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「所有」の目的化

こどもを見ていて気づく人間ってそういうものかなシリーズ。

私からすると結構不思議なんだけど、世の中的にはそれなりにまかり通っている考え方というものがあって、その中のひとつが「好き」と「所有」(乃至は「独占」)をセットにするような考え方である。

例えば、身近に非常に魅力的な異性がいたとする。強い好意を抱くことになるかもしれない。ただ、それと「付き合いたい」とか、「結婚したい」というのはまた別だと思うのだがどうなのだろうか。

付き合ったり結婚したりというのは、果たして必要なことだろうか。「好き」という感情がゴールでは何故いけないのか。何故その先に交際や結婚というある種の契約関係に発展させる必要があるのだろうか。


好きな異性と付き合いたいというのは、きっと世の中的には自然な考え方なので、私の感じる違和感は少し伝わりづらいかもしれないが、よくよく考えてみれば、世の中には単に「好きだ」で終わる話というのは結構ある

絵画や美術品などは、通常の人であれば単に美術館で一時的に鑑賞し、その鑑賞しているときの気分でもって話は完結する。自然などもそうだ。ハイキングや山登りの最中にあって、我々は雄大な自然から適当に尊厳かなにかを感じ取り、それなりの気分に浸ることができる。冒頭の例に倣い、異性関係で考えれば、芸能人がそうだ。我々はテレビ等々で日々芸能人を鑑賞し、時に好意を抱く。ただ、その好意は通常結婚などの具体的な行為を目的にしたものではない。


こう書くと、それらは単に「手が届かないからあきらめているだけだ」という指摘を受けそうなものだが、私が言いたいことは、我々は「好き」という感情を抱いたときに、別にただそれだけで満足することもできる、つまり「所有」を切り離した愉しみ方を熟知している筈なのに、何故場合によって「所有」をセットで考えてしまうときがあるのか、ということである。

上にあげたいくつかの例で確認した通り、我々は「好き」という自分の感情を、それだけで愉しむことができる。恋煩いなどという言い方もあるが、誰かや何かを「好き」だと思うことは、基本的には非常に価値のある経験だろう。このことは、そうした恋愛経験なりを擬似的に体験できるコンテンツが世に溢れていることからも明らかだと思う。

何度も言うが、我々は誰かや何かを「好き」と思ったときに、そこで満足し、終わることができる。そういう思考回路を持っている筈だ。そう考えれば、隣のクラスのA子ちゃんが「好き」になったとしても、別に告白したり口説いたりせず、その自分の「好き」という気持ちだけで満足するということに何らの不自然さもないように思える。もっと言えば、たまたま入ったお洒落な雑貨屋さんで、ハートに訴えかけるような珍しくて素敵な小物を見つけたときも、慌ててレジに駆け込むようなことをせず、ただ鑑賞して満足すればよいのではないかと思える。

むしろ、A子ちゃんに告白したらこっぴどい振られ方をして、逆に嫌いになってしまうかもしれない。せっかく「好き」だったものがひとつ減るのだから、これはその告白した人にとって損失である。お洒落な小物も、買って持って帰って飾っておいたら、いずれ飽きが来て興味を失ってしまうかもしれない。そもそも買わなければ、次に見かけたときもまた当時のような感動を味わえたかもしれないのに、そのとき買ってしまったばかりに、次からは逆にうんざりしてしまうかもしれない。つまり、「所有」にはリスクが伴うということだ。

こんなことは、誰しもが感覚的に知っている話ではないだろうか。にもかかわらず、ときとして我々が「好き」ということと「所有」するということをセットで考えてしまうのは何故なのだろうか。


で、ここからが本題なのだけど、思うに、我々にはそもそも「所有」することを求める性質のようなものがあって、「好き」というのはただの口実なのではないか。つまり、我々は「好き」だから「所有」したいのではなくて、「所有」したいから「好き」なものを探しているのではないか。

私がこんなことを思ったきっかけは、うちの4歳児である。彼は、デパートのおもちゃ売り場などに行くと、当然のことながら、アレが欲しいコレが欲しいと強請るわけだが、あるとき次のように言うことが増えたのだ。「何か買いたい」。まったく具体性に欠けるではないか!

「何かとは何か」と私が尋ねさえすれば「それはこれのことだ*1」と具体性を帯びていくが、問題はそんなことではない。驚愕の事実は、彼の購買意欲が実は具体的な商品に基づかずに発生していたということのほうだ。

私はそれまでてっきり勘違いをしていた。彼は何か欲しいものがあるから強請るのだとばかり思っていた。ところが話はまったく逆で、何かが欲しい、つまり「所有」すること自体が目的で、その対象は割と何でも良かったのだ。


こうしたうちの4歳児に見られるような特質は、我々大人にもしっかりと残っているのではないか。文化や教育の影響で水面下になりを潜めているかもしれないが、本音のところで我々は、「所有」自体を目的化している部分があるのではないだろうか。

そう考えると、上の方で例示したようないくつかの疑問もあっさりと解決する。要するに、交際や結婚が目的なのであって、「好き」というのは単なる口実なのだ。相手を独占するために支払う対価と言っても良いかもしれない。「好き」と宣言しないことには「所有」が叶わないから、仕方なく「好き」な相手を探しているというわけだ。

単に「好き」という気持ちを満喫したいなら、可能であれば食事にでも誘ってじっくりと鑑賞・堪能すればよろしい。


ちなみに、もっと言うと「消費」というのは、こうした「所有」の代替的行為かなとも思うが、それはまた別の機会に。

*1:息子は本当はこういうしゃべり方をしません。

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