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ブログに何を書くべきか

雑談

毎年のことながら、気づけば年末になっている。

なぜ別に気を失っていたわけでもなく、毎日普通に生活していたはずなのに、ふと気が付くと年末になっているものかと考えたが、たぶん、夏が長過ぎる所為だろう。

エルニーニョ現象だか地球温暖化だか、詳しい原因は存じ上げない。存じ上げないが、最近、妙に夏が長くなっている。

なにせ10月いっぱいくらいは、平気で気温30度のいわゆる真夏日ラインを超えてくる。10月はいまや夏だということだ。昔は9月までくらいではなかったろうか。そうして10月いっぱいまで夏が続くものだから、ようやく涼しくなったと思うのはつまり11月ということになる。「来月は12月か」などとのんびり構えていると、すぐにその12月がやってくる。すわ年末である。

ご存知かどうか知らないが、当ブログは毎年夏になると更新が途絶えることになっている。これも要するに暑いからである。

純然たる社畜である私は、何を隠そうこのブログの8割を通勤途中の銀座線車内で書いている(残り2割は風呂)。が、夏の銀座線というのは、とてもじゃないが何かをするのに適した環境ではないのだ。あの狭いトンネルに無理矢理詰め込まれた旧式の車体には、暑さに弱い現代人を満足させるための十分にパワフルな空調設備を背負い込むだけのゆとりが、明らかにない。乗客からのクレームに晒され続けた結果だろう。聞いてもないのに、空調の設定が車内アナウンスで再三周知される始末である。車内では単に座っているだけで、汗が噴出してくる。サウナか。

そうしてそこに、クールビズの大号令のもと解き放たれた白シャツの襟元からその縮れた体毛をチラつかせ、 脂滴る肉塊が大挙してなだれ込んでくるわけだ。奴らは、座席に少し空いた隙間でもあれば、その巨体を遠慮なくねじ込む。傍らに人無きが如し。暑いし、臭いし、痛いのである。世に過酷な環境は数あれど、あれほどのものを私は知らない。地獄と呼んで差し支えなかろう。

そう。単なる思い付きの妄言を、ただ気の向く儘に書きなぐっているだけと思われがちな当ブログであってさえも、一応書くためには思索を要するのである。地獄と見紛うほどに過酷な環境では、到底思索などできようもない。できてポケモンのレベル上げくらいなのだ。

こうした状況は10月いっぱい継続して、11月は惰性で休養。漸く更新を再開しようかと思うのが12月なのだ。「気づけば年末」で始まる記事が増えるのも頷けるというものだろう。


さて、このような年次の休養を利用して、今年は少し、ブログについて考えた。

ブログに何を書くべきか、である。

振り返れば、今年の当ブログは、少なくともアクセス数の面から言えば、年初から比較的堅調であった。

アダルトビデオ女優に関する取り留めもない雑感で正月を飾ると、スタバ利用に際してのマナーを問いかけると見せかけてアップル信者を罵倒した。西ではてながCFOを募集していると聞けば便乗して無責任にはてなかくあるべしと語り、東でソーシャルゲームがバブルだと聞けば門外漢の野次馬的立場から野放図に茶化してみせた。こう考えると碌なことを書いていないが、ページビューだけはそれなりに積み上げることができたのだ。残念ながらメルマガブームには乗り遅れてしまったが、メルマガ考察にこじつけて人気ブロガーを揶揄することは忘れなかった。

然し難しいもので、こうして記事を書けば書くほど、そしてそれが文章として成功すればするほど、益々何を書けばいいかわからなくなっていくような感じはあった。段々と字面と私との距離が離れていって、次第に足元が覚束なくなり、ついには何百メートルも上空から小さい紙切れか何かに書き込んでいるような感覚になる。今日に至る長期の休養も、キッカケこそ上述の通り暑さによるものであったが、それが長引いた理由の一つには、こうした心持によるところがあったかもしれない。

どうすれば地に足をつけたまま、ブログを継続していけるのか。

継続するためには、当然成功が不可欠である。

では一体どうすれば、読者の心に残るような成功した文字列を絶え間なく生み出し続けることができるのか。


この問題について、もっとも重要なことは、おそらく、「同じことを書く」ということだと今般思い至った。結論から言えば、である。

ともすれば我々は、毎回毎回、新しい発想や視点、若しくは斬新な言い回しなどを求めがちである。そうした新しい何かを生み出し続けることこそが、継続の意味するところであるとさえ考えがちではないか。水は一箇所に留まると腐るみたいな在りがちな喩えを持ち出してもいい。兎に角、変化の方に重きを置き、変化に乏しい様を停滞と見做して軽んじる傾向がある。やに思う。

今般私が思い至ったことはこれとは逆で、変化に晒されず、同じ状態にとどまること、若しくはそういう要素をつくりあげることこそが、ブログを成功させるための要諦ではないかということである。


このように思った背景はいくつかある。

先日、KindleのPaperwhiteを購入したが、肝心の書籍の方の品揃えが何とも言えない感じなので、藁をも掴む思いでジャンプコミックスの超人気シリーズ、「ジョジョ」の8部を読んでみたのだ。失礼だが。

ジョジョの連載開始は私が7歳の時で、かれこれ25年以上連載しているのに、衰えることを知らない面白さには心底驚かされた。

ただ、そのジョジョも、必ずしも毎回毎回、まったく新しいアイデアが次々に創造されることによって、ここまでの連載を重ねて来たというわけでもない。むしろ逆で、変わらぬジョジョらしさの存在こそがシリーズの人気を担保しているわけだ。

シリーズを通底するテーマは人間讃歌だそうで、なるほど言われてみればそんな気がしないでもないが、なにもそこまで一気に上流に遡ることもない。より表面的な部分だけでも、第3部以降継続しているスタンドという概念や、それを活用したスリリングなバトルは一切変わっていない。微動だにしていない。それを演出するホラー味溢れる重厚な筆致や、臨場感を高める独特の効果音も然りである。ギリシャ彫刻みたいな芸術的佇まいの登場人物たちも、よく見ると大体みんな同じ顔である。

スピード感溢れる描写故だろう、何となく奇抜な展開や表現の斬新さに目を奪われがちなのであるが、真に着目すべきは、実はほとんど同じ内容の繰り返しということの方なのだ。「らしさ」をしっかりと維持しつつ、飽きさせない。制約の力を最大限に利用しながら、読者にその存在を感じさせない。実はずっと同じことを書いているのに、どこか違って見える。

自分の鼻糞ブログと日本を代表する人気コミックシリーズを並べて語るようで大変恐れ多いが、地に足をつけた継続というのは、まさにああいうことを言うのだろうと思ったのだ。


また、それより以前には、爆笑問題太田光が、同世代の芸人数人を評して「(彼らは)まだテレビで面白いことを言おうとしている」と発言したという話を目にしたことがあった。

当時、芸人が面白いことを言わないでどうすると、通り一片に訝しがった私であったが、なんとなく本意が気になって、心に留めていたのである。

かく言う太田光は、「面白いこと」を言う代わりに、粗末なダジャレや、取るに足らないベタなボケを繰り返しながら、現在の地位を築いていった。それこそ四六時中「面白いこと」を言おうと熟慮していた彼のライバルたちよりも、純粋なネタの面白さという尺度では見劣りして然るべきである。にもかかわらず、彼は確かに成功してみせたのだ。何故か。

これは、視聴者が、芸人による単発の発言や動作、及び漫才、並びにコントといった、いわゆるネタのみを消費するのではなくて、寧ろ文脈を消費するからである。「この芸人はこういう人だ」というような、よりメタ的な要素を共有することによって、視聴者は、眼前で繰り広げられるその芸を、より一層愉快に消費することができるのだ。

芸人は当初、視聴者との間で共有すべきメタ要素を持ち得ない。あるのは単発のネタのみである。この段階において、芸人の全神経は、ネタの完成度に対してのみ向けられるべきだ。それこそ、先人たちが繰り広げてきたネタを入念に研究し、それを拡張させ、変化させていく必要がある。

然しながら、ある程度ネタが評価を得、テレビなど各種メディアで露出する機会を得ると、事態は変わってくる。ネタ自体よりも、その背景や人物像を含めた全体を視聴者と共有することになりはじめる。所謂「キャラが立つ」というやつのことで、メタへの移行である。

メタ要素は、芸人のネタを制約する機能を持つ。芸人は、例えば一度かたちづくられた自らのキャラからは、容易に逸脱することは許されない。すべての行動や発言はキャラというメタ要素の文脈で消費される。

その一方で、この制約があるから、芸人は視聴者と文脈を共有することができ、まったくゼロからの積み上げを再現することなく、芸人として芸を継続し得る。要するに、縛り上げられてこそ発揮できる力というものがあるということだ。如何にも変態的であるが。

然し。然しここに、あのほとんど何を喋ってるかも聞き取れないような老人タレントどもが、今だに食いっぱぐれないどころかテレビ界の帝王よろしく大手を降って闊歩できている理由がある。爺さん共のネタはことごとくベタだが、大御所なのに縛られているという文脈のなかで、いまなお映えるのである。


これは、実は人間が存在するということの意味を問う話でもある。

あの人がもしここにいたら。もし仮にこの場に参加していたらきっとこう言うだろうなと周囲が想像するそのイメージこそが、その人の存在なのだ。

イメージこそが存在であり、人体というものはある種、そのイメージをもっともうまく体現するための機能に過ぎない。モノマネと口寄せは紙一重とはよくいったもので、言わないかもしれないが、要は存在の強さなのである。

面白いとは何か。それは、存在の強さなのだ。


何の話だ。ブログの話だった。

ブログに何を書くべきか。

これはやはり、毎回同じことを書くということであるから、つまるところは、毎回武田邦彦上杉隆を嘘つき呼ばわりして、ミクシィの倒産を祈願したうえ、「そんじゃーね」で締めるということに他ならない。

そう。またこのオチである。皆さん、良いお年を。