居酒屋でみんなで議論しているとどんなに難しい問題でもなぜか結論が出てしまう法則
なんとまたお返事を頂戴したわけである。
はっはっはっは
もし本エントリからご覧になる方がいたら、経緯はこちらから。
id:magician-of-posthumanは、一体何の利害が私と一致しているのかよくわからない*1が、これだけかまってくれるのは実にありがたいことだ。どうもありがとうございます。
とりあえず話の筋とはまったく関係ないが、ここまでのやりとりで、「居酒屋でみんなで議論しているとどんなに難しい問題でもなぜか結論が出てしまう法則」の所以がなんとなくわかった気がする。つまり、みんなごちゃごちゃと自らの持論を、お言葉を拝借すると得意なコミュニケーション・メディアでもって披露しあうわけだが、極限(に近いところ)まで突き詰めると考えていることは大体似たようなことか、若しくは何も考えていないかどちらかなのである。似たようなことを考えているもの同士であれば、適当に合意できる段階で「お前は分かってる。人間は偉大なんだ!(←究極的合意点の例)」とか言って肩を組むことはできるし、何も考えてない人は「なるほどねー」で終了する。居酒屋という場所の設定がどれだけの意味を持つかと言うと、これは酒の席という意味で、要は相手に同意したいという「感情」を酒が増幅させると言うことだ。なんとなく思いついたので、なんとなく書いてしまった*2が話の筋とはまったく関係ない。失礼しました。
さて、話を戻そう。まず、id:magician-of-posthumanの主張をまとめるとこうだ*3。
- 愛などの形而上学的概念は社会システムの代償モデルであって、社会システムとは区別され得る。(阻害論、負担免除論)
- 愛と恋愛とは区別され得るが、区別の境界が上記の区別とは異なる。即ち、その区別はコミュニケーション・メディアと観察対象という区分だ。例えば私が一つ前のエントリーで行った、恋愛の経済性に関する言及は、経済システムにおける「貨幣」というコミュニケーション・メディアによって構成された経済的な自己言及的観察から構成された恋愛」である。(コミュニケーションの差異)
- よって、「愛のコミュニケーション・メディアによって構成された恋愛」としての「スイーツ(笑)」のコミュニケーションは、各種の機能システムに回収され得ない。(結論)
もしこの論点整理が正しければ、私は反論として以下の論点を提示したい。
- 「スイーツ(笑)」のコミュニケーションは、「愛のコミュニケーション・メディアによって構成された恋愛」ではない。
- 恋愛はいまや、「モテ」というコミュニケーション・メディアを携える社会システムであって、愛と恋愛の区別は、愛と民主主義の区別と差異はない。
順を追って。
まず、1番目の論点であるが、「ない」ことを証明するのはなかなか難しいが、これは「スイーツ(笑)」の定義に遡ることで可能になる。わざわざ(笑)がついているとおり、これは侮蔑の概念なのだ。つまり、愛という崇高な概念のコミュニケーション・メディアによらないからこそ、「スイーツ(笑)」は「スイーツ(笑)」なのだ。愛のコミュニケーション・メディアによるコミュニケーションであれば、それは愛なのであって、わざわざ「スイーツ(笑)」と表現する必要がない。
次に2番目の論点。
これは正直な話、仮説の域を出ないわけだが、私がこの仮説を提唱するに至ったのは、恋愛が人に対して序列をつけるからだ。これは包摂と排除の話*4ではなくて、恋愛を迎合する人が恋愛から価値を得ているということで、結果として恋愛が社会のヒエラルキーを形成しているという意味だ。
確かに、恋愛と言う行動様式は愛という概念から派生したものだろう。しかしながら、愛という概念は全人類に対する平等性にその基盤を置くものであって、ここで恋愛と言う単語を、とりあえず日本国内において単に「恋愛」と言った場合のあの軽薄な響き(≒恋または色)を指すものとすると、両者の間には大いなる乖離がある。
恋愛は愛というコミュニケーション・メディアで構成されるものではない。恋愛を自己言及的に観察する場合のコミュニケーション・メディアは「モテ」や「愛され力」である。
無論、愛というコミュニケーション・メディアでもって恋愛を観察することは可能だ。しかしそれは愛というコミュニケーション・メディアによる自己言及的な形而上学的コミュニケーションによる恋愛の観察に他ならないのではないか。
ちなみに、私が先のエントリーで売春の話を持ち出したのは、「モテ」というコミュニケーション・メディアが資本主義社会との整合性を確保することによって市民権を得た、というプロセスの説明である。