キャラ化する企業
先日の「日本のベンチャー企業に見られる3つの類型 - よそ行きの妄想」というエントリーは、印象だけでテキトーに書きなぐった割には770ものブックマークを集めてしまい、誠に恥ずかしながら当ブログの最高記録となってしまったわけだが、あのエントリーを書きながら、ふと企業にとってもっとも重要なことは、製品でもビジネスモデルでもなく「キャラ」なのではないかなどと思ったわけなのである。
重要性が高まるキャラ
キャラが重要視されること自体は、特段珍しいことではない。
中学や高校の教室を思い出してほしい。それこそ、エリートやヤンキー、オタクといった基本分類からはじまって、モテキャラやアイドルキャラ、毒舌キャラに天然キャラ、キモキャラ、いじられキャラなど、各人に固有のキャラが割り当てられ、キャラの優劣によっていわゆるスクールカーストがかたちづくられていく。
各人のキャラは一度割り当てられると容易に変更することは難しく、キャラからはみ出した言動をとることも基本的には許されない。最近では「キャラ疲れ」なる言葉もあるようで、キャラを演じるのに疲れたという症例が学生などに増えているそうだ。
芸能界でもキャラが重要であることは言うまでもない。というかむしろ、芸能界で行われていることが、学校で行われていることのモデルになっているのかもしれない。
芸能界には同じキャラは何人もいらないという基本ルールがあるから、新しい人が売れるには、すでに存在するキャラをより洗練させて、というかキャラを濃くして前任者を駆逐するか、これまでになかったキャラを新たに創造(イノベーション)するしかない。先日メチャイケのオーディションを見ていたら、単なる巨乳アイドルだけではキャラが弱いから亀甲縛りをミックスしましたと宣う明らかに二流っぽいタレントが出演していて思わず引いたが、ことほどかように「キャラのイノベーション」は袋小路にはまっているということなのかもしれない。
テレビというのは、そういう意味で、新しいキャラのモデルを売っているところなのだと考えることもできる。テレビで新しいキャラを仕入れた視聴者たちが、それを自らが所属するコミュニティに持ち込むわけだ。
キャラが大事であることはブロガーも然りであるから、私も他人事ではない。いっとき極論キャラが複製され過ぎた時期があって、ブロゴスフィアは極論で埋め尽くされていたが、いまではむしろあまりストレートな極論というのはみかけなくなってきた感もある。いやそうでもないか。
キャラが求められる理由
さて斎藤環によれば、キャラとは「同一性を伝達するもの」である。同一性の考え方が難しいので同氏の著書から少し引用しておこう。
異なった場所で同型の車をみかけたとしてみよう。このとき、僕たちは「車の同一性」を認識できるだろうか。むしろ「よく似た車だな」と思うのではないか。しかし、もし異なった場所で同じ外見の人物を認識したなら、彼(女)は、ごく自然に、同一の人物とみなされるだろう。
これは僕たちの現実認識において、人間にのみ強い固有性が与えられているからだ。哲学的な問題としては、もちろん車に限らず事物の固有性を取り扱うことは可能だ。しかし僕たちの日常問題においては、事物の固有性は、それが人間に関連づけられない限り、ほとんど問題にならない。
基本的に事物を機能で捉えるとき、固有性は失われる。同じ機能さえ持っていれば、違う個体であっても同じものとみなすことができる。車で言えば、同じ車種はすべて同じ車になってしまう。もっと狭い意味で、ある固有の車が同一性を保つためには、"Aさんの車"というように誰か人間に紐づけるか、もしくは擬人化して"車たん"のようなキャラをつくるしかない。キャラが同一性を伝達するとはこういう意味だろう。
とすると、我々がキャラを求めるのは、自らの同一性を伝達したいがためということになる。ただ上の引用部からも明らかなとおり、人間の同一性というのは、もともとそこら辺の物体などに比べれば充分担保されているということになっている。にもかかわらず、いまキャラの重要性が高まっているとすれば、それは我々の同一性が何か危険に晒されているということなのかもしれない。
これは私の推測だけれど、我々の同一性を脅かすもののひとつは、やはり機能であると思う。社会が複雑化するに従って、我々はますますシステムの一部に成り下がっている。システムは複雑かつ巨大であり、我々の挙動がシステム全体に影響を及ぼすということはほとんどない。既にみたように、事物は機能で捉えられると固有性を失う。おそらく人間とて例外ではないのだろう。
「自分が死んでも替えはいる」に対抗する手段が、他人と被らない「キャラ」なんではないか。
企業とキャラ
で、企業である。
キャラが立った企業というのは、要するに同一性が保持された企業なのであって、語られる時間や空間や文脈が異なってもそれらが同一の企業であると人々が認識できる企業である。企業にとって、そういう特性を持つことは極めて重要なことである。
繰り返しになるが、我々は複雑で巨大なシステムに接続するにあたって、自らの同一性を本質的に認識できない。できないから、我々はキャラをこしらえる。それでも足りない分を、社会との接続ハブである企業に対して仮託するのではないか。
だから企業のキャラが立つと、まず採用が有利になると思う。その企業に所属することで、要するに自らのキャラが立つことにも繋がるのだから。これは、先のエントリーで解説したヤンキー的な価値観を媒介にベンチャー企業に結集した非エリートがチーム的な連帯感で恍惚とする現象とまったく同じだ。
同じ理由で、最終的には企業のキャラ自体が、製品やサービスの付加価値になる。いま、世界で一番キャラが立っている企業と言えば、やはり米国アップル社だろうか。少なくとも現状だけ見れば、アップル社の製品を持つということは、消費者にとって自らをアイデンティファイするためのひとつの手段となっているように見える。
ただ、アップルについて言えば、もしジョブズがいなくなったらと考えると、あれはアップルのキャラが立っているというか、ジョブズのキャラが強過ぎるだけという気もしなくもない。その場合は単に「Aさんの車」という方法で車に固有性を持たせる例と同じで、「ジョブズの会社」だから意味があるということになり、会社自体が何らかのキャラを持っているということではないということになる。奇抜な本社ビルの建設などは現行のキャラをジョブズ以外のものに紐づけようとしているのかもしれないが、それがうまく行くかはよくわからない。悪い方法ではないと思う。
まあ、キャラというかブランドイメージのことでしょと言われればそれまでのような気もする。けれど、ブランドイメージが良い悪いで捉えられがちな一方で、キャラは被る被らないで捉えられるから、やはり少し違うものだとも思うわけだ。今後ますますグローバル化が進むだろう経済を舞台に、企業間でキャラのイス取りゲームが繰り広げられると思うと、なかなか悲愴感があってよろしい。
参考
キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人(双書Zero)posted with amazlet at 11.06.07斎藤 環
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表紙の絵がなんとなく池田信夫センセのtwitterアイコンに似た感じなのが若干気になるが、内容は面白かった。結論は要するに上で引用してしまった部分、即ち、キャラとは同一性を伝達するものだということに相違ないわけだが、そこに至るまでの推論や考察にも読みでがある。あとがきによると実に8年もの歳月をかけて世に出されたのだそうだ。
読んでみればわかるが、キャラとはなにかという問いは、要するに人間とは何かという問いなのであって、もしあなたが暇ならば、時間潰しにはうってつけの題材であることは間違いない。