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バスの行列で考える”先送り”の価値

バスを待ちながら考えた。

バスを待つ行列に並んでいると、あとから来た人が2列目をつくることがある。わたしは2台目に乗りますんでという意思表示だ。そして、あなたはほんとは座りたいと思っていたが、1列目の人が前方から順に乗車していくにつれ自分が座れなさそうであることを認識することになる。ところが、いまや2台目のための列も長く伸びてしまっており、1台目を見送ってもなお座席を確保することが難しいという状況に追い込まれる。結局1台目に乗って立って帰る破目になったあなたは、帰り道でこう考える。自分のほうが先に待っていたのだから、2列目の前のほうに入れる権利があって然るべきではないのか。

結論から言うとこの理屈はおかしい。あなたは、1台目の座席状況を見ながら意思決定することができるというオプションについて相応の対価を支払っていないからだ。

オプションとはつまり、ある選択肢に関する意思決定を将来に繰り延べられる権利のことである。同じ選択肢について意思決定をするなら、後に意思決定をした方が基本的には得られる情報が多くなるから有利なのだ。これはつまり、オプションに経済的な価値があるということを意味し、その価値のことをオプションバリューと呼ぶ。

これは、株式などの証券市場や商品取引市場などで発達し、一般的になった考え方である。あまりそっち方面には明るくないという人であっても、新株予約権という言葉くらいは聞いたことがあるだろう。新株予約権とはまさにこのオプションの一形態であって、予め定められた値段か、または予め定められた計算式によって導かれる値段で株式を購入*1できる権利のことを指す。従業員へのインセンティブを目的としたストックオプションとして無償で発行されることが多かったので勘違いされる傾向にあるが、オプションを行使するときに払い込む株式購入代金に加え、オプションの発行時点において理論的に算出されるオプション料(=オプションバリュー)を支払うことが通例である。

例えば、将来1年間にわたってA社の株式を100円で購入できるオプションがあったとする。いまA社株の市場での取引値は80円である。面倒なので細かい話は置いておくが、株価が80円なのにオプションを行使するバカはいない。オプションを行使して100円で株を買うよりも、市場で80円で買った方が安いのだから。取引値が100円を上回ってくれば、オプションを行使することに経済合理性が生じることになる。まんまと取引値が120円になったときを見計らって、予約権を行使し手元に来た株を市場で売却すれば、20円の儲けを得ることが出来るという寸法だ。

さて、実に簡単な話だが、これだけではリスクとリターンが全く見合ってないことはお分かりいただけるだろうか。取引値が安ければ行使を控え、上がれば行使すればいいのだから損をしようがない。要するに、このリスクとリターンの不釣り合いを解消するのがオプション料である。仮に80円になる確率と120円になる確率が完全に五分五分である株式銘柄があったとしよう。予約権の行使価額が100円だとすると、50%の確率で20円儲かるから、期待利益は20円×50%で10円だ。簡単に言うと、これがオプションバリューである。オプションを当初購入するときに10円支払わねばならないということであれば、取引値が120円になったときはオプションを行使して10円の利益、取引値が80円になったときは行使せずに10円の損失となる。

言うまでもなく、実際の株式の市場での取引値はそうやすやすと確率を計れるものではない。現実のオプション料の計算に際しては、十分に複雑なシミュレーションモデルが用意されている。それはまさに金融工学の最先端と言っても過言ではない。オプションバリューの算定こそは、従前、神のみに許されていた未来を記述するという試みにおける先端技術なのである。


こうした考え方は昨今、市場取引だけでなく日常生活やビジネスのシーンにおける意思決定でもその有用性が言われている。単にオプションと言った場合、そうした金融市場といういわばバーチャルな世界での権利を指すことに対応して、現実世界でのそれはリアルオプションと呼ばれる。

冒頭の例でいえば、バスを待つ列の1列目に並ぶことによって、実際にバスが来た後に座席の埋まり具合を見ながら1台目のバスに乗るか2台目のバスに乗るか選択することができるというオプションには明らかに価値がある。もしあなたが当該オプションをフェアに取得したいのであれば、2列目に並ぶと言う意思決定を既に済ませた人か、もしくは列を管理すべき立場にあるバス会社にオプション料を支払う取引を持ちかける必要がある。


この話の応用編が以下。

雇用流動化は労働需要を増やす「太陽」政策なのだ。それは経営者に解雇というオプションを与えるので、オプション価値の分だけ労働需要は増える

雇用流動化で失業率は下がる - 池田信夫 blog(旧館)

現状、経営者にとって、従業員を解雇するという選択肢は非常に厳しく規制されている。ここで当該解雇規制を緩和した場合、経営者は余剰労働力の解雇というオプションを得ることになる。そしてそのオプションバリューがどこに行くかといえば、直接的には人件費の削減と言うかたちで会社の利益となり、間接的にはそれが会社の労働需要に転化されるという話だ*2。基本的に規制を撤廃するということは、その規制の対象に対して(無償で)オプションを付与するということを意味するケースが多い。規制緩和を推進する人の言い分というのは、多かれ少なかれ、そのオプションバリューがめぐりめぐって社会に還元されるはずだということ。


さて、以上をまとめるとつまり、先送りには価値があるということになる。より極端に言えば、明日やってもいいことは明日やったほうがいいということ。後出しが有利なのはじゃんけんだけではない。

なかなか定量的に把握することはまだまだ難しい概念だが、とりあえずこうして単純化して記憶の端にとどめておくと、案外いろんな場面で意思決定を助けてくれるのではないかとか思った。

*1:新株予約権の場合は、大抵、発行会社が新たに発行する株式を購入する。

*2:人件費が下がれば労働需要が増えると言う市場原理が前提にある。