結婚についてまとめ

最近(リアルの)仲間内で、結婚する人やそうでなくても結婚願望を募らせる人が多い。そういう年齢になったのだろう。
私はとっくに結婚してすでに子供もいるという、仲間内ではかなり先行した立場なので、結婚について尋ねられることも増えてきた、というか尋ねられこそしなくとも、上から目線で語れるチャンスというのは確実に増えていることを実感する。

ただ冷静に振り返ると、そういうチャンスを活かして的確な自分語りや啓蒙や煽りができていたかというと、考えがまとまらないばっかりにチャンスを逃していたような気もするので、結婚4年目にして、いちど自分なりの結婚観をまとめてみたい。

これから結婚をお考えの人や、若造が結婚を語るなという諸先輩方も是非。

  • 結婚とは家庭という社会をつくるための制度である。

なにやら大げさな話から入るが、最初だけなので勘弁してくれ。
結婚という制度の必要性はなにか。ひとつには、「子供の母親の夫」として父親の位置を設ける目的があると思う。母子関係が産んだ産まれたの直接的な関係であるのに対し、父子の関係は「顔がそっくり」などの場合を除いて結構微妙なものがある。(参照:父親とはなにか−フランス父親事情を読んで - よそ行きの妄想)この微妙さはDNA鑑定や血液型鑑定の手法が登場する前はおそらくさらに顕著であって、結婚という制度で父親に父親として「位置」をつくることである程度しばらないと、「ほんとにおれの子かー?」とか言いながらフワフワとどこかに流浪してしまう父親が続出してしまうことは想像に難くない。そして父なし子が多い社会はスラム化する。つまり、結婚による小さな社会の創造とその後の統制は、より大きな社会からの要請である。
もうひとつは農業の単位としての家である。農業には一定の労働力が必要であって、労働力を確保するには、家という社会を設けてその中で分業する必要がある。生きるため、である。

  • 結婚は利他的。恋愛の延長ではない。

日本に近代的な恋愛感が定着したのは明治以降である。当然結婚はそれ以前からあった。この起源の異なる2つの概念を同一線上に捉えるのは誤りである。
うえに書いたとおり、結婚の本質は社会運営であって、利他性が重要な要素である。利己性が中心となる恋愛とは似て非なるというか、結構正反対だという実感がある。
結婚すると大概子供ができる。子供は他者を認識できないから我侭である。しかも彼らはひとりでは生きていけないから、しばしば何にもまして優先される必要がある。大体我侭な男(おれとか)はこれに耐えられない。「嫁ー。もっとおれのこと見てよー。」とか思っちゃう。キモいよ。
また、社会の本質のうちひとつは、分業である。即ち、社会とはある一面において、その構成員に対して仕事という「義務」を課すシステムである。これがわからないと、「嫁(とか子供)のために毎日遅くまで働いてやってんのに。」とか思っちゃう。違う。うざい。それは社会を存続させるための義務であって、別に感謝を強要するような話ではない(感謝された方がうれしいし、ことが円滑に運ぶことは間違いないが)。例えば、近所の公園を掃除してるおじさんに「いつもありがとうございます」とさわやかに言ったことがない人は、断じて嫁や家族に感謝を強制すべきではない。

  • 恋愛感情は確かに有効だけどもっと大事なのは持続可能性。

恋愛感情は有効。これもまた確か。要は極端なことをいうと、家庭からまったく恋愛感情的なものを排除してしまうと、夫婦間がギクシャクするのである。
なぜなら、そうは言っても「恋愛したから結婚した」という意識はどうしてもあるし、なによりも夫婦の関係は家庭の雰囲気をかなり左右する。雰囲気はいいに越したことはない。これ重要。
そういう意味で、結婚の相手を選ぶにあたっては、長期的にいい関係を築けそうな相手を選ぶことが最も重要である。というとなんだか恋愛結婚を奨励しているように受け取る方もいそうだが、決してそういうわけじゃない。むしろ逆で、自分と相手の性格や趣味、嗜好、家族同士の相性まで、冷静かつ客観的に分析しないと長期的な予測や展望は難しい。恋愛感情はしばしば人を盲目にするので、結婚相手を選ぶにあたってはむしろ邪魔だろうというのが私のひとつの結論である。

  • メリットとかそういうことじゃない。

上述したとおり、人が結婚するのはそもそもそうすることが社会にとって必要だからであって、メリットとかそういう話ではない。
ただ、一方で個人に結婚の必要性がないかといえば、それはある。
ひとつは分業。例えば家事。または子育て。それからダブルインカム(共通コストの削減)。特に子供が欲しい場合、社会によるサポート制度は随分発達したとはいえ、やはりひとりではかなり厳しい。時間的にも。収入的にも。心の余裕も。であれば結婚して、社会を設けて、そこで分業する「必要」がある。
そして、社会を持つということによる社会からの承認。要は「結婚した。周りが一人前の大人として話しかけてくれるようになった。」ということ。精神論ではあるが精神論ではない面もあったりする。例えば大企業になると、ある一定以上の役職には既婚者でないとつけない、というような文化があるかもしれない。その場合などは、出世したい人は結婚する「必要」がある。
そしてこの話にはもうひとつ結論がある。それは、結婚の必要性は、客観的にはどう考えても減ってきていると言うこと。家事の「スイッチひとつで」化は著しいし、シングルマザー(ファザー)に対する社会福祉は充実する方向だし、既婚を出世の条件にするような文化は廃れてきている。残るのは「社会から認められたい」などの精神論だけだ。それすらも多様化する価値観のなかで忘れ去られようとしているのが現代社会ではないのだろうか。なんてね。
参照:お知らせ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
男性は結婚すべきではないスレ Flash

  • 結婚とはしてもしなくても後悔するものである(カフカ

まとめるとそういうことだろうな。
社会から認められたいっていう精神論は、忘れられがちだけど、結構本質的で根強いんだと思うよ。


しかし嫁も見るかもとか思うとどうにも書きづらい*1。。

*1:浮気についての話題は意図的に割愛

高齢化社会における企業組織についての必然性

実質的にはこれのつづき。
今日、(旧来的な)日本社会が滅んでいくんだなあということを実感した。 - よそ行きの妄想

上の記事のブコメに、

id:zu2『子供叱るな来た道じゃ。年寄り笑うな行く道じゃ。 / じゃあ、社会としてどうするかだよな。 そこが抜けるとただの年寄りいじめ。』
はてなブックマーク - zu2のブックマーク - 2008年8月26日

という実に的確なご指摘をいただいたこともあり、続編として考えてみた。もとエントリから文体が変わっているのは特に意味がない。気になったらすまんこ。

まず考えたいのは、老人⇒バカ⇒不必要なのか、という問題。これについては、あくまで主観の域をでないが、そういうわけでもないと思っている。ご老人の経験などは、価値観の固定化を招くというデメリットを差し引いてもなお、有効な場合は多い。そういう経験を組織の内部に取り込む意義は少なからずあろう。また、ご老人は社会からの信頼も厚い。これはまさに、「彼らがこれまで大きなポカをしないことによって築きあげてきたもの」であって、逆にいえばある程度の年月をかけることなしには得られないものである。社会からの信頼が不必要という企業はなかろう。稀にはあるのかな?

そう考えるとやはり問題は、組織の中に老人がいることではなくて、老人の割合が高まってしまうこと、のように思う。組織は、おそらく年齢と人数で分布を書いた場合に、綺麗なピラミッド型になることが望ましいのではないか。


もしそうであれば、とるべき方法は2つだろう。

  • ピラミッドの上部をちっちゃくする。

これは単に、能力主義の名のもとに、老人を間引く(リストラする)ということを意味する。企業の人事部各位が倫理観を投げ捨てて鬼に徹すれば、たいして難しいことではないだろう。
ただこの方法論は、非常にわかりやすい課題を内包する。即ち、全部の会社がそれをやったら、とにかく老人があぶれる、ということ。MMR風にいえば、街は老人だらけになってしまうだろう。おそらくこういった方向性が明確になった段階で社会として、又は国家として(老人は数も多いし投票率も高いので、政治に対する影響力が相対的に強い)対策をとらざるを得なくなるだろう。
その対策が、「人口島をつくって、そこを老人のパラダイスにします。その島は完全な循環経済で持続可能です。しかも何人乗っても大丈夫です。」みたいなイナバの物置さながらにハッピーなものであれば言うことはないが、例えば「企業は何割以上老人を雇え」とか短絡的なものだったら、なんとゆうか「振り出しに戻る」を意味する。しかもどう考えても後者のほうが確率が高い。

  • ピラミッド全体をでっかくする。

ピラミッドの上部を固定して、それに見合ったサイズのピラミッドをデザインしなおす。どれだけ老人が増えようと、それにともなって下部を拡大させることができれば問題はないはずだ。しかしこれについても、上記と同種の課題が提示されよう。そもそもその「ピラミッドの下部の人数」が社会全体で見て相対的に減っていることから生じた問題なのだから、そこを増やせと言うのは現実を無視した循環参照的な理想論だ、と。産めよ増やせよ竹中平蔵がマリーアントワネットを気取ったところで何の効果もないことは既に明らかになっている。

しかしそのそもそもの問題というのは、現状に限って言えば日本社会の問題で、グローバル社会全体の問題ではない。なにをいいたいか。移民政策とは言わない。日本の空気は基本的に外人を受け入れない。

ではなにか。引っ張りすぎか。それは海外企業の子会社化ではないか。IT技術の発展により、同じ会社の人は同じ国にいなくてはならないということはなくなった。ピラミッドの上部が肥大化してしまった日本の会社が、人口が急激に増えているような国の会社をマージすることで、連結ベースでみたピラミッドが適正化される。だめ人間が合体して一人のタフガイに生まれ変わる感覚だ。ちなみに、中国は文化的な摩擦を考えるとあまりうまくいきそうなイメージがないので、インドやブラジルのほうがいいと思う。

  • 結論。

高齢化が進んだ日本社会の企業は、グローバル化に「頼らざるを得ない」のではないか。そしてこのことは、「これからの企業における成功の鍵はIT化とグローバル化だ」という既に語りつくされすぎて真っ黒になって、異臭すらはなっているフレーズに落としこめるところもポイントだ。要は植民地政策でしょ、という見方ができるのも実に従来どおりだ。

また、世界全体が高齢化した場合は、今度は宇宙人に頼らないとならないというファンタジーな話になるが、その頃には私は死んでいるから気にしない。