風俗産業の合法化がもたらす恋愛の自由化

「風俗嬢に説教たれる人々が痛い理由」と「売春を合法化し、厚生労働省売春管理局を作る案」 - 分裂勘違い君劇場を読んで。

id:fromdusktildawn氏はいつも実に鋭い切り口で、世の中に蔓延する空気を極論に仕立て上げて劇場風に提供するという芸風の、いわばはてなのカリスマであり、私もいつも愛読していたわけだが、このエントリは極論というかただの思いつきだ。文章の内容自体に特に異論があるというわけでもないが、文章の装飾において少し粗削りで、「らしくない」ように思う。


まず、

恋愛は崇高なものであるし、その恋愛において「男女の肉体関係は崇高なものだ」という前提をわれわれは心のどこかに持っている。「女性が男性に肉体関係を許す」ということは重大な意味と価値を持っている。*1 だからこそ、強制わいせつ罪やレイプは、重大な犯罪であり、それらの罪を犯した男性は、社会的に抹殺される。

そのように、社会全体の倫理体系が、男女の肉体関係に決定的な崇高さを与えているがゆえに、「お金で女を買う」という行為は、恥辱であり、罪悪ですらあるように感じられてしまう。
こうして生じた罪悪感を、男たちは、風俗嬢になすりつけて、ごまかしているのだ。

とあるが、
そもそも特に日本において、恋愛が崇高だった歴史などない。そういう歴史にまったく触れずに、道徳の系譜を語ろうというのは明らかに無理筋だろう。『社会全体の倫理体系が、男女の肉体関係に決定的な崇高さを与えている』、ということはそれこそまったく自明でない。
つい最近、江戸時代まで労働の基本単位という意味合いの家庭と、快楽のアウトソースのための遊郭が合法的にあった。そしてこの切り分けの明確さが、迷いのないさまとして「粋」と呼ばれたわけだ。「粋」という言葉は今でもそうだが、どちらかというとポジティブな意味合いの言葉である。つまり、この段階においては、風俗産業の利用というのはまったく蔑みの対象ではなく、むしろ推奨されていたと考えられる。
なぜか。それは、家庭という単位が労働・経済の基本単位であり、かつ国家の管理対象の最小単位でもあったことに起因する。端的に言えば恋愛とは、家庭を崩壊せしめる危険因子だったのだ。であるから、恋愛に興じるようなさまを社会は「野暮」として批判し、いかんともしがたい性欲を明快に風俗にアウトソースする分別のある様子を「粋」としてもてはやした。つまり、恋愛自体*1を社会から基本的に排除する手段として、国家管理下において売春が認められていたわけだ。


この状況が現代のような恋愛主義信仰に変容するのは、いくつかの原因が考えられるが、ひとつはやはり国家の方針だ。国家の管理対象は現代になるにつれて、家単位から個人単位へと移り変わった。このことがまず家の必然性を減少させた。そうして恋愛に対する抑圧は解消され、自由化への下地が整った。次にバブルの形成と崩壊による大衆における価値観の喪失である。ホームレスでも食っていけるほどの豊かさを社会は実現し、土地神話は崩壊し、株は暴落した。バブルを宗教になぞらえる著作があるがまさにそうで、バブルの崩壊によって信仰を失った大衆は新しい信仰の対象として恋愛を求めた。「恋愛結婚」なんていう言葉が生まれたのはこの時期だ。恋愛は、結婚と対立する概念から、結婚の目的とまでいえるように変容した。

そして恋愛の隆盛を決定的にしたのが、恋愛の功利化だろう。即ち、「エステに通って女を磨き、三高と称されるようないい男と結婚して経済的にもメリットを得る」という女性の勝ちパターンが登場したのだ。これは売春というか愛人契約というか要は人身売買のようなものだと思うのだが、これによって女性はようやくにして、自らの絶対的な価値を得るに至り、近代的な個を確立するに至ったのだ。そしてこの当時まだ新参の価値観であった「恋愛」は、それによって莫大な富を手にする女性を生み出した。このことは当然のように伝統的価値観に基づく労働に従事する男性諸氏からの反感をかったわけで、この反感とは要するに単なる恋愛主義社会の被排除者によるルサンチマンに他ならないわけだが、このルサンチマンは現在に至るまで功利的恋愛批判として風俗産業批判の一翼を担っている。

他にも、風俗産業を蔑む倫理観を構成するものはいろいろあると思うのだが、要は件のエントリは、そういった考察がまったく足りてないので説得力がない。風俗を蔑む人をDISりきれていない。


次に、売春の合法化案がこのエントリの肝なのかもしれないが、この案もどうにもざっくりしすぎていて面白みに欠ける。
売春を合法化するということは、上の経緯を考慮すると恋愛の自由化に拍車をかけることにつながるように思われるが、恋愛の自由化というのは、現在の日本経済が直面する最大の課題である「少子化問題」の一因である。安易な自由化は経済を停滞させ、ホームレスや貧困対策のための財源にするどころか、国民全体の生活水準をさらに切り下げるかもしれない。

もともと売春が合法であったのは、恋愛を社会から排除するための手段であったが、いまや恋愛は社会なのである。江戸当時とはまったく事情が異なるわけであって、売春が規制されているのはある意味必然である。売春とは恋愛主義的価値を資本化する手段であり、それが非合法であるという事実は、恋愛が完全に貨幣として換算されることの否定なのである。その合法化は、恋愛がまさに資本主義と同一化することを少なからず後押しすることになりかねまい。恋愛主義と資本主義が同一化するということはつまり、恋愛が完全に資本主義的な商品になるということを意味するわけであって、現在もその傾向は十分にあるが、それがもっと顕著になるだろう。「援助交際は誰にも迷惑をかけていない」とか「高校生のなりたい職業1位はキャバクラ嬢」とかは、明らかに恋愛自由化の結果である。

いまはまだ、一抹の純愛文化が恋愛の完全な自由化を阻み、結婚の手段としての恋愛が機能しているが、恋愛が極度に自由化され、資本主義的な商品となった場合においては、おそらく逆に、結婚が恋愛の手段にしかなり得なくなるだろう。そのことが結婚の絶対数を減らし、結果として少子化を招くことはほとんど明らかといっていいのではないか。

私のこの理屈も正直かなり急誂えであって、多分に無理があることは理解するが、少なくとも論点として検討に値しないということはなかろう。


最後に、

だとすると、市場原理的な倫理観からすれば、
電波利権の上にあぐらをかいて、ろくに価値創造もせずに、
毎日部長席でふんぞり返ってたばこをふかしている
テレビ局の利権オヤジなどよりは、
風俗産業でチンコをしゃぶってる風俗嬢の方がよっぽど「価値創造」しているということになる。

という比較も無理やりすぎて、萎える。
テレビ局の利権オヤジが価値創造している先は会社(の重役)であって、社会ではない。風俗嬢は価値創造のプロセスをほとんど単独で担うが、普通の企業労働者は違う。会社単位で担っている。利権オヤジが捻出している価値を考えるにあたっては、まず会社全体が創造した価値を算出し、それを部署ごとなりに按分し、さらにそこから会社自体の価値を控除した残りを、従業員で適当に按分する必要があるだろう。個人事業主のほうがサラリーマンよりも、社会に提供している価値がわかりやすいが、単純に比較しても意味がないのと一緒だ。
であれば結局、ややこしいのでもらってるカネの量で判断しましょうよというのが、仰るとおり資本主義的*2であるが、風俗嬢の得るカネなど、ニートやワープアから見れば大金なのかもしれないが、特に生涯賃金で考えると大したことないし、体を壊したら一貫の終わりという、要は肉体労働だ*3。単純な肉体労働が資本主義的な価値観によって蔑まれるというのはいたって自然のことではなかろうか*4。資本主義とは労働に序列をつける信仰だからだ。


※追記
風俗嬢というのは、要はレピュテーショナルなリスクをテイクする見返りとしてリターンを得ている側面もあるから、蔑みの対象となるのはある程度必然である。
性産業がまったくの合法となって、かつ倫理的な障害もなくなったら、風俗嬢の収入が下がることは自明だろう。一昔前に比べて援助交際の相場も値下がりしてるらしいが*5、これは恋愛の自由化の結果としての(恋愛を商品化することに対する)倫理的抵抗の低下と無縁ではない。
恋愛の自由化というのは、倫理的・法的な制限の撤廃を意味するわけであって、つまるところ(擬似)恋愛の取引市場を拡大させる。なぜなら現在は貨幣を対価とした恋愛需要に対しては、レピュテーションリスクがあるために供給が不測しているからだ。

*1:そもそも恋愛という言葉もなかったわけだが。

*2:もとエントリでは市場経済という単語が用いられているが、これは言葉のあやではないの。

*3:その名の通りだけどね。。

*4:良い悪いは別にね

*5:ソースなし!