仮説。恋愛とは文化である。

種の保存の本能を基本として、恋愛をその手段として捉える諸氏が見受けられるが、果たしてそうか。単純に性欲を満たすだけであれば、その手段は年々高度化し、多様化するしているし、そもそも出産や結婚のマーケットは縮小している。にもかかわらず、恋愛のマーケットが縮小しない(ようにみえる)のは何故か。
それは、ただ本能を満たす手段としてのみ恋愛が存在しているのではなく、そのこと自体を目的とする、そのこと自体に価値を見出す、いわば後天的な慣習が存在しているからではないか。そしてそれはまさに文化と呼ぶべきではないか。
また、恋愛には流儀があり、それは民族や社会によって異なる。例えばイスラム世界の恋愛感は日本におけるそれとは、異なる。社会の成熟につれて、様式が多様化するのは、およそ文化の特性であるといえよう。
そもそも、男性がひとりの女性と生涯を添い遂げるという事象は、本能から説明がつくのだろうか。恋愛というものが、もはや本能とは根本的に異なる場所で、独立した概念を形成しているということではないか。


文化とは、社会の成熟とともに様式が細分化し洗練されていく特徴を持つ。恋愛が文化だとすれば、おそらく今後恋愛の様式はさらに複雑になるに違いない。既に日本国内でも年代や性別、趣味、嗜好などによって恋愛の流儀は異なるものになってきている様相(渋谷のギャルと秋葉のオタクでは明らかに流派が異なる)があるが、こうした傾向はきっと益々顕著なものになると同時に、明確に定義され始めるに違いない。
また、文化とは、社会の価値観に根付き、また価値観を構成する。伝統的な宗教感に根付いた価値観が消失するなかで、恋愛至上主義的な価値観が更に広範に蔓延する可能性もあるのではないだろうか。人は誰かに恋し、愛するために存在しており、すべてはそのための手段である、みたいな。


いや、ほんとにどうでもいいわけだけれども。