コミュニケーション能力とビジネスの関係と、非コミュの可能性

socioarc | 非コミュ指数テスト』というのをやってみた。

結果は、『非コミュ指数: 64(レベル3/重度非コミュ/不器用型)』*1だそうだ。数値の信憑性は知らないが、以下の質問などはあてはまりすぎていて、うっかり顔が引きつったくらいだ。

  • 飲み会では、気がつくと他の人が席を移動していて隣に誰も座っていない。
  • 同世代や下の世代に対しても丁寧語で喋ることが多い。
  • それほど親しくない人と2人きりになると落ち着かない。
  • 休日などに、街で会社や学校の知っている人を見かけると、つい見つからないように避けてしまう。
  • メールはともかく、電話で話すのは得意ではない。
  • 何気ない雑談が苦手だ。

対人関係のリスク許容度

ということで、私はいわゆる「(重度の)非コミュ」である。とりあえずそういうことにしよう。しかし一方で、特にビジネスの局面で特に困っていることはない*2。少なくとも自分ではそう思っている。そこで今日は、改めてコミュニケーション能力とビジネスの関係について考えてみたい。

私の認識では、上に例にあげたような状況に共通する、私が苦手とするポイントは、「何を話していいかわからない」ということである。何を話していいかわからないから徐々に伏目がちになり、そうすると相手も話しづらくなり、気まずい雰囲気が支配するという寸法だ。

大して親しくない人と話す場合、基本的に、何の話をすれば相手にとって満足度が高いのかという推測が働きづらい。どういうタイプの話題が好きなのかとか、どういう態度で接すると満足度が高いのかなどのデータが不足しているためである。

おそらく、普通の人であれば、そういった「何を話していいかわからない」局面を乗り切るための、当たり障りのない話題レパートリー*3をいくつか持っていて、そういったものを駆使しながら相手の出方を伺い、データを蓄積していくのだと思う。そしてある程度データが蓄積できれば、最低限相手を不快にさせないための話題や態度を消去法で選択することができる。若しくは自分に自身がある人などは、相手の嗜好などお構いなしに、「嫌いたければ嫌えこれが俺だ」的スタンスで、初対面から自分語りを披露するのだろう。そういう人を見たことはある。

ただ、いずれも私にとっては非常に難易度が高い。そもそも私は、どの程度のデータがたまれば相手の嗜好を推察できるかについての閾値が異様に高い。二言三言交わした程度ではもちろん、数時間話してもまったく確信が持てない。おそらく普通の人も、なにか確信を持って話題を選択しているわけではないのだろうが、そこはある程度で見切りをつけて、果敢にリスクテイクしているのだと思っている。つまり換言すると、私は相手の嗜好を推測して話題なりを選択することによって相手にネガティブな印象を持たれるリスクに対する許容度が他人より低いのだと思う。

ちなみに、酒を酌み交わしながらの会話であれば、こちらも気が大きくなって、それなりに大胆に振る舞うことも可能だが、酔いがさめると冷静になって、酔っている時に仕入れた相手に関するデータから、酒の影響を控除しようとするから、ほとんど何のデータも後には残らないことが通例である。簡単に言えば、あの人僕のことを気に入ってる風だったけどあれは酔ってたからだろうなということ。

目的を限定し、制約を設けることによるリスクヘッジ

上述したとおり、初対面の人や、そうでなくても付き合いの浅い人との会話にはいつも四苦八苦している私だが、例外もある。それは、何らか明確な目的に基づいた集いだ。

ある集いに明確な目的があれば、会話の相手とも、少なくとも形式上はその場における目的を共有していることになる。であれば、上述したような私が苦手とするポイントのうち多くは解決される。少なくともその目的に適う話題を選択しておけば、大きくハズすことはないからだ。さらに、ポジショントークに徹することで、パーソナルな評価に係る問題を度外視することも可能だ。ちょっときつめのことを言っても、あとで「すいません、立場上・・」とでも言っておけば、自分の人格に被害が及ぶリスクをほぼ確実にヘッジ(回避)することができる

ということであるからむしろ、ビジネスのミーティングなどの場は、私にとって比較的心地がいいものである。ビジネスという制約があるために、会話が楽なのだ。

非コミュの可能性

以上をまとめると、次のように言える。ビジネスの場面などの語るべき話題やとるべき態度が制限される環境に身をおくことは、直接的に各人のコミュニケーション能力を補完することにつながると。

であれば、コミュニケーション能力の低い人の方がむしろ、ビジネスの場面に大して相対的に居心地のよさを覚える可能性*4が高く、結果として「仕事熱心」になる傾向が強いとさえ言えるのではなかろうか。若しくは、その生来のリスクに対する多感性を交渉ごとなどに活かすことも可能かもしれない。

そう思えばこそ、昨今の企業の採用活動などにおいて、コミュニケーション能力を重視する方針には疑問を覚える。確かに他人の言っていることが理解できないという意味でのコミュニケーション能力の欠如であれば、それは業務上問題があろうが、上述したようなリスク許容度が低いことに起因する「非コミュ」と単純に理解力に欠ける「非コミュ」を区別することはできているのだろうか。大体、他人の言っていることを理解する能力なるものが本当にあって、さらにその能力に大きな個体差があるというのも相当眉唾だと思っているがどうか。


また、全然関係ないがお笑い芸人という職業も、「非コミュ」が活躍できる場のような気がする。笑いの本質が共感だとすれば、リスクに敏感なタイプの非コミュは、誰しもが感じるリスクを言語化してコミュニケートすることで共感を得、笑いをとることができるだろう。そして当該コミュニケーション自体にまつわるリスクについては、お笑い芸人であるという制限によってヘッジするのだ。

松本人志が、「面白いやつというのはネクラなやつ」みたいなことを言っていたように思うが、案外その真意のうちのひとつはこういうことではないか。

非コミュの弱点とその克服【追記】

ブコメで、非コミュの弱点として人脈構築の不得手さを指摘された。確かにその視点が欠けていたので、これについて少し補記しておきたい。

イチ非コミュとして言わせてもらうが、確かに私も広く浅いネットワークをつくるのが大の苦手である。上述したように、他者との親密さの構築においてはその相手に関するデータの蓄積が重要と考えるが、私のような非コミュの場合、浅い付き合いで獲得した相手のデータや自分との関係性をちょっとした時間の経過やほんとにふとしたきっかけで次々とリセットしてしまうのだ。つまり、少し前に開拓したネットワークが順次リセットされていくから、まったくネットワークが広がらないというわけ。

ただ、これについても考え方次第でメリットを見つけることが出来ると思っている。即ち、パーソナルな形式での関係維持が不可能に近いからこそ、一旦構築した関係を仕組み的に落とし込む方策を考えることにインセンティブが働くのだ。例をあげれば、とりあえずの関係を構築した際に何らか相手方に定期的に連絡させるインセンティブを与える契約を締結する、といった取り組みなどである。

思うに、なんぼ自信を持とうが、パーソナルな関係性というのは実に脆い。それが浅ければ浅いほど、だ。人の気持ちなど何がきっかけで変わるかわからないし、そもそもはじめから何を考えているのかわからないのだ。であれば、他者との関係性の確実性を増加させる営みというのは、ビジネス上の優位性に他ならないはずだ。

逆に、コミュニケーション巧者が自身のパーソナルなネットワークを過信し、はしごを外される様を私は何度も見てきた。そして、はっきり言って、私が彼らと同じ轍を踏むことはまずないと言い切れる。パーソナルな関係性に対する自信と言うものがそもそもほとんどないのだから。


ただ、当然最後のところで、属人的な信頼関係のようなものが非常に重要になるケースが多いのは、経験上理解する。しかしこれについて言えば、そもそも浅い関係では重要な局面になればなるほど大した役には立たない。

そして、おそらく、そういった重要な局面で威力を発揮するようなかなり親しい間柄に発展する他者の数というのは、非コミュだろうがなんだろうが大して変わらない気がする。いずれにせよ長い期間を要するからだ。

まとめ

  • コミュニケーションの結果に関するリスクは不可避的であるから、リスク許容度の低い人は、リスクヘッジの方法を考えるべき。
  • ひとつの方法としては、コミュニケーションの目的自体を予め制限することで、被害の範囲も限定してしまうことである。
  • そうして非コミュを補えば、むしろリスクに対するセンシティビティーをアドバンテージに変えることもできる(かもしれない)。
  • 非コミュは、コミュニケーションのリスクをシステマチックにヘッジするよう努力することを必然的に迫られることになるが、その考え方はおそらくビジネスとの相性がよい(はず)。

*1:最初は87という高得点をたたき出したが、あんまりだと思ってやり直した。

*2:ちなみに私は営業職。

*3:もっともベーシックなテクニックは天気に関する話題だろう。

*4:これについてはもしかしたら、人間不信型非コミュでは「ない」ことが必要条件かもしれない。