本当に大事なことは教えてくれない
中学生時代、私は比較的勉強が得意なほうで、そこそこ成績は良かった。ところが、一度だけ国語の論説文読解の問題で文意をまったく理解ができないことがあった。あまりそういう経験をしたことがなかったので、よく覚えている。河合塾の模試だった。
その論説文は、「壁を設けること」という観点から日本の文化を論じる内容で、対人関係や住居におけるさまざまな「壁」に関していくつか具体的な事例が展開された後、結論へと続く運びであった。ところが、その結論が当時の私にはまったく理解のできないものだった。その結論とは、「壁」を作らないことは失礼なのだという趣旨のものだった。
当時の私の認識はまったく逆で、「壁」をつくらず、開けっぴろげで、気さくな様こそが良いものとばかり思っていたから、自分の認識とはまったく逆の結論をうまく理解することができず、試験の結果としては実に芳しくないものとなったのだった。
そんなことを最近急に思い出した。
きっかけは、自宅の近所に最近建った一軒家である。その家は、比較的大きな通りに面して建っているのだけれども、通り側が全面窓になっており、家の中が見事に丸見えな造りになっている。
実際に「壁」を設けない住居を目の前にして思ったのは、実に迷惑だということであった。赤の他人に自分のプライベートな空間を覗き込まれては誰だっていい気分はしないだろうから、なるべくそちらに目をやらないようにするのだが、見事に丸見えな造りなものだから、どうしたって目に入ってしまう。
若干趣意は異なるが、公然猥褻などに通じるものを感じた。大事なものや部位は、他人が気をつかわなくとも済むように、本人が責任を持って隠すべきである。こんなことが中学生だったとはいえ、何故わからなかったのか不思議なくらいだ。
そもそも礼儀という言葉は、まんま「壁」の意味かもしれない。礼儀を忘れるなという戒めは、しばしば本音をそのままに語らずにオブラートに包めという意味を持つ。
まさにそういった慣わしは、我々の文化に根付いたものだと今になれば思うが、こういう慣わしの難しいところは、そういう慣わしがあること自体が隠されることだ。
中学性の私がうえで紹介した論節分の文意をとり損ねたのも、素直が一番などと平気な顔で言う大人が絶えないからだと思う。
まさに、本当に大事なことの周囲には「壁」を設け、安々と人には語らないわけである。