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うちの上司(65)観察から考えたこと

ヒト

仕事上で老人に触れて思うのは、固定的かつ大きな盲点が常にあるということ。

このエントリーでは「盲点」はメタファーとして用いられるが、念のためもともとの意味を共有しておこう。Wikipediaから引用する。

盲点(もうてん)とは、脊椎動物の目の構造上、生理的に存在する暗点(見えない部分)の一つ。生理的な暗点なので生理的暗点とも言う。またフランスの物理学者エドム・マリオットにより発見されたためマリオット暗点(マリオット盲点、マリオット盲斑)とも言う。盲点に相当する網膜上の部位は視神経円盤または視神経乳頭と呼ばれる。

盲点 - Wikipedia

視野の中に入っても、見えないもの。それが盲点である。だから、解消するためには、視点を移動させなければならないわけだ。例えば、インターネットも社会の一部だという視点に立たない限り、インターネット上のコミュニケーションは盲点になったままなのである。そういうものがあるということがそもそも把握できない。そういう人にブログや掲示板やSBMを突きつけても、彼の脳内ではかなりの大部分がただのフィクションか、<絶対的なリアル社会>のパラレルワールドであるかのように処理されてしまうのだろう。

そして、視点を移動したあとの視点にも当然盲点はあるので、結局我々は常に視点を移動させながら生きないと、必ず固定的な盲点に捉われることになる。

だから、思考が硬直化し、視点の移動が作為的に行えない老人は、常に同じ部分が盲点になるのだろう。要は老眼みたいなものだ。まるで眼球のレンズを収縮させる筋力が衰えてピントが合わなくなるかのように、視点を移動させるための思考の柔軟性が衰えて何度同じ間違いを指摘されても理解ができなくなるというわけだ。


老人世代が没入しやすい視点のうち代表的なもののひとつに、「頑張れば報われる」という視点があげられるだろう。うちの上司からもぷんぷん臭ってくる。これは思うに、バブル期の右肩上がりの資産価格上昇が、その当時においてすべてのつじつまをあわせていたからだろう。資産価格の上昇を背景に、結果としてすべての「頑張り」が「報われた」ことで、「頑張れば報われる」というテーゼは正当性を補強されたというわけだ。

さて、「頑張れば報われる」の盲点とはなにか。そのひとつは「頑張る」を相対化することで見えてくる。即ちそれは、「報われるための合理的な方法論を模索すること」である。今となっては当たり前のことだが、報われるための手段は「頑張る」ことだけではない。むしろ近代的な経営学等々が我々に告げるのは、「楽」をして成果を出すことの必要性だ。換言する。「頑張る」度合いや効果という究極の不確実性に対して果敢に挑むのではなくて、業務を仕組み化することで、リスク要因を抽出し、それに合理的に対処し、組織として成功の確からしさを高める努力を続けることこそが経営だということだ。

にもかかわらず、未だに「頑張る」と「頑張らない」という精神論的な二項図式に固執し、経営の合理化の必要性を理解しない老人については、時代遅れだと断ぜざるを得まい。少し前に『楽しく働くために必要なこと - よそ行きの妄想』というエントリーで、『信用できない会社で働いても楽しくない』と書いた。非合理で時代遅れの経営者が信用に値しないことは言うまでもないだろう。最低限の合理性は、いまや従業員を会社につなぎとめるためにも必須だと言える。


ところで、ここで見失ってはならないポイントは、「頑張る」と「頑張らない」の二項図式から脱するための手段たる相対化自体もまた、相対化されなくてはならないということである。相対化もまた、絶対化されるべきではない。

つまり、「報われる」ための方法論として、あるときには「頑張ること」を絶対化し、あるときには「合理的な方法を模索すること」を絶対化しなくてはならない。またときには、「頑張ろうが合理性を追求しようが結局は運」という相対主義を持ち出すことも必要だろう。ここまできてようやく、我々は「頑張る」と「頑張らない」の二項図式からなんとか脱することができたと言うことができる。


さて、ここまで書くと賢明な読者諸兄はお気付きになることと思うが、我々はいまや「相対化」と「絶対化」の二項図式という新たな視点に没入している。当然この視点にも盲点はあるのだろう。

よって、この話は永遠に続くことになるわけだが、私の頭の限界がこの辺なので、この辺でやめておきたい。結論としてはとりあえず、「頑張れば報われる」ことに絶対的な間違いはない。しかしながら、そこに固執してもならないのであるとでも言っておく。