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都心住まいの価値とは何か

生活

みなさんご存知の通り、都心の地代は高い。実に。

しかし果たして本当にそれだけの価値があるものなのか、都心住まいというものは、という話である。今日はそのあたりについて考えてみたい。


かくいう私の生家は渋谷から歩いてまあ15分程度、都心といえば言えなくもない立地にある。今でもそこに住んでおり、家賃というものを支払っている事実はない。従って、都心の地代が高かろうが安かろうが関係ないと思われがちな立場だ。

とは言え、である。

もし都心住まいの価値が不当に割高に評価されているのであれば、私は、今の家を高値で売り払って郊外で悠々と暮らすことが合理的だということになるだろう。

つまり、私は家を売却してしまうという選択肢に関する機会費用を、常に負担していると言える。であれば、都心住まいの本当の価値には、やはり人一倍敏感で然るべきなのだ。


で、渋谷。

渋谷から徒歩圏というと便利だなんだと持ち上げられることが多いのも事実だし、実際、例えば大震災があって交通が麻痺しても大概歩いて帰れたりするから便利は便利なのだけど、実際に住んでいると不満も多い。

まず汚い。

これである。

まあ言ってしまえば渋谷などは、年がら年中、朝から晩まで、居並ぶ雑居ビルから歩いてる人間に至るまですべてが汚いのだが、今、殊更に申し上げたいのは、朝の渋谷についてである。

とにかく、朝の渋谷はゴミが酷いのだ。道路狭しと並ぶゴミ。ゴミ、ゴミ、ゴミ。

普通、大きな店などであれば、出たゴミは専用の業者などに夜のうちに運び去ってもらうのが通例と理解しているが、どうも渋谷の雑居ビルで飲食業を営む人には、公的サービスの利用者が多いらしい。とにかくあちこちにゴミ袋が散乱する。

そこに群がるのが、人より多いのではと思うほど大量のカラスである。

やつらは、寄って集ってゴミ袋を突き回しては、中に詰まった残飯を食べ散らかすから、もうあたり一面残飯まみれになる。汚い。

そう。これだけでもう十分汚いのだが、さらに悪いことには、そこに大量の水が撒かれる。なんだかよくわからないけれど、毎朝決まった時間になると雑居ビルの管理人なのか、爺さんと婆さんが現れて、道に大量の水を撒くのである。水を撒く理由はよくわからない。雨が降っても水を撒いている。とにかく水を撒きたいようだ。

意図はともかく、結果として人間の残飯をカラスが食い散らかしたものに大量の水分が加わるとどうなるか。

これはもう完全にゲロなのである。汚すぎる。汚すぎて、ゴミ収集の人が心底気の毒になる。

また、ある店は -いつかどこの店か突き止めて食べログに書き込んでやろうと思っているのだけれど- 牛タンの塊みたいなやつをそのままゴミ袋に入れて捨てる。すると当然それはカラスによって引きずり出される。結果、道端に牛の舌が転がって、巨大なカラスがそれに群がるという図になる。猛禽類さながら。実にワイルドである。

で、またそこに今まさに道玄坂を下山してきたばかりといった風のギャル及びギャル男が、ド派手なアニマル柄を身に纏ってヌラヌラと通りがかったりするわけだ。

サバンナか。


汚いことも去ることながら、意外と用が足りないという不便もある。

ちょっと買い物に、という場合。近隣の商店街は渋谷との競争を強いられた結果完全に瀕死の様相であり、コンビニすら潰れていく始末なので、ちょっとした用でも渋谷まで出て行かないといけないわけであるが、じゃあ渋谷まで出て行けば大抵の用が足りるかと言えば、これがまたそうでもない。

ご存知の通り、渋谷という街の客層は若年層が中心であるから、そこに軒を連ねる店舗も、必然的にそういう客層狙いの店が中心になる。

ブックファーストH&Mになってしまったし、HMVはフォーエバー21になってしまった。ヤマダ電機のおもちゃ売り場もゲーム売り場によって駆逐された。先日は5歳の息子に自転車を買い与えようと渋谷中の自転車屋をめぐったが、14インチ以下の自転車を発見することは、ついぞ叶わなかった。

要するに、こういうことなのである。

一見するといろんな店が揃っているようで、その実ほとんどが安アパレルだから、家具や玩具の売り場を求めて、結局郊外に出て行かざるを得ないなんていうことはZARAなのだ(アパレルだけに)。

そもそも、街として広すぎることからして不便極まりない。ハンズ行ってビックカメラ行ってTSUTAYA行ってなんて言ってると半日かかるわけだよ。余計な安アパレルはもうちょっと間引いてもらっていいから、街としてこじんまりまとまって欲しいところではある。坂も多いし。


ついでに言えば、駐車場が高すぎて車を持つのは事実上無理というのもある。

駐車場代だけで月7万とかもままあるわけだ。ちょっとした家賃か。

地下鉄網がありとあらゆるトコロに張り巡らされているので、まあ車などなくても特に困りはしないのだけど、言っても車のほうが便利な局面が多いのが子持ち家庭の宿命である。

電車は、乗り換え含め、何だかんだ歩く距離は長いし、階段も多いから、子連れにはそれなりの負担になる。どこに行くにも車移動という地方暮らしの方が、むしろ近代的なのではないかとふと思うときもあるわけだ。


と、ついつい不満が長くなったが、このような不満に突き動かされ、先日、港北ららぽーとを視察に行ってきた。

大型ショッピングモール!

それは、そこに行けばすべてが揃う超複合施設。地代がやたら高い都心にはそぐわないコンセプトだ。清潔な店内。合理的に整備された区画。漏れなくダブりなく厳選された店子。車で数分のところにこのような施設があれば、さぞ便利なのではないか。そのような、ある種の憧れが私にはあった。

確かに通勤は多少不便になるかもしれない。でもちゃんと特急の時間さえ調べておけば。それさえキチンとすれば、通勤時間自体は大して変わらないのではないか。そのような希望を感じてもいた。

しかし百聞は一見にしかずとはよく言ったものである。

私の大型ショッピングモールへの淡い期待は、実際に現地に足を運んでみると、脆くも崩れ去った。

いや、想像していたメリットは確かに想像していた通りだったと言わざるを得ない。とても綺麗だし、便利だった。子供の用事も済むし、大人の用事も済む。それも、たった一度のお出かけで。ちょっと甘いものでも食べて、ゲームをして帰る余裕さえある。何なら映画を見てもいい。まさにそういう場所だった。それは間違いなかった。

ただ、である。どうにもこうにも、こちらが"処理されてる感"が強すぎたのだ。

施設に一歩踏み入った途端、まるでベルトコンベアーに乗せられた乳牛のように消費欲を搾り取られる感覚とでも言えばよいだろうか。人波に押し流されながら施設を歩くと、次々に提示される商品の山。

はじめのうち、我々はその中から好きなものを選んで消費しているような気分に浸れるが、実のところは選ばされているだけなのである。いらないものといらないものを比べて、どっちがマシかという判断を迫られ続ける。

つまるところあれは、人間の欲を効率的にカネに替えるための工場なのであって、我々はその工場の顧客ではない。商品なのだ。


ららぽーとで私が目にしたものは、渋谷の街を覆う野性味とはまったく対照的な、むき出しの合理性であった。

ららぽーとでは、適者生存の原則に則って店子が全部似たようなアパレルになってしまうこともないし、アダルトな店の谷間にいきなりペットショップができるような奇想天外も起こらない。すべては合理によって決まる。

しかしここで重要なことは、人間は、徹底した合理には不快を覚えるということだ。

ゴンドアの谷の詩にもある。

「土に根を下ろし 風と共に生きよう 烏とともにゴミを散らかし 婆さんとともに水を撒こう」

自然の摂理から離れた"合理"をいくら突き詰めても、かわいそうなゴミ収集の人を目に付かないところに追いやっても、それは価値とは呼べないのだ。


話をまとめよう。都心住まいの価値とはいったい何か。

そのヒントは、あのサバンナのような野性味の中にある。

即ち我々は、ド派手なアニマル柄の服を着て、より一層ゴミを散らかし、ジャブジャブと水を撒くべきなのである。

いったい何を言ってるんだ私は。