本人の「意欲」が大事。だからどうしたのか?

はてなで話題の「やる気に関する驚きの科学」(とにかく凄いブクマ数だ)という記事について。

元記事では、以下の主張が科学的に、整然とした理路で記述されている。

科学が解明したこととビジネスで行われていることの間には食い違いがあります。科学が解明したのは、(1) 20世紀的な報酬、ビジネスで当然のものだとみんなが思っている動機付けは、機能はするが驚くほど狭い範囲の状況にしか合いません。 (2) If Then式の報酬は、時にクリエイティビティを損なってしまいます。 (3) 高いパフォーマンスの秘訣は報酬と罰ではなく、見えない内的な意欲にあります。自分自身のためにやるという意欲、それが重要なことだからやるという意欲。

やる気に関する驚きの科学

「20世紀的な報酬」とか「If Then式の報酬」といわれているのは要するに成功報酬のことで、成功報酬は「視野を狭め、心を集中させる」から、単純作業には効果があるが、クリエイティブな成果を期待される局面では逆にマイナスの効果を及ぼすということが書いてある。

ここまでの部分、言いたいことはわかるしご説ごもっともだとも思うが、「だからどうしたのか?」がよくわからない。というのは、高いパフォーマンスの要因として内的な「意欲」が重要であることは疑いようもない事実だとして、ではどうすればその「意欲」を高めることができるのかこそが関心事だからである。

私の認識では、マネジメントとはまさにそのために存在する仕事である。それはつまり、「意欲」がない人でも一定以上のパフォーマンスが出せるような仕組みづくり、インセンティブ設計、雰囲気づくり等々を行うことに他ならない。

「意欲」が高い人ばかりが大勢集まれば、いい仕事ができるのはあまりに当然のことである。ところが現実はそうではなく、チームのメンバーは得てして仕事とはまったく関係のない方向に自身の「意欲」を向けているものだから、それらを束ね、纏め上げ、同じ方向に向かわせる人が必要なわけだろう。


こうした私の疑問はよそに、元記事は以下のように締められている。

科学知識とビジネスの慣行の間のこのミスマッチを正せば、21世紀的な動機付けの考え方を採用すれば、怠惰で危険でイデオロギー的なアメとムチを脱却すれば、私たちは会社を強くし、多くのロウソクの問題を解き、そしておそらくは世界を変えることができるのです。

やる気に関する驚きの科学

従来的な報酬体系さえ脱却すれば、我々がより高い「意欲」にたどり着くことができるという道理はどこにもない。

上述したように、チームのメンバー間でバラバラか若しくは存在すらしない「意欲」について、それを生じせしめ、十分に高めたうえで、同じ方向に向かわせるための、その方法論として成功報酬などの外的な「動機付け」が存在するわけであって、それらは内的な「意欲」と二者択一の関係ではなく、どちらかというとむしろ因果関係と呼べる関係にある。例えば、「みんなでしっかり稼いで、みんなでたくさんの報酬を貰おう」という呼びかけは、十分に他者の「意欲」に訴えかけ得るものではないか?

思うに、結局のところ、マネジメント(というか他者)としては、本人の内的な「意欲」を高めるためにどのような外的な「動機付け」を提供すべきなのかを問い続けるしかない。「意欲」が高まるのはなにかの結果であって、結果というのはある程度やってみなければわからないからだ。「意欲」が大事と認識しつつ、ではそれを高めるためにどういった「動機付け」を行うべきかと日々試行錯誤しているマネジメントに対して、そうではない、「動機付け」ではなくて「意欲」こそが大事なのだと講釈をたれるのはあまり有効なこととは思えない。

むしろ、ただの杞憂に過ぎないことは百も承知だが、元記事のような主張が支配的になった場合に危惧されるのは、マネジメントによる職務の放棄と、結果として「意欲」を持った人のみが報われ、「意欲」を持たない人が切り捨てられる社会ではないか。それが合理的なのだといわれれば確かにそうかもしれないが、労働を義務と称するような社会、即ち労働が生活の必要条件を構成するような社会*1にあって、単に「意欲」がないだけで労働市場から切り捨てられるのは割に合わないと感じる。


元記事の主張は、「意欲」が大事だからどうしたのか?という疑問にまったく応えていないからこそ、「社会科学における最も確固とした発見の1つ」であるにもかかわらず、「無視されている」のではないか。と思った。

追記

と、ここまで書いて、元記事の主張は外的な「動機付け」を放棄することで、自然に「自主性」が高まるから、結果として「意欲」が高まるということかもしれないと思い至った。

対比されているのは、実は<外的な動機付け>と<内的な意欲>ではなくて、<(外的な動機付けを)する>か<しない(自主性最重視)>かだったかもしれない。というかそう書いてあるか。マネジメントは不要なのだ、と。

ビジネスのための新しい運営システムは3つの要素を軸にして回ります。自主性、成長、目的。自主性は、自分の人生の方向は自分で決めたいという欲求です。成長は、何か大切なことについて上達したいということです。目的は、私たち自身よりも大きな何かのためにやりたいという切望です。これらが私たちのビジネスの全く新しい運営システムの要素なのです。

今日は自主性についてだけお話ししましょう。20世紀にマネジメントという考えが生まれました。マネジメントというのは自然に生じたものではありません。マネジメントは木のようなものではなく、テレビのようなものです。誰かが発明したのです。永久に機能しつづけはしないということです。マネジメントは素晴らしいです。服従を望むなら、伝統的なマネジメントの考え方はふさわしいものです。しかし参加を望むなら、自主性のほうがうまく機能します。

ただ、どうなんだろう。私が知る限りそのような管理体制のもとである程度の結果を出せる人というのは、既にかなり自由な環境にいるような気がする。資本家にしても、経営者にしても、優秀なエンジニアにしても。いったい誰がアメとムチによる管理を受けているのだろうか。

で、こうしたワークスタイルの裾野が広がっていくのだ、つまり今までマネジメントに管理されていたような人も管理から開放されるべきだという話だと捉えると、それはそれで上述したように「意欲」という「成果」よりも厳しい尺度で人間が順位付けをされる、不幸で充満した社会を想像してしまうが。

*1:参照:[http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20060216:title]

三井住友と大和は相変わらず面白いな

三井住友FGと大和証券が合弁解消へ : J-CASTニュース」だそうで、既に出がらしのネタとは承知しつつ、これはなにか書かざるを得ない。

三井住友「大和、落ち着いて聞いてくれ。おれは日興と交際しようと思ってる。」
大和「え?」
三井住友「日興はかわいそうなやつなんだ。それにすごくいいやつだ。日興のこども(日興citi)もひきとろうと思う。」
大和「は?」
三井住友「みんなで仲良く暮らせな・・」
ガッシボカッ!
大和「あほか!やめさせてもらうわ!」


みたいな流れが面白すぎる。そんなこと事後で交渉したって筋も何も通らないだろうに。


大和「私たちのこども(大和SMBC)の養育費はしっかり払っていただきます」

と続けば完成か。

追記

本家のほうが更新されていたので確認。

でもそれから10年、撫子さんは本当に頑張られたと思います。息子さんだって立派に育てられました。それなのに、今になって。

“新たな運命を受け入れて” by 日興証子 - Chikirinの日記

ほんとだよな。

私もこれから、今まで撫子さんがずうっと尽くしてきたお取引先を回って、「今は私が住友の正妻なんですのよ。おわかりかしら?」とかいう話をしてまわらないと行けないのかと思うと・・・ほんとにため息がでますわ。撫子さんにどう顔向けすればいいのか・・。

“新たな運命を受け入れて” by 日興証子 - Chikirinの日記

これはまあたぶんそういうことなんだろうけど、逆に日興が持ってた三菱系の主幹事を大和が持ってったりするのかな。とも思う。

バスタオルをめぐる攻防

これまたどうでもいい話だが、以前書きかけたものが下書きボックス*1に入っていたので、何故こんなことを書こうと思ったのかこそは忘れてしまったものの一応文章にはなっているようだったのでふいに公開してみる。

ご存知の方がいるかは知らないが、結婚して間もない夫婦が揉める最大最強の原因として、バスタオルをめぐる対立がある。

即ち、バスタオルは毎日新しいものを使いたいという人と、バスタオルを洗うのは何回かに1回でいいという人の対立である。これらの嗜好はそれまでの家庭環境の影響が強く反映され、かなり強いこだわりがあることもざらである。

それぞれの言い分は簡単で、毎日新しいものを使いたいという人のそれは、その方が気持ちがいいということである。誰しも一風呂浴びた後にフワフワした洗い立てのタオルに身を包まれれば気分がいい。むしろ、人によっては風呂に入ってすっきりするという経験の中に、洗い立てのバスタオルで身体を包むという経験が内包されている可能性、逆に言えば洗い立てのバスタオルで身を包まないことには風呂に入ったという気がしないという可能性もあろう。

他方、何回かに1回でいいという人の言い分は、バスタオルは洗濯するのにかさばるということである。洗濯機の容量もとるし、乾かすにも時間がかかる。部屋に干しておくと生乾きで臭くなる。だったらもう2-3回同じものを使おう、そんなに汚れるわけでもないし、となる。洗った後の体に付着した水分を、単にふき取るだけというのがバスタオルの役割なのであるから、そもそもそんなに汚れるわけでもないだろうという主張には、それなりに説得力があるように思う。


要するに、毎回新しいバスタオルを使えば確かに気分はよろしい一方で、相応にコストがかかるわけだ。

揉めるのは、家事をしない側が毎日「当然」に洗いたてのバスタオルを要求する場合である。毎回洗いたてフワフワのバスタオルを使うことは、必ずしも「当然」とまではいえない贅沢だと私などは思うが、育ってきた環境如何ではそれを「当然」と思う人はいるのである。特に、毎回新しいバスタオルを使う人で、「だって(洗わなきゃ)汚いじゃん」という主張の人などは、それが贅沢だなどということは考えもしない可能性が高い。そうした場合、そういう人は相手方に「当然」のコストとして毎回バスタオルを洗濯することを要求するが、往々にしてそれは家事をする側にとって「余計」なコスト(家事)にあたることになる。この溝は深い。


結婚とは、互いに日常生活をシェアし、家庭の運営を仕事として分担することに他ならない。

仕事の分担はフェアでなければ不平が出て当然だろう。まして、何十年もに渡って関係を持続させたいのであれば、どちらかが一方的に我慢し続けるような分担はなるべく避けるべきだ。バスタオルの清潔さやフワフワ感などのような細かいことに人一倍拘りがある人は、「余計」な家事を相手にやってもらうという意識を持ち、その「余計な」仕事の分担の仕方、依頼の仕方についてはよくよく検討した方がいい。


ちなみに私の生家では、そもそもバスタオルが存在せず、ハンドタオルしかなかった。むかしは確かに毎回新しいバスタオルを使っていたはずだが、あるとき、私が高校生くらいのときに、洗濯が面倒になったのか、母親が全部どこかにしまってしまった。いま、バスタオルがあるだけでありがたいと思えるのは母親のおかげである。

追記

トラバがきた。

おれは小さいころからお風呂に入ってからじゃないとベッドにあがっちゃダメ育てられてきて、今だにそのこだわりちょっと抜けない。実家は両親が和室で寝てるので、布団は寝る前にしかひかないから、必然的に風呂に入ったあとしか寝床にあがることがないんだよ。だからその感覚でおれも育てられたんだと思う。

一人暮らしが長くなった最近はこのシバリも少し弱くなって、自分と付き合ってる彼女は風呂前でも上がって可っていうルールになりました。おれの中で。友達でも、まぁ、ベッドの足もとの方なら許せるようになりました。でも顔の方に座ったりするとキレます。家で飲み会があるときとかは布団をしまってしまいます。潔癖っぽいけど、だってそーやって育てられたんだもの。

まにまにらいだー

あるあるあるあるw

私は、全然気にせずジーパンでもなんでもすぐそのままベッドに上がっちゃうタイプだから、何度か友達の家などで注意されたことがある。とはいえ、他に座るところもないので仕方がないではないかと主張したところ、綺麗にたたまれた見るからに清潔そうな着替えを手渡され、その徹底ぶりに感心した記憶がある。基本的に私は衛生的な感覚に疎いのだ。

こういう感覚は家庭の方針によっては結構深く刷り込まれているから、なかなか抜けない。かくして複数の「当然」が結婚後の新居に混在することとなり、とくに衛生面のそれは「汚い」という一種の嫌悪感に直結するからなかなか妥協しづらく、揉め事に発展するケースが多いという整理。

*1:なにかエントリーを書いて、「公開する」を選択せずに「下書き保存」を選択すると、下書きボックスのようなところに保存される。現状、書いた私でもわけがわからないような仕掛りエントリーが10件程度保存されている。