準児童ポルノ

具体的には(1)現行法が禁じていない単純所持も違法化・処罰の対象に、(2)被写体が実在するか否かを問わず、児童の性的な姿態や虐待などを写実的に描写したものを「準児童ポルノ」として違法化──するよう、現行法の改正を含めて政府・国会に要望する。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1102308.html

しかし世の中バカなやつがいるもんだな、というのが率直な感想。万が一上記法案が成立してしまったら、大半がバカということか。まあでもわかりきったことか。


ところで、こんな主観的な法律をつくっていったい誰が管理するのか、とか創作を規制するのは人権の侵害だとか、方法論が決定的に間違っているとか、といった議論は案外鼻息の荒い人が多いようなのでそちらにお任せするとして、一体何故このアグネスチャンとかがこんなに必死になってるのか考えてみたい。


アグネスチャンの日記がWEBにあったので、盗み見してきた。性犯罪被害者への同情が、性犯罪という概念自体の撲滅という思想を招き、それが創作物のなかであっても性犯罪が存在してはならないという極論に至るさまが結構一瞬でみてとれた。
・・・いささか感情的すぎはしないか(別に悪いとは言わないが)。これでは変な近所のおばさんが、うちが日陰になるからでてけとか喚いてるのと正直あんまり変わらない気がした。感情的に行動を起こすと大概判断を誤るものである。
他所の国では規制の対象になっていることもあげられているが、そんなことは関係ない。他所の国がただのバカだったらどうする。いわゆる「よそはよそ、うちはうち」というやつがまさにあてはまろう。その他先進国の真似をしてれば良いのであればそんなに楽なことはない。せめて同規制の有無と性犯罪の発生率の相関ぐらい気にしろといいたい人の気持ちはよくわかる。法や規制は国や地域やその他社会ごとに違うだろ?そういうもんだよ。


ところで、かく言うわたし自身もレイプというのはもっとも嫌いな犯罪のひとつだ。知性が微塵も感じられない。知性を持つ人間として、性犯罪を嫌悪する気持ちはわからんでもない。
ただこれはあくまで感情論だと断言したい。そこで感情的になっては折角の知性が台無しである。感情を抜きにして考えれば、犯罪被害者にとってもっとも深刻な被害をもたらす犯罪はやはり殺人であろう。消せない過去を背負って生きていく不幸も察してあまりあるが、何につけても命あってのものである。生きてさえいれば幸せなことは必ずある。他人からみた相対的な幸せではない。全身に管をさされ、いつ死ぬかもわからないなかで壮絶な苦痛に襲われても、孫が見舞いにきてくれればその瞬間は誰よりも幸福を感じることができる。人間とはそういうものだとわたしは常々思っている。殺人やその他深刻な犯罪に関する概念を差し置いて、性犯罪という概念に固執すること自体、感情的になっているといわざるをえない。


そもそも犯罪者の刑罰というのは、被害者が被った被害から逆算して決められるべきものであり、傍観者の感情論とは元来無縁ではないか。情状酌量というのがあるが、これは刑を軽くするものであって、重くするものではない。

にもかかわらず性犯罪の加害者がときに殺人事件の加害者よりも一層の嫌悪の対象となるのは、ひとつには、殺人の場合動機によっては加害者にとってもある種合理的な思考の結果であるケースを想定し得るのに対し、性犯罪というのは本能的な欲求を制御できませんでしたという動機以外が想定しづらい、という性犯罪が持つある種の単純さ、動機の単一性が作用している結果なのではないかと考える。本能をむき出しにして犯罪にまで至る人種に対して、牙をむき出しにして唸っている犬に対して覚えるような恐怖心や、自分が抑制しているものをさらけ出している人に対する同属嫌悪のような感情を抱くのは普通かもしれない。

そしてもうひとつ、性犯罪においては、被害者が精神的な後遺症のみを患うケースが散見されることから、被害者の声が比較的聴きやすいということもあるのではないだろうか。殺人事件の被害者からは当然体験を聴くことはできない。同情する相手が存在していることが、感情を煽り行動を駆り立てている効果もあるかもしれない。ただそれは自分本位と言われても仕方がない。被害者は誰もそんなことを求めてはいないだろう。