歎異抄

思想シリーズ、仏教に到達。まずは本の紹介です。

歎異抄 (岩波文庫)

歎異抄 (岩波文庫)

で、概要なんですが、


本願を信じ、念仏をもうせば、仏になる。


以上。実に簡潔です。ただまあ、少し噛み砕くと、人間とは煩悩が多く苦悩が耐えない存在である。それは人間の本性であり、本質であるから、人間は自ら救われることはできない(他力)。如来はそんな人間が救われることを願う存在(本願)であり、人間はまず上記の事実を信じ、受け止めなければならない。そして、覚りをひらき、また他の人にも覚りをひらかしめるために、念仏を唱えつづけなくてはならない。しかし、悪を行うことだけではなく、念仏をもうすという善にたよるようなこともあってはいけない。善・悪というものはなく、人間が行うことができるのは、本願を信ずることのみである。そういった行いを続けていれば(念仏をもうせば)、人は浄土にいくことが出来、仏となり、はじめて他者を救うことができる(生前は他者を救うことはできない)のである。といった感じでしょうか。


キリスト教との比較を試みると、こちらの方がなんだか非常にしっくりきます。おそらく、やはり日本の道徳や慣習の多くは、そうはいっても仏教に根付いているからなのでしょう。


で、非常に大きな違いを感じたのは、善悪の判断と、行動性です。


まず、善悪の判断についてですが、キリスト教においては、これは非常にはっきりしたものがあると思います。最初にモーセが与えられた十戒があったように、善とはどういうものかを一生懸命に定義づけようとしているとさえ、見られます。ニーチェが言うには、富めるものを悪と定義付けるための善の定義、ということでしたが、まあそういうことなんでしょう。善とはなにかというと、隣人愛ということになります。一方で仏教においては、善も悪もないぞと。一様に人間は煩悩が盛んで罪悪が深い生き物だぞと。一見身も蓋もありません。ただこれはよくよく考えると生を否定しているわけではない。そういう煩悩とか罪悪がありますよ、という認識をさせたうえで、むしろ生を肯定する枠組みである。煩悩があっても罪悪が深くても、仏になれるわけですから。むしろキリスト教のほうが、ニーチェの言うように生を否定している。隣人愛は人間の自然なかたちではなく、それのみを善とすることは、逆にいえば本質的な人間を悪として否定することにつながっている。この部分は非常に特徴的といえます。


もうひとつが、行動性の有無です。上記善悪の話しとも密接に関連するわけですが、要はキリスト教においては、上記の「善」を証明するために、信者に対してものっそい禁欲を課す。禁欲というのも、何かを我慢する、とかその程度のものではなく、「ずっとマラソンしてればその間は悪いこと出来ないでしょ」みたいな考え方である。(ちなみに、この倫理的雰囲気が資本主義の勃興期において、資本主義の「精神」をかたちづくった、というのが先に触れたヴェーバーの主張であった。)この点も仏教は全然違う。仏教はとにかく精神論である。善なる行動をしていたとしても、それで救われるわけではない。むしろ善なる行動をしたことで奢りたかぶるのは、本願他力の思想とかけ離れるものであって、いっそう悪いとするわけです。ちょっと面白くないですか。


雑感としては、ニーチェにすごい似てます。仏教。他力本願とか色即是空とかは永遠回帰っぽいし、仏になるっていうのもニーチェの超人思想に似てます。ニーチェパクッた?


で、私が何をいいたいかと言うと、欧米と日本の(現代における)思想とか経営手法とか経済の仕組みとか資本主義の概念とか、そういう違いなんです。まあただ、長くなったので又の機会に。