる恋愛コミュニケーションではないというところがポイントで、彼女はその放棄に際して、「スイーツ(笑)」という『外部から睨みつけている排除された観察者』によって形式化されたコミュニケーションを敢えて利用することによって、むしろ純然たる恋愛的コミュニケーションへの回帰の道筋を明確に残したのである。繰り返すが、iammgさんが放棄したのは、「恋愛的コミュニケーションのうち侮蔑の対象となっているような一部分」若しくは、「恋愛コミュニケーションから排除された者が構成した擬似的な恋愛コミュニケーション」なのであって、いずれにしても再発見するような対象ではないと主張している。そういう意味でmagician-of-posthumanの当初のテーゼとの関連という意味でも、決して関係ないこともない。

そして2の論点は、純然たる社会システムとしての恋愛的コミュニケーションから派生した、機能システムとしての恋愛的コミュニケーションが存在するのではないか、ということである。前回も申し上げたとおりこれは仮説の域を出ないわけであるが、そもそも愛というコミュニケーションメディアによって構成されたはずの、純然たる恋愛的コミュニケーションに排除される人が存在するということに対する違和感から来ている。
書いてて気づいたが、これはもしかして、経済システムなどの機能システムの中に擬似的に構成された恋愛コミュニケーションを観察することで得られたものなのかもしれない。つまり「スイーツ(笑)」の定義とは、機能システムからの負担を免除するために、より抽象的な社会システムへの回帰を求めたものの、結局経済システムの中の擬似的なコミュニケーションに回収されてしまった人々ということにはなるまいか。もしこれが正しければ、「スイーツ(笑)」のコミュニケーションはやはり、代償モデルとしての機能は、純然たる恋愛的コミュニケーションなどに比して低いといえるのではないだろうか。