本能の欠落と言う人間の本質と、資本主義社会の負担免除
はっはっはっはを読んで。
とりあえず、今回の応答でわかったのは、私がせっせとボールを投げていた方向は、明後日だったということくらいだろう。「人のことを我侭とか言う奴は大抵自分が我侭」論を褒められていい気になっている場合ではない。
私は、magician-of-posthumanの人が、「スイーツ(笑)」的コミュニケーションを放棄し、その埋め合わせ的に機能システム的コミュニケーションを選択すると、不可避的に機能システムに回収されるから、「スイーツ(笑)」的コミュニケーションへの回帰を選択肢として維持すべきだと主張しているものと思っていたので、「スイーツ(笑)」だって機能システムだとか、「スイーツ(笑)」と愛とは違うなどの主張を頑張って推し進めてきたが、
無論、既に侮蔑された後での選択です。だから当初の「愛」をメディアとした恋愛的コミュニケーション・システムはもはや存在せず、代数学的に再参入された<恋愛的コミュニケーション・システム>へのコミットメントとなります。
だそうだ。無論、と。
つまり、またいい加減にまとめると、「スイーツ(笑)」への回帰を唱えているのではなくて、愛というコミュニケーション・メディアの再発見を唱えているというわけだ。しかも、時間の経過によって、愛というコミュニケーション・メディアによって形成された純然たる恋愛的コミュニケーションは既に存在し得ないとまで言及されている。
立つ瀬がないとはこのことだろう。
さらに、
無論、この負担免除にも負担は伴うでしょう。しかし、どのような負担かは、少なからず私には、まだわかりません。一度ネット上で嫉妬心旺盛な方々から侮蔑的に「スイーツ(笑)」として槍玉に上げられていた女性陣が、それでも尚「愛」をメディアとした<恋愛的コミュニケーション・システム>にコミットしたならば、どのようなパラドキシーが派生するのか。
本来この話は、ここから始まるはずだったのです。
と続けられてしまっては、もはや諸手を挙げて賛同するしかない。おっしゃるとおりだ。ボールを投げ合っているつもりで、必死で投げまくっていたら、実は相手に向かって投げているのではなくて、段々相手と同じところを目指して投げてました、みたいな。いやあ、恥ずかしいですね。恋は盲目。関係ないけど。
さて、恥ずかしいついでではあるが折角なので、『どのようなパラドキシーが派生するのか。』という、ついに明確になった問題提起*1に、教わった言葉を活用しながら適当に触れておく。
まず、資本主義や市場経済の優れた点は、貨幣や市場価値という極めて他者観察を容易にする−または自己言及的パラドクスの負担を生じさせづらい−コミュニケーションメディアを有することであり、これにより資本主義や市場経済といった経済システムは、他の機能システムに対しても支配的な位置づけにあると思う。いずれの社会やシステムにおいても、それに包摂された人は、当該社会やシステム内での相対的な評価・序列をもとに市場価値を得、経済システムの名のもとに交換に興じることが可能となる。この市場価値の付与のプログラムの作動が、人間から見てすべからく受動的なものであることが市場経済のポイントで、世に市場原理が蔓延ったひとつの要因だろう。
そして、現代社会のひとつの特徴は、magician-of-posthumanの人の指摘の通り、機能システムの専門化による疎外の代償が、愛などの形而上学的概念に求められていることである。magician-of-posthumanの人が上記エントリーで紹介している「欠陥動物」の概念は、これも−「人のことを我侭とか言う奴は大抵自分が我侭」という自己言及的パラドクスに加えて−まさに私が先日少年野球を見ながら考えて以来強く感じていたところである。即ち、メタ歴史的な不変項としての人間の本質とは「本能が欠如している」という欠如自体にあるのであって、それ故人間の歴史とは、本能の欠如を文化的に補完してきた歴史に他ならないと考える。これを負担免除論というのだそうだ。
いま起こっている現象は、高度に発達した文化または人工的な世界が、社会を制御するシステムとして機能することで、人間を超越し、ときに制御しているという現象だ。この疎外による負担の免除が、愛などの、より本能に近しいと思われる概念に求められることは、また自然なことであると考える。
ところが、かように単純化することによって明らかになるとおり、そもそもの負担は本能の欠如から生じているわけであって、その負担の代償を本能的なものに求めようという発想自体に無理がある。この無理、即ち負担の免除を担ったのが経済システムであったのだと私は考える。これは換言すると、恋愛的コミュニケーションが恋愛資本主義化した経緯は必然的だという意味で、つまるところ、上述したとおり経済システムが支配的なコミュニケーション・メディアを有すればこそ、恋愛的コミュニケーションは再発見され得たということだ。であれば、たとえ「スイーツ(笑)」が「お金じゃないのよ、愛よ」といったところで、その愛は経済システムによる自己言及的なコミュニケーションに過ぎず、結果として愛なのに人を排除するという謎の状況が起こる。
ちなみに私は、そもそもの発端であるiammgさんの脱「スイーツ(笑)」化宣言はここまでの流れをなんとなく理解したうえでなされたものだったと勝手に理解しており、ついでに言うと、このことをシステム論とやらをまったく意識せずに表現したのが当初のエントリーの以下の部分だったりする。
「スイーツ(笑)」という嘲笑のための概念が存在していること自体が、恋愛主義社会という社会の存在を示していて、そういう社会があるのであれば、そこには何らかの社会システムが存在している可能性が高いのではないの、ということ。
「スイーツ(笑)」のコミュニケーションを選択することによって、恋愛主義社会システムに阻害される可能性である。「スイーツ(笑)」が嘲笑する対象のうち多くは、恋愛の過剰な功利化によって恋愛が恋愛らしさを喪失した様、である。これは非モテによる単なるルサンチマンであるとともに、恋愛主義を信仰するあまりに人間的に阻害された人々への訓戒でもあるのではないのだろうか。
スイーツ(笑)は甦らない。 - よそ行きの妄想
確かにいま振り返ると、社会とか社会システムとか機能システムとかの定義に関する理解というかそもそも意識がないので、magician-of-posthumanの人に言わせれば意味不明だろうが、私的には言いたいことはあまり変わってはいない。まあ、勉強は大事だと言う話。
話がそれたが、さらに言えば、資本主義の負担とは生きるために必要な資源の獲得という本来的な意味における人間の本質的な営みと、資本主義的なコミュニケーションとの分別を曖昧にするところにあると考える。つまり、場合によって資本主義的な排除が人間の生自体に及ぶということだ。私は以前に信仰と戒律になぞらえてこの件の問題提起をしているが、このことはシステム論や負担免除論でも同様の問題意識を導けるだろう。
恥ずかしさも相まって、ひたすらに冗長になってしまったが、要は言いたいことは、資本主義は絶対的かつ網羅的なな支配を実現した一方で、資本主義的なコミュニケーションの弱者に対して、生や死などの絶対的な負担を課すことがあるということだ。これはおそらく愛に対しても同じだろう。資本主義は究極的には人間からすべてを奪う可能性を持つ。
こうした資本主義による絶対的な負担から脱する術を模索するにあたっては、本能とかいうありもしないものを祭り上げるのではなくて、むしろ人間の築いた文化や世界の源流を辿るべきであって、それが「家庭」なんじゃないの、というのが予てよりの主張だったり。
*1:「ついに」、なのは私にとってのみだが。