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本能的欲求が資本主義的に回収される時代

はっはっはっはを読んで。

前回のエントリーですでに、私はmagician-of-posthumanの人にほぼ諸手を上げて賛同してしまったので、当然さしたる反論のポイントを見つけることはできないわけであるが、少しだけ意見が異なるかもしれない点がなくもないので書いておく。ちなみに、読者の方におかれましては、以下の内容はたぶん経緯無視でもわかるはず。


まず、magician-of-posthumanの人は、フォーディズム体制は労働者を「動物」化させ、そのことが大衆から『エリート的な「欲望」』を奪ったのだと説明する。

このことについて、『エリート的な「欲望」』の定義としては、『「人間」味の溢れる労働、「人間」として希望を持てる労働』と述べられているのみであり、そもそもの『「人間」味』も含めて定義が曖昧なところに些かの論点を見出すこともできるが、私の理解が正しければ、これは「力への意志」のようなものとして理解可能かと思う。もしそれでよければ、全面的に賛同する。フォーディズム以降、資本主義社会は、人間を労働者と資本家として明確に切り分ける。労働者とは即ち労働力の単位であって、労働とは労働者による時間の切り売りに他ならない。資本家はその対価を支払う限りにおいて労働者を支配する。被支配者である労働者が『エリート的な欲望』を満たせないことは自明であるといえる。


次に、magician-of-posthumanの人に依れば、この満たされない『エリート的な欲望』の代償モデルとして、消費によって満たされる欲望がデザインされたのだという。

思うに、この『消費的な欲望』こそが、経済システムの原動力だろう。例えば後進国の工場労働者などは、この『消費的な欲望』を持たないために、明日の食料に困らない程度の賃金を得るための労働しかしない。単純に言えば時給を3/2倍にすると、労働量が2/3倍になるということだ。過剰な賃金で過剰な消費をするための欲望を持たないためだろう。それはそれで実に結構なことだが、結局経済システムが自己を極大化させるためには、過剰な労働と生産の結果により資本を蓄積せねばならない。『消費的な欲望』は、資本主義が拡大する必要条件であって、経済システムのコミュニケーション・メディアによって形式化されたコミュニケーションということになるのだろう。つまり、『消費的な欲望』にとらわれている限り、経済システムから疎外される可能性をなくすことはできない。
ちなみに、貧乏人が「本当の金持ちは浪費はしない」などと言って自己との類似性に着目し悦に入るケースがあるが、それは金持ちが『エリート的な欲望』を満たされているために、『消費的な欲望』を持ち合わせないためだと思う。


そして、この『エリート的な欲望』の代償モデルとしての『消費的な欲望』の代償モデルとして求められているのが、『本能的な欲求』(例えば、恋愛とか。)であるという現状の分析がなされている。

ここで少し口を挟みたいのが、『消費的な欲望』から派生する負担の形態についてである。この負担は2重の構造になっていると思う。負担の上部は、単純に消費するだけの資本が不足することによる欲望の未達成という負担だ。この負担は、近年、欲望を充足するために必要な消費額が −たとえば情報通信技術の発達によってあらゆる欲望充足の形態が万人に知れ渡ることによって− 高騰を続けていることから、より顕著なものになっている。この負担を強く受けた人から順に「消費なんて意味がない。やっぱ愛だよね。」と言い出すわけだ。この「愛」に対する「スイーツ(笑)」という批判という「愛」における負担、及び「愛」に排除された人たちが感じる負担を免除するために、新しい欲望をデザインしなくてはならないというのがmagician-of-posthumanの人の話の本筋だろう。

先に2重の構造といったうちの二つ目の負担は、いわば『本能的な欲求』の未達成だ。一言で言うと、お金がないから餓死しますという状況、またはお金がない人は生きてても仕方がないから自殺しますという状況だ。『消費的な欲望』は、既に『本能的な欲求』を自身のうちに取り込んでいるのだ。お金という経済システムのコミュニケーションが人間の生命活動にまで影響を及ぼすという状況は、明らかにシステムによる暴力で、こうした暴力は本来国家によって統制されなくてはならない。ところが、国家もまた経済システムという権力を維持する装置のひとつとしての側面を有するために、統制は有効に機能し得ない。さらには、いたずらに経済システムの作動を妨げて、たとえば国民の『消費的な欲望』を減退させてしまっては、国家という組織の維持すらままならなくなる。この一連の問題も『消費的な欲望』、及びその先にある経済システムから派生する負担だろうと思う。国家がいち機能システムに依拠してしまっている状況こそが国家の矛盾の元凶だろう。いま必要なのはすべての暴力を完全に独占する世界政府なのだ、とは言わないが。


最後に、ブログタイトル通りちょっとした妄想を。
magician-of-posthumanの人の言うように、欲望の達成不能を代償する欲望をデザインし続けると、きっとこんな世界になるのだろう。

社会から落伍した人から順に、カプセルに詰め込まれて、栄養剤を注射されながらバーチャルリアリティと言う終わらない夢を見る。夢の中では当然誰もが強者で居られ、人々はカプセルの中の狭い世界で「力への意志」を存分に満たす。超人は夢の中でこそ実現される。

同システムのエネルギー源は他ならぬカプセルに入った人間の生体エネルギーであって、循環型の半永久機関である。人間の生体エネルギーは「力への意志」が十分に充足された精神状態において最大化することが実証され、人間の欲望の充足はシステムの維持・拡大を目的として、機械的に管理される。

当初は、落伍者に対するセーフティネットととして用意されるが、次第に自発的な落伍者を生み出し始める。システムの許容度、安定性が高いとフリーライダーが発生するのだ。そうして能力分布という秩序が崩壊した現実社会では、エリートですら『エリート的な欲望』を達成することは困難化する。究極的には、人工授精による人口管理を含めすべてのシステムが自動化され、すべての人間がカプセルに入ることになるだろう。その過程の中で、現実への回帰を求めるレジスタンスも出現するが、彼らはあるとき自分たちの行っていた活動でさえ、カプセルの中の出来事であったことに気づき、自ら生命を絶つ。そんなどこかで聞いたような世界。

この妄想は未来についてなされたものであると同時に、実は上の分析に基づいた現代社会のメタファーでもある。と言うと、ベタなオチがつくだろうか。