タバコはなぜクサいのか

昨夜、家に帰る途中の電車のなかで、おそらくキャバ嬢だと思うのだが2人組みの女性が会話していたので、暇さにかまけて全力で盗み聞きした。まあ全力を出さなくても聞こえてしまっていただろうからそのことは責めないでいただきたい。

どうやらどちらか一方の家に遊びに行くところだったようなのだが、問題は2人が喫煙者なのに対して、遊びに行く先の同居者が非喫煙者だそうで、それじゃ吸いづらいよねと。

この問題についての議論がすすむ。そして片方が言い放った。「タバコってなんでクサいんだろうねー。クサくなきゃいいのにねー。」

哲学である。「タバコはなぜクサいのか。」


2つ考えた。

タバコはクサいからこそ好まれる説。

おそらくニコチンの摂取だけを目的と捉えると、においは必然ではない。では何故、敢えてにおいのでる方法でニコチンを摂取するのか。これは、においという制約条件自体がタバコを吸うという経験に内包されており、そしてその内包された制約条件が経験の満足感を増幅させているのではないだろうか。つまり人は、満足感を得るためのさまざまな選択肢のなかから、まさにそれがクサくて公には吸いづらいと言う逆説的な理由で、タバコを選択するのではないだろうか。

そしてこのことは一般化して語ることができる。即ち、制約条件はそれが制約する対象である行為に対して満足感を与える。満足感と得やすさはトレードオフである。と。

タバコを吸わない人が、そのにおいをクサいと定義づけた説。

タバコの健康への害を科学は明確に裏打ちするが、タバコの起源は近代的な科学の発展よりもなお古かろう。しかしながらその段階においても、何らかの理由でタバコを吸わない人がいたとすれば、そういう人はタバコを吸うことによって(自分の知らない)満足感を得ている人に対して、あまり面白くない感情を抱いていたに違いない。そういう場合に、非喫煙者が喫煙者を蔑む方法論としては、科学に頼れないことを所与の条件だとすると、そのにおいというのはほぼ唯一の手段であった可能性が高い。

これが事実であれば、ひとつの示唆に富んだ内容であるといえる。即ち、たとえクサいといったようないわゆる感情でさえも、その系譜をたどると、権力の闘争が垣間見ることができるというものである。


ちなみにキャバ嬢の会話は「ねーそうだよねー。」で終わった。
あと、「におい」と「くさい」は漢字で書くとどっちも臭いになって不便だ。


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