史上最悪の賭博場

世紀の空売り先日のパチンコの話は2万アクセスを超えるなど随分盛り上がったから、賭場つながりということで、今日は史上最も大規模かつ最も下品で節操のない賭場についての話。これに比べればパチンコ産業のいかにかわいらしいことか。

最悪の賭博場というのは、他ならぬ2年ほど前に世界を騒がせたサブプライムモーゲージ*1市場のことである。マイケル・ルイス著「世紀の空売り」は、ウォール街投資銀行が創り出したその新しい市場が、まったくの出鱈目であり、何の裏付けもなく、近い将来必然的に崩壊するであろうことを見抜き、その崩壊に賭け、巨万の富を築いた人たちを描いたノンフィクションであるが、そうした英雄的な投資家の目から見た反対側 −つまり博打に熱狂していた人たち− の狂乱ぶりに関する記述が実にグロテスクで大変面白いので、その部分にフォーカスして紹介させていただきたい。

サブプライム事件とは何だったか。その概要については私も以前から何度かにわけて書いたりしているので、以下の記事などもご参照願いたい。今回は以下の記事よりもずっと具体的な話。
はてなーにもわかる金融業界の栄枯盛衰※追記あり - よそ行きの妄想
投資銀行とは何だったのか - よそ行きの妄想
サブプライム問題にみる合理性信仰と思考停止 - よそ行きの妄想

誰がサブプライムモーゲージ市場をロングしていたか

サブプライムモーゲージ債券は、今振り返って思えば、これ以上ないくらいにバカげた商品だったが、あの市場があれほど隆盛を誇ったのは、同債券の先行きに対して強気の方向に賭ける(=ロングする)人が多かったからに他ならない。いったい誰が、何故、サブプライムモーゲージをロングしていたのか。

分散された多様な消費者ローンの山とされていたもののほぼ全部が、今やサブプライムモーゲージで構成されている。パークはひそかに調査を進めた。CDSの販売決定に最も深く関与した人々に、そういうローンの何パーセントがサブプライムモーゲージで構成されているのか、尋ねて回った。まずはカッサーノCDSの価格設定に使用したモデルの設計者、イェール大学教授のゲイリー・ゴートン。ゴートンは、ローンの山に含まれるサブプライムの割合を10パーセント未満と見積もった。次に、ロンドンのあるリスク・アナリストにきいてみると、20パーセントという答えが返ってきた。あるトレーダーはこう言っている。「誰ひとり、答えが95パーセントだとは知りませんでした。カッサーノ*2だって、きっと知らなかったはずです。」振り返って考えると、信じがたい無知のようだが、当時は、金融システムがその無知を前提に成り立ち、無知でいられるその能力に代価を支払っていたのだ。

これは2008年、事実上の経営破たんに見舞われ世間を騒がせたAIGについての話である。AIGサブプライムモーゲージ債のCDSを大量に売っていた。本書によれば、その額およそ5兆円である。

CDSというのはつまり保険のことで、CDSを買った人は、それを売った人に対して保証料を定期的に支払う義務を負うが、対象となる債券がデフォルトした場合には最大で債権額面に至る補償をうけることができる。つまりAIGは、大量のサブプライムモーゲージ債に対して保証を提供していた。

サブプライムモーゲージ債をはじめとする、いわゆる証券化商品の特徴は、投資家への利払いを行う原資となるキャッシュフローを裏付ける資産(担保のようなもの)が非常に多岐にわたっているためにリスクが分散され、それゆえデフォルトの危険性が小さいということである。ところが、AIGが保証していた債券の担保となっていた資産のうち実に95%は、サブプライム、つまり貧困層向けの住宅ローンだったという。それではリスク分散もクソもないというのはどれほど素人でもわかりそうな話であるが、なんとAIGでは、誰もそれに気づかないままに5兆円もの保証契約をしていたというのだから、実にバカげた話である。

投資家の思考を停止させる詐欺の手口

投資銀行はいかにして詐術を弄し、格付け機関や保証会社、投資家などを欺いたか。それがまた信じられないくらい稚拙な手段だった。

サブプライムモーゲージ市場には、明確にしなければならないことを曖昧にするといおう特殊な能力が備わっていた。例えば、まるごとサブプライムモーゲージに裏付けられた債券は、サブプライムモーゲージ債とは呼ばれない。ABS、つまり資産担保証券と呼ばれる。チャーリー*3が、資産担保証券を保証するのは具体的にどんな資産なのかとドイツ銀行にきくと、何枚かのリストを手渡された。そこには、略号と、さらなる頭字語−RMBS、HEL、HELOC、Alt-A−が、聞いたこともない種類の債権−ミッドプライム−とともに記載されていた。(中略)
"ミッドプライム"などは、言葉の詐術が真実を打ち負かした好例だろう。債券市場の目端の利く住人が、オークランドの野心的な不動産開発事業者と同じまなざしで、無秩序に広がるサブプライムモーゲージの原野を眺め渡して、ある一郭の"お色直し"を思い立ったのだ。オークランドの周縁部に、まったく別の街のような装いのロックリッジという区域がある。ただ単にオークランドとは違う地名を関することで、ロックリッジの土地はオークランドより高い評価を受けていてる。サブプライムモーゲージ市場内には今、"ミッドプライム"という似たような区域ができあがっていた。ミッドプライムはサブプライムの一部でありながら、あたかも別のもののような装いをまとっている。「債券の中にあるそういうさまざまな区分が、どれも似たり寄ったりのものだと気付くまでに、しばらくかかりました」と、チャーリー。「ウォール街は同じようなローンの寄せ集めを多種多様な資産のプールに見せるために、あれこれ違う名前を付けて、それを格付け機関に受け入れさせたんです」

要するに投資銀行は、投資家にまるで担保資産が分散されているかのような錯覚を起こさせるために、細分化した定義を創り出したという話だ。RMBSというのはレジデンシャル・モーゲージ・バックト・セキュリティの略で要するに住宅ローン担保証券のこと、ホーム・エクイティ・ローンはいわゆる不動産担保ローンのことだが、どちらも要するに貧困層が住宅を担保にお金を借りていることに何の変りもないのであって、話を無駄に複雑にする以外に、区別する意味はない。

段ボールに詰めたミカンは、同じ時期に収穫されたのであれば当然同じ時期に全部腐るわけだが、ここで投資銀行が言っているのは、これは愛媛のなんとかという農家が収穫したミカンで、こっちは和歌山にある全然別の農家が収穫したもの、他にもたくさんの種類があり、この段ボールに入っているミカンは実に多種多様だから、全部が全部同時に腐るということなんかあり得ませんよという話である。腐る時期と関係あるのは産地ではなく収穫してからの期間だ。

まるで子供だましのような話だが、こんなことがまかり通っていたというのだから、驚くほかない。

愚鈍であればあるほど歓迎される

投資銀行は、サブプライムモーゲージ債権を安く仕入れ、それを立派な債券に仕立て、高く販売していた。投資家の側に立って、適切なアドバイスを提供する人間はいなかったのか。

サブプライム)債券市場が創り出したのは、二重スパイのような立場の人間、つまり、どちらかといえばウォール街の債権トレーディング・デスクの利益を代表しているのに、投資家の利益を代表しているように見える存在だった。CDOマネジャーは、十億ドル単位のカネを託してくれる大口投資家に対して、顧客のことを何より優先する姿勢を示すため、CDOの中の”エクイティ”とか”一次免債”とか呼ばれるもの、つまり最終的にCDOに現金を供給するサブプライム・ローンが債務不履行に陥った時真っ先に消滅してしまうものを、自分で所有し続ける。しかし、一方で、投資家の誰ひとりわずかな金も目にしないうちに、0.01%の手数料を資金のてっぺんからかすめ取り、また投資家に元利を払い戻す際にも、同じくらいの手数料を資金の底から抜き取るといううまみもある。たいした額とは思えないかもしれないが、ほとんど手間をかけず、経費もなしで、何百億ドルもの金を運用するのだから、濡れ手で粟の莫大な収入になる。ほんの数年前、ウィン・チャウ*4はニューヨーク生命保険でポートフォリオを運用して、14万ドルの年俸を得ていた。CDOマネジャーに転身してからは、年に2千6百万ドルを家に持ち帰るようになった。ニューヨーク生命に勤め続けた場合の生涯給与総額の6倍だ。

CDOというのは、コラテライズド・デット・オブリゲーションの略語で、サブプライムモーゲージ債のうち、特にリスクが高く売れ残ったトランシェ(階層)をリパッケージしたものであり、喩えるなら鼻クソを丸めて作ったダンゴのような金融商品だ。そしてそれをせっせと組成して投資家に販売するという賤業がCDOマネジャーである。

売人が鼻クソを鼻クソと思ってしまってはモノが売れなくなってしまうから、鼻クソを鼻クソと気づかない程度に愚鈍で思慮深くない人間が歓迎されたという話である。一般に鼻クソを他人に売るというのは容易な所業ではなく、極めて高い営業スキルというか詐術を要するものだが、サブプライムCDOの場合は、詐術のすべてを投資銀行がお膳立てをするから、CDOマネジャーの仕事は、まさに上の引用部分にあるとおり、投資家の味方であるふりをし、リスク・ロンダリングの工程でラストワンマイルを担うこと。ただそれだけである。

単にそれだけの仕事で2千6百万ドル(26億円!)もの収入になるというのだから、愚鈍で思慮深くないことだけが取り柄の人間が足を洗えるはずもない。

ギャンブル依存症

そんな虚飾にまみれた債券市場がいつまで長らえるはずもなく、貧困層によるローン延滞率はかつてないほどに急上昇をはじめ、サブプライムモーゲージ債及びその関連市場は崩壊をはじめる。

当初はゆっくり着実な下落だったが、やがて勾配が急になり、6月初めには、トリプルBのサブプライムモーゲージ債の指数は、60台後半の終値を付けていた。つまり、元値に比べて30パーセント以上、価値を減じたということだ。となると、トリプルBのサブプライム債から創られたCDOの値も急落すると考えるのが道理だろう。オレンジが腐っていれば、そのオレンジを搾った果汁も腐っているはずだ。
なのに、そうはならなかった。それどころか、2007年2月から6月にかけて、メリル・リンチとシティグループを筆頭とする大手投資銀行は、新たにCDOを5百億ドルぶん創り出し、それを販売した

私はこの引用部分を読んで、ニコチン中毒の母親が自分の娘に対し、二度とタバコは吸わないと涙ながらに謝罪をしながら、無意識でタバコに火をつけてしまうという話を思いだし、うすら寒くなった。

貧困層に住宅ローンを貸すと、投資銀行による信用リスク加工を経て、世界中にリスクが分散される仕組みが完全に出来上がっていたから、住宅ローン業者は、借り手がどれだけ貧しかろうがジャンジャン金を貸し、住宅を買わせた。貸した本人は一切責任を取る必要はなく、ローン実行手数料だけが手元に残るのだから、考えてみれば当たり前の行動だ。こうした状況を受け、住宅ローン業者は当初2年のみ金利が安く元金の償還もないという、いわゆる朝三暮四的なイカサマ住宅ローンの提供を開始した。このローンは2年経つと突然金利が跳ね上がり元金の返済がはじまるのだから、借り手である貧困層がその支払いに窮することは目に見えていたが、その頃には住宅価格がさらに上昇しているはずだから、住宅を売却するなり住宅ローンの借り換えなりを行えばいいという前提に立った極めて無責任な商品だった。こんなバカバカしいローン債権を何件寄せ集めたところで、リスクが分散されるはずなどない。デフォルトの確率はほぼ100%である。

であるから、サブプライムモーゲージ債がいつか値崩れを起こすというのは予期できたはずの出来事だった。であれば、その兆候が少しでもみえたということになれば、常識的には蜘蛛の子を散らすように我先にと撤収の作業がはじまりそうなものである。それが実際には何事もなかったかのように鼻クソダンゴの組成を続けたというのだから、ビョーキとしか言いようがない。完全に依存症である。

バカげた賭博場の結末

このバカげた賭博は、全世界に多大な損失を発生させ、泡と消えた。その損失額は100兆円を超えるとも言われる。サブプライムモーゲージ債市場の崩壊を契機に巻き起こった金融恐慌などの二次被害、三次被害も含まればもっと途方もない額の金が失われただろう。損失はまだまだ膨らむ可能性もある。あれだけの大狂乱とともに膨らみ続けたバブルの後始末がそんなに簡単に終わるはずがない。いつだって散らかすよりも片づける方が大変なのだ。

そしてさらに恐ろしいことは、その巨額の損失の大半は政府によって、つまり元をただせば納税者の血税によって穴埋めが行われたということだろう。上で見た愚鈍なCDOマネジャーの天にまで届きそうなほどの巨額報酬は、結局一般人の税金から拠出されたのと同じだ。じつにバカバカしい話ではなかろうか。

書評的な

少し偏った紹介になったが、基本的には本書は名もない無名の投資家が巨万の富を得るまでのサクセス・ストーリーのような体裁となっており、悪徳投資銀行に義憤を覚えた人たちがカタルシスを得られるような構成になっている。上記記事を読んでやりどころのない怒りを覚えてしまった諸氏は、是非本書を通読してみていただきたい。
また、上記引用部以外の部分もリアルかつエキサイティングな記述で溢れており、この腐った業界をあえて志望するチャレンジングな諸兄にとっても必読の書となっている。と思う。

*1:モーゲージとは、不動産を担保にした貸付のこと。住宅ローンはその一種。

*2:サブプライムモーゲージCDSを大量に販売していたころのAIG・FPの社長、ジョー・カッサーノ

*3:コーンウォール・キャピタル・マネジメントのファウンダー、チャーリー・レドリー。サブプライムモーゲージ市場に対して世紀の空売りを仕掛けて莫大な富を築いた。

*4:サブプライムCDOの運用を手がけていたハーディング・アドバイザリーの経営者

そろそろネット住民の反パチンコ論についてひとこと言っておくか

はてなでは定期的にパチンコに関する話題が注目を集め、大挙して押し寄せたブックマーカーたちが、口々に社会悪たるパチンコ業界に対する怨嗟の声を漏らすというのが恒例行事になっている感がある。

< ビンボーの 原因は パチンコ >
韓国でパチンコが禁止となったニュースを報道できない日本のマスコミ - なおすけの都市伝説と雑学
404 Blog Not Found:国辱 - 書評 - なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか

いつもは口汚く罵り合っているはてなーたちも、ことパチンコの話になると異様な連帯感をみせ、ネトウヨも(パチンコ産業を完全に排除したという)韓国に倣えと言い出し、はてサヨも権力による規制に賛成し、自己責任論者もパチンコ中毒者の肩を持つ。まさに圧巻なわけである。

パチンコ愛好家はただのバカか?

反対論者の論には、邪悪なパチンコ業界と、それにだまされ搾取されていることにすら気付かない弱者たちという非常に単純な構図が透けて見えるが、これは単純にパチンコ愛好家をバカにしているとしか言いようがない。

常識的に考えて、パチンコをする人にも何らかしらの動機があるに決まっている。彼らはパチンコによって何らかの欲求なり衝動なりが満たされると思うから、パチンコをするのだ。まったくもって当たり前の話過ぎて申し訳なさすら覚えるが、パチンコをする人とパチンコ屋の関係は、単純に需要と供給の関係なのであって、小作農と封建領主のような関係ではない。パチンコをする人のそもそものところにある動機も考えず、ただひたすらパッと見の印象で搾取だ陰謀だと噴き上がる様は、見るも無惨である。

パチンコはコミュニティサービスである

少し前*1、それなりの頻度でパチンコ屋に通っていた経験がある。回数を重ねるにつれ、徐々に常連客のような方々が話しかけてくださるようになった。私は生粋の人見知りなので交友はご遠慮させていただいたが、私の友人などは割と仲良くしていたようだった。

曰く、常連客にはいくつかの派閥があり、派閥内にはリーダー的な人もいるのだそうだ。そして、同じ派閥の中では、その日勝った人が派閥の仲間にコーヒーを振る舞うなど、頻繁にコミュニケーションの機会が持たれ、今日は誰が来ていて何回当たったとか、来てない人はどこそこに行っているとか、そういう話をのべつ幕なしにしているのだそうだ。要するに学校の教室と同じである。

専業主婦のように学校を卒業したあと仕事をしていない人や、仕事はしていたとしても例えばトラックの運転手のように他人と接する機会があまり多くない仕事に就いている人は、学校や会社のような特定のコミュニティに属して日々を過ごすという経験に乏しい。そしてそれはおそらくとても寂しいことだと思う。だから多くの人はパチンコに行くのではないか。パチンコのように結果が定量的に把握できるゲームは、コミュニティの軸として非常に優れていると思う。

パチンコをすると、脳内でエンドルフィンという物質が分泌され、これが中毒症状の要因になるのだという。こうした科学的な事実をもってしてパチンコを薬物に喩える向きもあろうが、エンドルフィンは基本的には自分が他人から良く思われていると感じた時に多く分泌されるものであり、このことはパチンコがコミュニティの軸にあたるものだということを裏付ける。つまり、パチンコで大当たりを引くというのは、小学校の運動会においてかけっこで一番になり、クラスの人気者になることと一緒だということだ。

パチンコは暴利か

実は以下の通り、パチンコ遊技機器が1分間に打ち出す球数は100球と決まっている。

(1) 性能に関する規格
 イ 遊技球の発射装置(以下この表、別表第6及び別表第7において「発射装置」という。)の性能に関する規格は、次のとおりとする。
  (イ) 遊技球を1個ずつ発射することができるものであること。
  (ロ) 1分間に100個を超える遊技球を発射することができるものでないこと
  (ハ) 遊技球の試射試験を10時間行つた場合において、(イ)及び(ロ)に掲げる性能が不変であるものであること。
  (ニ) 遊技球の試射試験を10時間行つた場合において、その間、遊技盤上の遊技球の位置を確認し、かつ、調整することができるものであること。

遊技機の認定及び型式の検定等に関する規則 条文 | 法なび法令検索

そしてパチンコの玉は1球につき大体が4円、還元率は概ね90%前後*2であることが一般的だそうだから、理論上1時間当たりの単価は2400円ということになる。決して安くはないが、特別高いとも思わない。キャバクラにでも行こうものなら、同じ時間で2倍も3倍もの料金がかかる。最近では、市場の減退を受けて新たな客層を開拓することに躍起になっているパチンコホールが、1円パチンコなるものも打ち出しており、これであれば単価は一気に4分の1になるから、1時間当たり600円である。このくらいになると、普通のゲームセンターとあまり変わりないのではないか。

パチンコ叩きの性根

パチンコ叩きの性根は、先般のエロ漫画規制に絡んで無駄に差別発言を連発していた某東京都知事とまったく同じである。要するに自分に理解できない価値を無価値だと断じているわけである。無価値なものを無価値ゆえに差別して排除するか、無価値なものを利権のために横行させているなどとしておかしな陰謀論の権力批判として辻褄をあわせるかだけの違いだ。

根本的な動機を理解しようという気はまったくない。パチンコを取り上げて、彼らはどうなる?幸せになるのだろうか?酒もタバコもやり過ぎは体に良くないが、節度を持って楽しめば人生に彩りを与えてくれるものだと思ってる。そういうものも含めて何でもかんでも浄化して、無菌室みたいにすることが本当にいいことだと思うだろうか?

ネット住民は極端なのだ。自分たちが大好きなエロ漫画が規制されるかもという事態となれば、表現の自由などと一見崇高な概念を持ち出してまで、権力の暴走を許すなともっともらしく口角泡を飛ばす一方で、パチンコ業界のようなパッと見で怪しい業界には我を忘れて牙をむき、勢い余って規制による廃絶を唱える。そうではなくて、なにごとも真ん中くらいが一番いいわけである。

*1:いつとは書かないw

*2:胴元の売上のうち、プレーヤーに払い戻される金額の割合のこと。ちなみに宝くじは45%、競馬は75%程度。

電気自動車って結構ほんとに凄そうだ

またちょっと前の話になるが、11月30日放送のガイアの夜明けが電気自動車特集だったので、torne*1で録画して見てみたのだが、電気自動車すごいと思った。
なにが凄いって、加速が良いとか燃費が滅茶苦茶良いとかいろいろあるのだけど、一番は組み立ての簡単さである。

組み立て簡単電気自動車

どのくらい簡単かというと、地方の町工場が、100万円でガソリン自動車を電気自動車に改造するサービスをはじめられるくらい簡単らしい。町工場のオッサンの技術的なバックボーンは不明なので、あまりそうした事実をもって簡単だ簡単だと騒ぐのも失礼かもしれないが、少なくとも特別大きな設備投資などがなくても、電気自動車は組み立てられると考えることに間違いはなさそうだ。

ということで、いくつか番組の画像があるのでご覧いただきたい。


この工場で電気自動車が生み出されている。外観は普通の町工場のようだ。



えっ、これだけ?という感じの改造キット。



あっさりした改造風景。社長(奥)は厳しくときにやさしく指導する(想像)。



どんな自動車でも電気自動車に改造できると強弁する社長。


既存の自動車工場のような大袈裟さは皆無で、印象としてはまるでミニ四駆みたいだ。

大袈裟な工場(イメージ)

戦略的コントロールの移行

以前に書いたのだけど、ガソリン自動車っていうのは、組み立てに非常に高い技術力を要すためそれが参入障壁となり、既存の自動車メーカーの利益を守ってきたという構図がある。

家電や電気機器分野で日本企業が軒並大苦戦を強いられるなか、自動車業界だけが国際的にみて高いシェアを維持してこれたのはこのためである。つまり、製造における技術的なボトルネックが「組み立て」にあるという構造と、日本の伝統的なお家芸である垂直統合型の生産体制とがたまたまぴったりはまったというのが、本邦自動車メーカー勢が国際的競争力を維持できている背景である。

電気自動車の普及によって、おそらく自動車メーカーにとって最重要な戦略的コントロールのポイントは技術的な要素から、デザインや価格などのよりマーケティング的な要素に大胆に移行するのだろう。それは業界の地図を一変させる可能性がある出来事である。

全工程を人件費の安い東南アジアなどで完結させることで、信じられない値段を実現する新興メーカーも台頭するだろうし、OEMでの生産を請け負う工場もたくさんできそうだ。地方の小規模自動車工場を親の世代から継いだ二代目若社長が、工場の再起をかけて電気自動車の製造販売に乗り出し、いまでいうところのユニクロばりの躍進を遂げるようなこともあるかもしれない。

実に夢があってよろしいと思う。

ベンチャー企業は実際に台頭している


以下の会社はシリコンバレーのベンチャーらしいが、2003年の設立でもう製品の発売までこぎつけている。詳しくは以下のリンクから確認してほしいが、見た目もかっこいいし、フル充電で400km近く走って、しかも時速100kmまで3.7秒で加速するらしい。wikipedia情報だが、右の写真は2009年3月に発売されたというモデルSという車種。「大人5人と子供2人が座れるセダンタイプで、家庭用コンセントから充電可能」で、「一度の充電にかかる時間はわずか45分」「最高300マイル(≒483km)の走行が可能」らしい。うーん、乗ってみたい。

以下は試乗記。

噂のEV(電気自動車)、『TESLA』の同乗試乗を体験してきたよ! | IDEA*IDEA

*1:がんばれPS3!

青少年健全育成条例と常識とインテリ系左翼気質

さて、東京都青少年の健全な育成に関する条例(以下「本条令」。)についてである。
先日、「こどもにエロ漫画を売りつけることで養われる国際競争力なる能力があるらしい」というエントリーを書いたところ、割と少なくない反応が寄せられた*1ので、今日はそれらの反応について思ったことを書いてみたい。

私に反応を寄こしたのはほとんどが本条例の反対派だ。まあひとくちに反対派といってもいろいろな人がいるわけだが、概ね以下のグループにわけられると私は思っている。

  1. 出版・流通業界の関係者で、本条例によって自らの経済的利益が害されるのではないかという恐れを抱いている人たち
  2. 規制対象になり得るコンテンツの消費者で、本条例によって自らの欲求が満たすことができなくなることを危惧している人たち
  3. 学術的な背景に基づいて、表現の自由(ごく稀にリバタリアニズム)についての"べき論"を展開している人たち
  4. 上記3グループいずれかのフォロワー、オウム又は猿真似


上記のうち4番の人たちの何も考えてなさや2番の人たちの必死さも本件事案を楽しむためのポイントに違いないが、やはり断然面白いのは3番の人たちである。

彼らの面白いところは、もし本条例の撤廃を求めるのであれば、本条例に反対する派閥を組織するための政治的活動をこそ起こさねばならないはずなのに、規制に対してニュートラルか若干ポジティブくらいの一般人を見るにつけ、何故かそれを見下してしまうところである。

折角なのでいくつか紹介させていただこう。なお、こういう良質なインテリ系左翼気質が多いのがはてなの特徴で、Blogosの方の客層とは全然異なっていることを強調しておきたい。以下のお歴々はいずれもはてなブックマークからの引用である。

まぁアサハカなりとは思うが普通の人がこの問題について割ける思考リソースなんてこの程度でこの辺が普通の感覚という意味ではよくわかる。自分の価値観を覗き込むような人じゃないとこの話の危険性は理解できんよな

はてなブックマーク - hal9009のブックマーク - 2010年12月12日

悪い意味で『常識的』な『一般人』の感想。そしてその「正しい知識」は「大人になれば自然に覚える」と続き、覚えないまま『失敗』をした者を白眼視して『社会』から追い払う。

はてなブックマーク - 振り返れども人はなく、我の前には誰もなし - 2010年12月13日

「妊娠や性病に対する正しい知識もなく、単にエロ漫画の影響で興味本位に性行為に及ぶ小中学生が増えたら、それは事態として「不健全」である。」まあ、そういうものでしょうね、市井の人の認識は。

はてなブックマーク - egpehcbd のブックマーク - 2010年12月13日

本当に危険性があるのなら普通の人にこそそれを理解させるべきなのであって、アサハカなりとか見下している場合じゃあないし、常識的であることを悪い意味でなどと嘯いてアウトローを気取っている場合でもなければ、自分が市井の人とは違うマイノリティであることを匂わせてニヒリズムに浸っている場合でもない。

別に私は彼らに世直しをしろと迫るつもりは毛頭ないが、まあ所詮常識的な市井の一般人ならこの程度の感覚か、とか言われてもさすがにどうしたらいいのか皆目見当もつかないことこの上ない。


察するに、上記のようなインテリな方々は、潔癖主義なノイジーマイノリティを楯に権力が暴走してありとあらゆる表現が「有害」の認定を受ける虞や、そうでなくとも少数派の趣味嗜好を持つ人々に対する迫害に直結する虞などを危惧していらっしゃるのではないかなあ、、などとは勝手に想像するものの、やはりどう考えてもそれは今の段階では危惧に過ぎないわけで、「条例の適用にあたつては、その本来の目的を逸脱して、これを濫用し、都民の権利を不当に侵害しないように留意しなければならない」旨をキチンと謳った条例に反対するにはイマイチ根拠が乏しいと「常識的には」思わざるを得ない。こう書くと決まって規制派こそ規制する根拠を示せと言う人が出てくるわけだけど、過激なエロ漫画をこどもに売るなというのはあまりに常識的な話だし、かつ、本条例自体も昭和39年から一応無事に運営されている条例なようだから、やはり反対する人たちの方が根拠を示すのが筋だと思うわけである。

もし本当に危惧したような運営上の問題が顕在化した際には、それは条例違反なわけだから、その時は声を大にして運営の見直しを唱えればよろしいのではないのだろうか民主主義なわけだし、と思うのだがどうだろうか。常識的過ぎますか。

追記

「市井の人の認識はこんなもの」というのは別に批判的なニュアンスで書いたわけではありません。反対派の思考は私も含めて麻痺(この条例でフィクション全滅!子供読ませてもいいじゃんとか)してるよねということ。

はてなブックマーク - egpehcbd のブックマーク - 2010年12月14日

えーっ、すいませんわかりませんでした。。

*1:[http://news.livedoor.com/article/detail/5202700/:title=Blogosの方]に寄せられたコメントも含め。

こどもにエロ漫画を売りつけることで養われる国際競争力なる能力があるらしい

東京都青少年健全育成条例の改正について、条例や改正案の原文すらろくに読まずなんとなく雰囲気だけで表現規制反対だなんだと騒ぎ立てる輩が多いので、いつか何か言ってやろうと機会をうかがっていたところ、ここにきて大御所、池田信夫先生が登場し、ついに機は熟した感がある。⇒池田信夫 blog : 「青少年」という幻想 - ライブドアブログ
なお、本条例に関する私の基本的なスタンスは、こちらを参照していただきたいが、別に普通の規制じゃないのという感じだ。


さて、池田信夫先生である。

そもそもこの条例の求める「健全な青少年」とは何なのか。大人が「有害な表現」を指定して子供の目にふれないようにするという発想の根底には、子供は未成熟な存在で、「不健全」な情報を与えるとその発育が阻害されるという発想があるのだろう。

池田信夫 blog : 「青少年」という幻想 - ライブドアブログ

今般の条例改正に反対する人たちは一定以上の確率で、この「健全とは何か」というそもそも論を持ち出すが、極端な話、幼稚園児や小学生がエロ漫画を読んでいたら不健全極まりないことは明らかである。

「健全とは何か」などと仰々しい問の立て方をするからよくないのであって、少し具体的に考えてみればわかると思うが、性に対して正しい知識を持つ前から安易に性的なコンテンツにふれると、そのこどもや周囲が不幸になる可能性があるということだ。妊娠や性病に対する正しい知識もなく、単にエロ漫画の影響で興味本位に性行為に及ぶ小中学生が増えたら、それは事態として「不健全」である。

なにも性だけではない。暴力だって酒だってタバコだってそうだ。使い方次第によっては、使用者やその周囲の人を傷つける恐れがあるものについては、使用上のリスクについて、十分な知識を与えてから使用させなくてはならない。それが大人としての義務というものである。


池田信夫先生は上記引用部に続けて、以下のように述べる。

しかし最近の脳科学の成果が示すように、このように子供を「保護」する発想は間違っている。
脳細胞の数は生まれたとき最大で、その後は減ってゆく。神経回路の結合も子供のとき最大で、脳は自由に活動している。大人になる過程は、既成概念や社会規範に合わせてシナプスの結合を「刈り込む」ことである。だからエロ漫画によって子供の脳が「不健全に育成」されることはありえない。性的な刺激に反応する回路はもともと脳の中にあり、漫画によって発生するものではないからだ。それを禁止する動機がもっとも強いのは、自分の中の欲望を抑圧しているPTAの専業主婦だろう。

池田信夫 blog : 「青少年」という幻想 - ライブドアブログ

もう面白くて笑いを堪えるのに精一杯なわけだが、一体誰がエロ漫画で脳細胞の数が減る心配をしたというのか。大先生の脳は、ちょっと自由に活動し過ぎではなかろうか。

PTAはそんな科学的な現象に漠然と不安を感じたりはしない。PTAが危惧するのは、軽率に性交渉に及んで女の子を妊娠させるようなことがあったら大変だとか、うっかり酒やタバコに嵌って中毒になっては大変だとか、そういう具体的な可能性である。

なお、専業主婦は自らの欲望を抑圧しているという、トラディショナルなアダルト・ビデオのような価値観をさらりと持ち出すあたり、池田信夫先生の青春時代にも不安を覚えずにいられない事態となっている。


我々の不安をよそに、オチに向かって突き進む池田信夫blog。抱腹絶倒の大オチは以下のとおり。

エロ漫画の主な読者は「青少年」ではなく、描いているのも大人である。日本のオタク系コンテンツが世界的な競争力をもっているのは、それが西洋的な啓蒙主義によって抑圧されている「子供的な想像力」を解放しているからだ。その程度のこともわからないで自由な表現を公権力で刈り取ろうとする石原氏を見ていると、つくづく年は取りたくないものだと思う。

池田信夫 blog : 「青少年」という幻想 - ライブドアブログ

出た。国際競争力(笑)

そもそも前回も書いたが、誰も表現を「刈り取ろう」などということは言っていない。条例において規制の対象となっているのは漫画家などの表現者ではなく本屋などの事業者であって、規制の内容は有害なコンテンツを「青少年に販売し、頒布し、若しくは貸し付け、又は観覧させないように努め」ろというものだ。

表現自体をするななど誰も言っていない。どんなに有害なものであろうと自由に表現すればよろしい。ただ単にそういう如何わしい表現物を、それを消費したり使用したりするための十分な知識を持たないこどもたちに安易に売りつけるなという話である。

幼気なこどもたちにエロ漫画を売りつけることで養われる国際競争力など不要である。

ここが変だよ介護保険制度

介護保険制度がスタートしてはや10年という頃合いなわけだけれども、どうも納得がいかないというか、設計がちょっとおかしいような気がしてならないわけである。非常に基本的な話ではあるわけだけれども、みなさんどう思いますか的な。

介護保険制度の概要

そもそも介護保険制度は設計が無駄に複雑でわかりづらいので、まずは基本的な部分の確認から。基本的な仕組みは概ね以下の通りとなっている。と思われる。

市町村から要介護者の認定を受けた介護利用者が、介護施設等で介護サービスを受けた場合、介護施設は利用者と国保連合会から対価を受け取ることになる。介護保険の保険者は市町村で、利用者からの保険料の徴収も市町村が行っているのだけれども、国保連合会に審査及び支払いに係る事務を受託しているためだ。ちなみに介護保険料の支払いは、40歳以上の人は支払わなければならないということになっているらしい。
少しマニアックな情報になるが、国保連合会から利用者への矢印が「代理支払」となっているのは、介護保険法上、本来の介護給付費の受領者は介護利用者であるところを、介護施設が代理で受領することができるという定めになっているため。
無駄に複雑だという印象は拭えないけれど、さして難しくもないので概ねご理解いただけたと思う。

給付財源の半額は純粋に税金

ということで、ここからが本題なわけだけれども、介護施設等が受け取る対価の財源別内訳である。

まず、介護施設における居住費(家賃)と食費は全額が自己負担。2006年改正でそうなったらしい。これはとりあえず置いておいて、介護サービスの利用料である。こちらは自己負担分は一割で、残りは保険料及び公費で賄われている。保険料というのは上述のとおり、40歳以上の人が被保険者として支払っている保険料のことだろう。なんとこれは半分にしか満たない。端から保険料だけでは財源が足らず、公費でもって負担することが前提の制度なのだ。その結果がこれだ。

なんと無計画なことだと思うのは私だけか?

老人優遇の再分配

さて、租税の重要な機能のひとつに所得の再分配があげられる。それは、裕福な人から多く税を徴収し、得た財源を社会保障やその他社会インフラの整備に充てたり、ときには生活保護などで現金を支給するなどして貧しい人の生活を手助けすることで実現する。

ところがこの介護保険制度はどうだ。給付を受ける介護利用者には、所得に応じた制限などは基本的にはなく、自己負担は一律で一割とのことのようだ。貧しい若者から徴収した税を、富める老人に再分配することにどういった社会的な意義が見出せるのか不明である。

同じ保険料を支払ったのだから同じ給付を受けられるのだというのならまだわかる(それでも積立方式でない限り世代間の不公平感は残るが)。本邦介護保険制度は、先に見た通りその財源の半分は税金なのである。これはどうも納得がいかない。


世の中には高級老人ホームというのもあって、こちらのサクラビア成城さんなどは、右の写真からわかるとおりの超高級ホテルさながらの豪華絢爛な施設で、入居しようと思うと一時金だけでなんと最低でも8,750万円かかる。最大でなんと3億7千万円だ。一時金だけで3億7千万円だよ?そんな大金をぽんと支払えるような大資産家の介護費を、なぜ我々のような幼気な小市民の血税で負担せねばならないのか!

財源として税金を使うなら自己負担率は資産額に応じて決めるのが筋ってものではないの。

きっと昔は、親の代から家を継いで、代わりにtと言ってはなんだけど介護は自分たちがその継いだ家で面倒を見て、という具合で世の中がまわっていたのだろう。それが最近は女性の社会進出や核家族化などの影響で、その「自宅で介護」モデルは厳しい状況にあろう。だから介護のアウトソース先を社会的なインフラとして整備しなくてはならない。それはわかる。

ただその場合、要介護者となった老人世代は、家などの資産がもしあれば、それを換金して自身の介護費に充てるべきなのではないのだろうか。それをせずに、資産は子に残し、介護は外で受け、ではカネが足りないのは必然。そもそも収入がないんだから。で、その足りない分を公費でよろしくというのはどうも何かが間違っているとしか思えないわけである。保育園の保育料は、父母の収入によって変わる。介護費もそういう風にすればよいのではなかろうか。


…いかがでしょうか。

お便り紹介

反応を勝手に紹介させていただきます。





知りたい!

りそなの大型増資と投資家のモラルハザード

先日、りそなホールディングスが新株発行のための発行登録をしたことが、一部で話題になっていた。
「新株式発行に係る発行登録について(PDF)」

時価総額とほぼ同額、6000億の大規模増資!

話題になっていた理由は、単純に金額がでかいからである。その額なんと6000億円。どーん。

当該新株発行公表日の株価は612円であり、発行済みの普通株式は12億株だから、時価総額は約7400億円。新株をいくらで発行するのか知らないが、時価で発行するとすると、希薄化率は80%を超える計算になる。

普通、希薄化というのは1株当たりの利益の減少につながるから、既存の株主にとってみれば実に迷惑な話である。

ただよく見ればそんなにネガティブな話ではない

りそなは、上記の公表と同時に以下をリリースしており、いわばフォローをしている。こちらを読むと、確かにそんなにネガティブな話ではないな、という感じがする。
「新たな「経営の健全化のための計画」の提出ならびに『りそな資本再構築プラン』の策定について(PDF)」

以下の図は、同リリースから引用。

なんとなくデザインがダサいのが気になるけれど、言いたいことはおよそこういうことだ。⇒6000億増資するけれど最大で9,000 億円の預金保険優先株式を返済するから、資本が「公的優先株式」から「普通株式」に振り替わるだけで実質的には希薄化しない。今後は、優先株配当にまわしていた分の剰余金が浮くから、普通株配当を増やす。2割増やす!と。

市場の反応

市場の反応はといえば、実に芳しくないものであった。

公表後初日はストップ安でその後も特に値を戻すこともなくだらだらと下げている。具体的に数字で言うと、公表前3か月間平均の時価総額が9,510億円で公表後の平均が5,840億円なので、実に4,000億円近い価値が喪失している計算になる。これは、実に厳しい評価であるといえる。

モラルハザード投資

何故そこまでネガティブとも思えない発表によって、そこまで大きく株価が下がるのだろうが。答えは簡単で、投資家はもっとポジティブなシナリオを想定していたということだろう。
おそらく、投資家各位のメインシナリオは、公的資金はどうせ泣き寝入りだから返済の必要はないと思っていたのではなかろうか。そこまでムシのよろしいシナリオを描いていればこそ、公的資金返済の報せはサプライズとなる。

つまり、もともとの株価が高すぎたのだというお話。

ソーシャルゲームのバリュエーション

最近めっきり筆が遅くなってしまって、旬なネタについて書き始めても書いているうちに旬を過ぎてしまうから、書き終えてはみたもののなんとなく今更感を感じてお蔵入りというケースが増えている次第。

今日の話題もなんとなくそんな感じではあるものの、気合でリリース。

モバゲーで有名なDeNAが米国のソーシャルゲーム制作会社であるngmocoを買収した話。DeNAによるリリースは以下から。もう1か月も前の話。
「米国ngmoco 社の買収、第三者割当による新株式発行及び新株予約権発行に関するお知らせ(PDF)」

342億円!

DeNAのプレスリリースによれば、ユーザ数2,000 万人を超える強固なコミュニティをベースとしたソーシャルゲームプラットフォームである「モバゲータウン」によって業績を急拡大させているDeNAとしては、今後全世界的に拡大が予想されているスマートフォン市場への進出が目下の関心事であるから、既にスマートフォン市場において相応の事業基盤を保有するngmoco 社との一体運営を図ることにより、グローバルなソーシャルゲームプラットフォームの構築を加速させることが最も重要であると判断し、ngmoco 社を買収することといたしたとのことである。

プレスリリースに延々と記載されている無駄に複雑な買収スキームも去ることながら、やはり気になるのはお値段。でも、お高いんでしょ?

本件買収に係る対価の総額(以下、「本件買収対価総額」といいます。)は、最大で4.03 億米ドル(約342 億円、注1)相当となります。本件買収対価総額の内訳は、以下のとおりとなります。

  1. 合計 3.03 億米ドル(約257 億円)相当の当社普通株式新株予約権及び現金(以下、「クロージング対価」といいます。)
  2. 合計最大 1.00 億米ドル(約85 億円)相当の当社普通株式(最大1,070,535 株)、新株予約権及び現金(以下、「アーンアウト対価」といいます。)


一部は将来の業績に連動するかたちで支払われるようだが、実に最大で342億円。

結構いいお値段なので、よほど業績がよろしい会社なのだろうとリリースを読み進めると驚愕の事実。こちらの会社そもそも創業から2年ほどしか経っておらず、業績は2期連続の赤字。1期目営業赤字209百万円、2期目営業赤字925百万円。売上高もわずか268百万円。

決算期 2007年12月期 2008年12月期 2009年12月期
連結純資産 3,176千米ドル(約270百万円) 26,711千米ドル(約2,270百万円)
連結総資産 3,264千米ドル(約277 百万円) 28,258千米ドル(約2,402 百万円)
連結売上高 484千米ドル(約41 百万円) 3,156千米ドル(約268百万円)
連結営業利益 △2,455千米ドル(約△209 百万円) △10,886 千米ドル(約△925 百万円)
連結当期純利益 △2,438 千米ドル(約△207 百万円) △10,886 千米ドル(約△925 百万円)


赤字の会社に342億円、さすがに高すぎやしないのだろうか。昔懐かしいITバブルの香りが漂う。というか、赤字の会社でよろしければ、私のほうでいくらでもご用意いたしますが…。
これは一体どういうことか。

バリュエーションの基本的な考え方

さて、少し説明くさくなるけれども、M&Aにおけるバリュエーションについて基本的な考え方を紹介しておきたい。

M&Aは要するに株式投資の一種なので、基本的には割安な値段で購入することがカギだ。割安かどうかの判断は、人によっていろいろなやり方があるわけだけれど、比較的一般的な考え方はEBITDA倍率ではなかろうか。

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EBITDAとはつまり、ある会社がその事業を営むことで創出するキャッシュフローのようなもの。Earnings Before Interest, Tax, Depreciation and Amortizationの略。EBITDA倍率というのは、その会社の価値がその会社のEBITDAの何倍かを表す指標である。

つまり、EBITDA倍率が高い会社というのは、将来の業績がよいことが見込まれている会社のことで、EBITDA倍率が低い会社というのは、将来の業績が必ずしも芳しくない可能性を折り込まれている会社のことだといえる。業績がよさそうか悪そうかというのは、業種や事業モデル、経営者の方針などによって判断されるのだろう。昨今のM&A案件において、EBITDA倍率は概ね5倍から7倍程度が平均的である。

M&Aが普通の株式投資と異なるところをひとつあげるとすると、株を買う側も企業であるから、買い手企業も株主との関係では評価される立場にあるということだ。あくまで一般論だけれど、自社の評価率よりも高い評価率で買収をするとあまり結果がよろしくないことが多い。つまり上で紹介したEBITDA倍率で5倍程度の評価を市場から受けているような会社が、EBITDA倍率7倍の会社を買収するということは、あまりしない。倍率の低い買い会社が倍率の高い会社を買収すると、高かった方の会社も子会社化によって倍率が引くなってしまう可能性がある。

基本的には、EBITDAなりの倍率が自社よりも低い会社を買ってきて、自社なみの倍率まで引き上げ、その上昇分を利益として享受する(価格差を利用して利益を出すという意味でアービトラージの一種とも言える)というのが基本的なM&A戦略だと考えていただいてよいと思う。

ユーザー数倍率

ということで、DeNAとngmocoの話に戻ろう。
DeNAの企業価値は約3,268億円。時価総額は3,733億円だけども、465億円分は単なる現金なので、企業自体の価値はそういうことになる。EBITDAは、DeNAの成長速度を考えると前期のものでは少しデータが古すぎるかと思い、今期の予想を採用した。結果、EBITDA倍率は5.97倍。DeNAの現在までの成長スピードを考えると若干低めの数値が出た印象がある。今期予想を使ったためというのもあるだろうが、もしかすると「下流食い」や「出会い系」と揶揄されるようなビジネスモデルに、市場は懐疑的なのかもしれない。*1

一方のngmocoについては、既に見た通り前期は9億円の赤字であり、今期予想などは開示されていないなので、EBITDA倍率は算定できない。以下の通り表にしてみたが、何の参考にもならない。残念無念。


気を取り直してユーザー数で比較してみたのが以下の表。ソーシャルゲーム事業の収益モデルは、登録ユーザーに対する課金なので、ユーザー数の倍率もデータとして有意なはずである。

さて、ngmoco社が運営するプラットフォームにはなんと1200万人もの登録ユーザーがいるのだそうだ。なぜそれで売り上げが2億しかないのかはよくわからないが。対する我らがDeNAは、登録ユーザー2000万人。やはりDeNAの方が圧倒的に多いけれども、それでも売り上げや利益における桁違いな差よりはずいぶん縮まっている。企業価値とユーザー数の倍率をみてみると、DeNAの16,342倍に対して、ngmocoは2,850倍。急に割安な気がしてくる。


おそらく、DeNAのM&A戦略はこうだ。即ち、モバゲーで培ったノウハウをngmocoに投入することで、企業価値/ユーザー数の倍率を自社の水準まで引き上げ、当該上昇分から利益を得ようとするものである。そして、DeNAが自社の価値と思っているものは、マネタイズのノウハウだろう。つまり釣りゲームのユーザーに釣竿のアイテムを売りつける能力のことだ。

と、いうことが実はリリースをちゃんと読むとしっかり書いてある。「強力に」というあたりが、力のこもった感じでよい。

当社グループの技術力、「モバゲータウン」によって培われたコミュニティ運営ノウハウ、マネタイゼーション(収益化)ノウハウ、ソーシャルゲーム企画力、ゲームデベロッパーとのネットワーク等と、ngmoco 社のスマートフォンにおけるゲーム開発ノウハウ、プラットフォーム開
発力等の双方の強みを活かし、ユーザのみならずゲームデベロッパーにとっても最良のソーシャルゲームプラットフォームをスマートフォン市場に提供して参ります。
具体的には、

  1. ユーザに対しては、世界中で開発された豊富なソーシャルゲームとそれを楽しむコミュニティ機能を提供し、最も親しまれるエンターテイメント環境をスマートフォン上に実現します。
  2. 世界のゲームデベロッパーに対しては、ワンソースソリューション(iOS でもAndroid でも、「モバゲータウン」と「plus+ Network」を通じて世界市場に向けて同時にゲームを配信できる環境)を提供し、ゲーム嗜好性の高いユーザの大規模コミュニティを実現し、マネタイゼーションを強力に支援します。(注2)


ちなみに、ngmocoのユーザー数倍率がDeNA並みになったらどうなるか計算してみたのが以下の表。結果はほぼ2,000億円となった。まる儲けだ。こう考えれば342億円もそんなに高くない。

*1:ところで、もし本当にそうならDeNA株は「買い」だ。市場がDeNAの成長力を先入観で過小評価している可能性がある。

賛美される消費

Grouponなる米国のベンチャー企業が巷で話題だ。

日経新聞によると、「今年4月にようやく創立17カ月を迎えたグルーポンは1億3500万ドルの資本を調達したが、そのときの同社の評価額はに達していた」そうだ。

業績も絶好調のようで、創業して1年足らずにもかかわらず、「2010年度の推定売上は3.5億ドル(315億円),月間推定利益は400万ドル(3.6億円)を超えている」とのこと。さらに、モルガン・スタンレーがまとめたリポートによると、今年の年商は5億ドルを超える勢いなのだそうだ(うらやましいですね)。

ビジネスの内容は極めてシンプルで、要するにクーポンの販売サイトである。

主な特徴は、(1)時間限定・数量限定で販売されること、それから(2)一定以上の購入者が集まらないと販売しないこと。概ねこの2点。

購入者が、お得なクーポンを獲得するために、twitterなどのツールを活用して、共同購入を呼び掛けるという図式が出来上がっている。

あまりにもシンプルなサービスで、初期投資もクソもないビジネスモデルだから、みなさんのご想像通り、既に雨後の竹の子のようにパクリサイトが乱立している状況にあり、日経新聞の同じ記事によると「米国では200以上、米国以外の地域でも500(うち100が中国)の類似サイトがすでに出現」しているのだそうだ。一説にはグルーポン系サービス立ち上げ用パッケージ(パクリサイト作成キット)の販売も開始されているそうだ。


このビジネス、どうもどこかで見たことがあるよなあとずっと思っていたのだけれど、今朝、思い出した。

QVCショップチャンネルだ。

QVCは、少し前に話題になって「ガイアの夜明け」でも紹介されていたが、端的に言うと24時間生放送で延々と通販番組を流し続けるテレビ局のことである。

限定特売、数量限定を叫びながら、ライブであることを利用して残りの商品数が減っていく様を刻々と放映するという方法によって、深夜の1時間枠などで宝石やら化粧品やらを数億円単位で売り上げるらしい。

グルーポンというのは、つまり小規模事業者向けのQVCなんだろう。

QVCでものを売るには、当然それなりに規模も必要だし、コストもかかる(たぶん)一方で、グルーポンは非常に安いコストで出稿できる広告媒体のようだ。

そしてこれには、WEBの双方向性、即時性という特徴がtwitterによって飛躍的に高まったことをきっかけに、非常に少ない投資でグルーポンのような媒体/インフラをつくれるようになったという背景があるように思われる。


ところで、私は心の底ではあまりこういうサービスを好ましく思っていない。

当然いいところもあるというのはわかっていて、例えば効果・効能が直感的にはわかりづらく、ある程度説明が必要な商品などを売るには適した媒体なのだろうと思う。

ただどうしても、今だけ!とか限定!などと煽られると、不要不急のものでもついつい買ってしまうという消費者の悲しい"さが"につけ込むという印象はぬぐえない。

フラッシュマーケティングとか、プッシュ型メディアとか言うとなにか素晴らしい理論のように聞こえなくもないが、日本語で言うと、つまりは押し売りである。


確かに、消費は甘美だ。買い物をすると、自分が少しだけ価値のある存在に思えて、ストレスの発散になる。そういう意味で、上述の2つのメディアは、顧客に対し、本質的には消費という経験を提供しているのだと言えなくもないかもしれない。

ただ、「おもちゃのベルトを巻いたって強くなんかなれない」のと一緒で、消費によって本質的に何かが解決するということはありえないように思う。

であれば件のメディアこそは、ビートたけしが言うところの貧乏を貧乏の中に封じ込めて、その中で金を回すという商売のまさに筆頭格である。なにか、ひどく残念な気持ちになるのだ。

21世紀の国富論

VC(ベンチャーキャピタル)に対する不満を書き連ねた先日の記事は、260人以上にブックマークされ、アクセス数も10,000を超えた。日本のVBベンチャービジネス)をめぐる環境に不安や不満を持っている人は、少なくないということなのだろう。

21世紀の国富論先日の内容は、私が実際にVCを何社かまわってみて受けた印象をもとにしているが、とはいえ私自身がVCに務めた経験があるわけでもないので、実際のベンチャー・キャピタリスト(中の人)はどういう認識なのかという点が気になり、読んでみたのが「21世紀の国富論」という本。

著者は、1952年、大阪生まれで、慶応義塾大学法学部、スタンフォード大学経営学大学院を経、同大学工学部大学院修了。現在は、デフタ・パートナーズ・グループ会長だそう。主に情報通信技術分野でベンチャー企業の育成と経営に携わり、1990年代にソフトウェア産業マイクロソフトと覇を競ったボーランドなど数十社を成功に導いた、シリコンバレーを代表するベンチャーキャピタリストのひとりらしい。

ベンチャーキャピタルは死んだ」らしい

曰く、「現在のベンチャーキャピタルは、長期間にわたってリスクが存在する場所に資金を出すことができなくなってしま」っており、「起業家が新技術の特許を示し、事業計画を語っても『製品が完成したら来てください』と断り、製品を完成させてから行くと、今度は『売れはじめたら来てください』と逃げるといった状況」だから、「ベンチャーキャピタルがただの金融業に成り果ててしまったといわれても仕方がない」ということらしい。

金融業に成り果てたことをもって「死んだ」などと表現されては金融業の立つ瀬がない気もするが、敢えてVCと金融業を区別する姿勢はわからないでもない。VCの投資対象であるVBの事業リスクは極めて高く、銀行や証券といったいわゆる金融事業者が取れるリスクの許容範囲をゆうに超えるからだ。

その割には、どこの証券も銀行もグループ内に一社はVCを持っていたりするわけだが、彼らは決してVBの事業リスクに対してコミットしているわけではない。彼らがやっているのは、非常にベーシックな分散投資である。100社投資して1社成功してくれれば、大体平均するとちょっと勝つくらいの結果を求めている。

要するに、金融型のVCというのは単に新興市場のインデックスにベットしているに過ぎない。対峙しているリスクは、事業リスクというよりむしろ、流動性リスクである。投資先が株式公開して、市場で売却できるようになることがすべてなのだ。であるから当然、株式公開に近いステージの企業に投資することが、より望ましいということになる。

伝統的なVCのインセンティブは、将来有望そうなアーリーステージの企業に投資して、その後の劇的な成長に賭け、一山あてる方向に向いていたのに対して、現状はずいぶん様変わりしてきている。結果として、創業期のVBに対して10年や20年を超えるような長期の資金提供を行うことができるVCは、ほとんどいなくなってしまった。

短期的利益の追求

とはいえ、もっとリスクをとれとVCをDISってみたところで何が解決するわけではないし、そもそもこうした傾向はVC業界に限ったものではない。金融市場の発達と、世界的な流動性過剰によって、投資マネーは基本的に短期目線になってきている。まるで、時間が加速しているように。

そうした傾向は、「時価総額経営」や「株主資本主義」といったスタンスを賞賛する風潮に端的に表れていると著者は指摘する。「株価」を過剰に意識するあまり、ROEなどの指標を向上させることが目的化してしまっており、株主への配当を増やすために内部留保を食いつぶし設備投資は抑制され、見せかけの利益を増加させるためだけのリストラが横行しているという問題が繰り返し提起される。

著者は、「アメリカの大企業を中心に、つぎつぎと過去最高益の業績をあげているといった現在の景気拡大は、見せかけのものにすぎ」ないと言う。同著は2007年に初版が発行されたようだから、おそらく金融危機以前の好景気を指しての発言だろう。そして、「小手先の金融政策と財政政策だけで景気をよくしようというのは、そもそも無理」であって、「根本的に必要なのは、新しい産業」と続ける。

本来、より良い社会を実現し、我々の生活を豊かにするような新しい産業や企業が興ることこそが究極的な目標なのであって、株価やそれにまつわる指標などの数値というのは、それを実現したり効果を測ったりするためのツールに過ぎないはずなのに、いつの間にかそれらの数値自体が目的化されたマネーゲームに成り下がってしまうということは、まあよくあるストーリーである。

経営指標のトレンド

割と面白かったのは、ROEなどの経営指標は単なる流行で、じきに廃れるだろうという話。ROEが重視されるようになった1990年代より前はROAが、そのまた前はEPSが重視されていたが、どれも一時的なものだったと指摘されている。

こうしたトレンドが何に基づいているかと言うと、その時々の基幹産業だという。今であればITやコンピューター産業である。こうした業界は、従来型の工業製品と比して原価がほとんどかからないから、利益率が極端に高いのが特徴である。例えばマカフィーの粗利率は、100%である。

つまり、ROEの流行は、産業の中心が従来型の工業製品から知的財産へと移行するにあたっての過剰適応なのだと述べられている。だから、今後また新しい産業が生まれれば、当然に新たな指標が着目されるだろうと。その程度の従属的なものに過ぎないと。

これはなかなか面白い話だと思うし、実際にそういうことのような気もする。所詮経営指標などというものに大した意味はなく、新しい産業を正当化するくらいの意味しかないのかもしれない。

総論賛成、各論反対

結局著者が主張しているのは、見せかけの数値に捉われず、新しい産業が興るための地盤(VCを含む)をみんなで整えようということで、それはそれで賛成できるというかむしろ当たり前だと思うのだけど、各論としては気になるところも少なくない。

それは例えば、ヘッジファンドを規制しろとか、時価会計はやめろとか、ストックオプションもなくしてしまえとか、アクティビストファンドは死ねとか、そういった主張である。こうした主張に違和感を感じるのは、そうは言っても流動性を否定してVCは成り立つまいと思うからだ。

著者も、「健全な株式市場がベンチャービジネスには不可欠」などといって、投資のイグジットとして株式市場での売却をにおわせている。で、あれば、もっとも大事なのは流動性である。流動性がなければ、株は売れないのだから。

だから、VCが流動性を批判するのは、タコが自分の足を食うようなものだ。

挙句には長期資金を提供する投資家だけの市場をつくれという主張が飛び出すが、ちょっとご都合主義に過ぎる。それではまるで、商品が売れないのは客が悪い、わが社のためにこういう客を用意しろと言っているようなもので、順序が逆だ。


VB自体やVBへの投資を前提としたVCが本当の意味でPatient Capitalを調達するにはどうすればよいか。これはなかなか難しい問題である。

我が国の政治家というのは何故こうもバカばっかりなのか

面白いものを見つけた。

民主党は何のために消費税を10%に引き上げるのか ~菅首相ブレーンの小野善康・大阪大学教授に聞く|辻広雅文 プリズム+one|ダイヤモンド・オンライン

菅首相のブレーン的な存在を務めるとされる小野善康大阪大学教授という方が、菅首相が力説する「第三の道」なるものを解説している記事。まあリンク先は何だかわけのわからない理屈がくどくどと書いてあって、わざわざ読んでいただくのも時間の無駄なので、とにかく下の図を見てほしい。



曰く、第一の道というのは「自民党が得意とした公共事業などを通じたばら撒き政策」で、第二の道というのは「規制緩和を通じて競争を促進し、生産性を向上させ、経済の体質を強化する小泉構造改革路線」を指すらしく、そして、第一の道及び第二の道がいずれもうまくいかなかったため、今般新たに第三の道を定めたのだと、どうもこういう話らしい。

菅首相は、首相就任前の昨年11月から「第三の道」なるものについて深く考慮中であられ、今般その努力がついに実を結んだ格好である。

時間の無駄

いち日本国民として、自国の進むべき方向性が明確に打ち出されることは実に喜ばしいことである。ただ、ちょっと待ってほしい。

よくよく見てみると、「第三の道」というのは増税によって得た歳入を医療・介護・環境などの分野に投じ、もって雇用を増加させるというものらしい。見事なまでに「第一の道」と同じ「道」である

確かに字面としては、「第一の道」において借金だった部分が、「第三の道」とやらでは増税になっているが、政府の借金というのはつまり将来の税金の前借りに過ぎないわけだから、そこにはいつ増税するかという時点の違いがあるだけで、根本的にはまったく一緒である。単に負担が増えすぎて将来にツケを回すのもそろそろつらくなってきたから、ここらで増税しますかということに過ぎない。

政府がカネを投じる先も、「第一の道」では公共事業と記し、「第三の道」においては医療・介護・環境分野など育成という記載の仕方に変えて違いを演出している風だが、政府が主導する事業なのだからどちらも公共事業に決まっている。公共事業の内容が、従来のインフラ設備投資から医療や介護などのサービスに移り変わっただけだ。

繰り返すが、ただの「第一の道」への回帰である。こんな小学生でも訝しがるであろう幼稚な詭弁に本気で心酔しているのであれば、半年近くに及ぶ管首相の深い考慮は、ただの時間の無駄だったと断ぜざるを得ない。

ただのバカ

挙句の果てには、同インタビュー記事の終盤においてこの変なオッサンは、インタビュアーからの、「違いは、道路建設などの公共事業ではなく、介護・医療・環境などの成長分野で政府事業を行うことか」という割と的を射た質問に対して、次のように答えている。

重要なのは、誰にも成長分野など分からない、ということだ。私にも、分からない。政府にも分からない。だから、どんな分野におカネを使ってほしいのか、政治家は国民に聞くことこそが大事だ。その多数決で判断すればいい。道路が必要だという人が多ければ、道路を作ればいい。それが、民主主義というものだ。菅首相は、それは介護分野だと判断したのだろう。

民主党は何のために消費税を10%に引き上げるのか ~菅首相ブレーンの小野善康・大阪大学教授に聞く|辻広雅文 プリズム+one|ダイヤモンド・オンライン

まったく答えになっていないところも強烈だが、成長分野は「多数決で判断すればいい」として、「それが、民主主義」とぶち上げた次のセンテンスで、「菅首相は、それは介護分野だと判断した」と数秒前までの自身の発言を一切無視して明後日の方向にかっ飛ばすセンスには脱帽せざるを得ない。「多数決」の「民主主義」は一体どこへ行ったのか

そもそも、医療や介護といった労働集約型の低付加価値産業のどこをどう見たら成長分野と映るのか、一度ちゃんと説明してみて欲しい。確かに爺婆はたくさんいるから需要が底堅いことは明らかだが、成長するかと言えば話は別である。実際、これだけ手厚い社会保障費を政府が負担しても、大半の病院や介護施設は赤字経営なのだ。こんな低付加価値産業に限りある資本を投下し続けたら、我が国は痩せていく一方だ。成長産業が何かというのは確かに難しい問いだが、どう考えても成長しないかしても限界があるという分野なら大体の見当はつく。

どうしてこうなった

前の首相も発言はぶれるわ、利害調整はまったくできないわで、かなりひどいものがあったが、今回の首相も相当キてると感じる。

何故こうも次から次へとバカが湧きでてくるのかと言えば、長きに渡った55年体制で培われた日本の政治システムにおいては、政治家の果たす役割というのは基本的に選挙の時に票を集め、政権の安定性を高めるというただ一点でしかなく、残りのすべての業務は我が国最大のシンクタンクたる霞ヶ関に丸投げすることで何とかまわっていたにもかかわらず、政治主導などと言ってその体制を崩してしまったから、政治家の無能が怒涛のごとく露呈しているということではないかと思われる。

要はメッキがはがれただけで、きちんとしたサポートしてくれる人(官僚)を持たない政治家というのは、おそらく大体こういう感じなのではないか。

ただ、必ずしも悲観すべきとは言い切れない。たまたま今日話題になったこちらこちらで論じられているように、この国は一度実質的に滅びないと「次」にいけないという可能性が高いから、現在のような惨状もきっとそのために必要なステップなのだろう。

日本のベンチャー企業を取り巻く環境があまりに悲惨すぎる件について

VC(ベンチャーキャピタル)を含む日本のVBベンチャービジネス)をめぐる環境はまだまだ未整備*1で、日本からGoogleやAmazonやAppleのような高い成長を実現するベンチャー企業が出て来ないことの一因となっている、なんてことは実によく言われることで耳にタコなわけだが、先般ふとしたきっかけで某ベンチャー企業の資金調達のアドバイザリーの仕事を引き受けさせていただいたので、実際にいろいろVCやらなにやら回ってみたところ、まったく虚しい回答ばかりで資金がさっぱり集まらないという実にお寒い状況に直面し、こんなことでは日本からGoogleやAmazonやAppleのような高い成長を実現するベンチャー企業が出て来ないよと強く思ったので、少し不満など整理しておく。

ファンドの満期

大概のVCは、ファンドを運用している。つまり年金やら生保やらといったところからカネを集め、ファンドを通じてVBに投資するわけだが、そのファンドには基本的に満期というものがある。満期(まで)にファンドの出資者に払戻しをしますよということだ。
で、ファンドの満期というのは、大体5年から8年くらいが多い。たった5年から8年だ。VBに投資をするにはあまりにも短すぎる期間で、そもそも創成期のVBに投資する気があるのか疑わしい。
こうしたVCの投資期間に無理矢理目線を合わせると、VBを営む企業の側も、必然的に設備投資が軽く、比較的早期に損益分岐を超えてくるようなビジネスに焦点を絞らざるを得ず、結果としてどうでもいい受託型のシステム開発企業と、CGMSNSと言えば聞こえはいいが単なる流行りものの二番煎じみたいなクソ企業が世に氾濫することになる。
このような惨状の一因は、間違いなく主だったVCの投資期間が一様に短いことによるものだろう。

また、VCはこうした資金の集め方をする限り、必然的に5年から8年おきに大型のファンドレイズを続けて行く格好になるが、ではそのタイミングでたまたま市況が悪く投資マインドが低迷しているとどうなるかというと、ファンドレイズが滞ることになる。
最近VCを回っていて頻繁に聞くのは、「現状で走っているファンドについては概ね組み入れが終わっている一方で、新しいファンドは予定が立っていないため、創業期の会社に投資できるエンティティが存在しておらず、結果としていま投資できるとすると上場を間近に控えたようなレイターステージの会社くらいだ」という、聞くも無惨語るも無惨な悲しい懐事情である。
そんな都合のいい投資先がそうそうあるはずもない(レイターステージの会社は一般的に資金に困窮していない)し、VCがそんな状況では、VCをあてにしたVBの創業は事実上不可能である。

イグジットはIPO

今でも多くのVCはVB投資における投資回収の基本路線として、IPOをあげる。IPOというのはつまり新規株式公開のことで、IPOで回収という場合、投資先が株式を公開した後に保有株式を株式市場で売却することを指す。
VCのスタンスは基本的にキャピタルゲイン(譲渡益)狙いだということだ。キャピタルゲインというのは確かに当たればデカい。VB投資であれば投資額が10倍程度になることはざらだし、100倍以上だって夢ではない。
ただし問題なのは、結局譲渡益というものは、譲渡の相手先がいなければ実現できないという点だろう。投資先の業績がいかに良くても、それを実際に高く評価し、かつそれを購入する資力のある相手がいない限りキャピタルゲインは実現し得ない。
要するにキャピタルゲインによるイグジットを前提に据えた投資は、投資先の事業リスクに加えて、イグジット時点のマーケットリスクをとっているということになる。ただでさえVB投資においては投資先の事業リスクが計り知れないほど大きいのに、その上マーケットリスクまで負っていては事業としてかなり厳しいだろう。
そもそも投資時において、投資先の事業内容の審査こそすれど、イグジット時点のマーケットリスクについてまで検討しているようなVCは、見たことも聞いたこともない。イグジットはIPOと公言しているにもかかわらずだ。
そして現実には、案の定、IPOの主戦場たる振興市場の市況に振り回されているわけである。VCが口を揃えて言うのは、「IPOの件数自体が激減*2しており、業績が厳しく、新規の投資はストップしている」ということだ。数ある投資先のうちには業績がいい先もあろうが、IPOマーケットが悪ければVCの業績にはまったく繋がらないわけだ。バカじゃないんだろうか。

金貸し気質

投資に際しての条件に担保提供や代表者による連帯保証を求めてくるVCは、一度自分たちのやっている事業がなんであったか、声に出して確認してみていただきたい。VCが銀行と同じスタンスをとったら、存在意義がないではないか。
連帯保証については、億単位の債務など個人が保証したところでどうせ返せるはずもなく、VCに言わせればおそらく「覚悟の問題(精神論)」なのだろうと思われ、まあそれはそれでそこまで強く否定するつもりもないが、担保となる資産を求める様には絶句せざるを得ない。担保となる資産がないからこそ高い資本コストを払って資本調達をするんであって、担保があるのであれば銀行から調達するだろう常識的に考えて。
そうしたスタンスであるからその営業もまったく銀行のようで、要はカネなどいらないような優良先に、何とかカネを入れさせてくださいと頼むというものだ。
確かに、カネを欲しがっている先にカネを渡すと使ってしまうから、回収できなくなるリスクが高いが、カネが余っている先であればそういった心配はない。自分で言っていてもバカバカしくなるほど当たり前の話だけれど、それはそうだ。しかしそれは世の中の役にも何にも立たないまったく無駄な事業である。

ハンズオン(笑)

ことほどさようにVBにとって当てにもならなければ頼りにもならないVCが、自分達が投資先に対して提供する価値として何とかの一つ覚えのように得意げに吹聴しているものが、ハンズオン投資である。
単に資金を提供するだけに留まらず、管理系役職員の派遣や投資先企業同士のアライアンス斡旋など積極的に経営の支援を行い、リソースが不足しがちなVBを全面的にサポートします(キリッ)」みたいな金看板がそれだ。
で、実際になにをするかと言えば、「我々は事業のことは素人なので」などと逃げを打ちつつ、雑談に毛が生えたような思い付きを垂れ流す程度のものである。
本質的に金融の会社であるにもかかわらず、何故か事業面でのサポートで付加価値を出そうという姿勢がそもそも歪で、カネのいらない先に無理矢理投資するための口上にすぎないことは火を見るより明らかである。

結論に代えて

要するに、既存のVC*3のビジネスデザインは、背後にいる投資家の都合だけでつくられていると断ぜざるを得ない。

結局、投資家が投資しやすいようにファンドの満期を可能な限り短く設定するものだから、短い期間で何とか投資を回収するためにキャピタルゲインに頼らざるを得ず、おかげで余計なマーケットリスクを背負っているがために損失には不寛容で金貸し気質によらざるを得ない。挙句にハンズオン投資などという絵空事を掲げて、カネのいらないような先に無理矢理投資する傍、投資家に対してはさも自分達がサポートすることでVB投資が成功する確率を上げることが出来るかのような顔をするわけである。

VCも、当然だが、本質的には金融業なのだから、その商品はカネである。であれば、投資家というのは仕入れ先であり、投資先こそが顧客に他ならない。確かにカネの需給を考えると仕入れがボトルネックになることは明らかだから、仕入れを中心に据えたビジネスモデルを構築することはある意味で理に適っていると言えるかもしれない。しかし、顧客に対して提供する価値を増大させずに、ビジネスを成功に導くことは不可能であることもまた真実と言えるのではあるまいか。

VCが提供出来る価値とはなにかと言えば、それはつまり顧客がVCに求めているものであって、要するに超長期性資金の提供以外の何ものでもない。

本来、この超長期性資金の提供こそが、VCのビジネスをデザインするうえで中心に来なければならないものである。安定した資本を得れればこそ、優秀な企業経営者がVBに専念できるのだ。

顧客との長期的な関係を念頭に置けば、投資から数年で無理なキャピタルゲインを狙う必要もなくなる。ゆっくり配当で回収して行けばよいのだ。予期せずにキャピタルゲインを得る機会もあろうが、それはそれで臨時収入として歓迎すればよい。無理なキャピタルゲイン狙いの投資さえやめれば、過剰なマーケットリスクに頭を悩ませるようなこともなくなり、VC自体の収益も安定したものになるだろう。

問題は、逆に、VCがそのような長期性資金をいかに調達すべきかということになろうが、これについては、投資家が急に資金を回収したくなったときのためにファンドの出資持分に流動性を持たせる*4か、ファンドに余剰な資金をプールしておくか、もしくはそもそも超長期の投資に耐えうるようなゆとりある投資家だけを相手にすることなどが考えられる。

追記(7/9)

当方、カネが集まらなさ過ぎてイライラしている面もあり、少し批判が行き過ぎているところや、誤解している点もあるやに知れず、そういう意味でコメント欄の一番上の人によるご指摘などはあわせて読んでいただいた方がよいかも。

*1:おそらくシリコンバレーなんかと比べて

*2:2006年には200件近くあったIPOだが、2009年はまさかの19件だった。

*3:日本の、とは言わない。海外の状況はあまり知らないから。

*4:出資持分の上場など。

「日本企業」がこの先生きのこるには?

経済のグローバル化が進むから、国際競争力を持たない「日本企業」はこの先生きのこれない、とはもうずいぶん前からよく言われるところである。

そんな折、楽天に続きユニクロが社内公用語の英語化を発表したことで、「日本企業」がこの先生きのこる道みたいなものに関する議論は一層白熱している感があるが、どうもピンと来ないのが、一方ではグローバル経済を想定しつつ、もう一方で「日本企業」なるものの将来に思いを馳せることのアンバランスさである。

思うに、経済がグローバル化するということは、乱暴に言えば経済活動に際して国境や地理的な障害を意識する必要がなくなることに他ならないから、もしそうした状況が自明的に訪れるとすれば、そのことはまさに「日本企業」などという括りがなんの意味も持たなくなることを直接的に意味するわけであって、「グローバル経済下における日本企業の行く末」という問い立ては基本的に無意味というか、「そういったものはなくなる」ということでしかないはずである。

大体、「日本企業」とは言うけれどそれは一体何なのというのもあって、ではユニクロが社内公用語の英語化を果たしたとしてそれは果たして「日本企業」と呼べるのだろうか?ソニーは代表者も外国人で株主も大部分が外国人だけれど「日本企業」なのか?はてなキーワードには、「日本企業」とは日本国内で登記されている企業であるみたいなバカなことが書いてあるけれど、では日本オラクル株式会社やゴールドマンサックス証券株式会社が「日本企業」かと言えば、首をかしげる人の方が多いだろう。

従来、社内の言語や代表者や役員の国籍並びに株主の属性などは、その企業が「日本企業」であるかどうかを判別する重要な要素であったはずであるが、いまやそういったものはあまり意味を為していない。経済がグローバル化して行けば、「日本企業」的な要素が薄れていくことはあまりにもアタリマエのことである。

消費者や労働者として「日本企業」という括りの有用性を考えても、ある企業が日本国内で従業員を雇用し、製品やサービスを提供している限りにおいて、それが「日本企業」だろうが「外国企業」だろうがなんの関係もないし、政府としても、「外国企業」だろうが何だろうが国内に事業所を構えて国内で事業を営んでいる限りは、原則として当該事業から生じる所得に対しては課税できるわけだから、大きな問題ではないだろう。

投資家としては、通常外国企業の日本法人は日本で上場したりしないから、「日本企業」がなくなって「外国企業」だらけになると一見投資機会の逸失になるようにも思えるが、よく考えると別に外国株投資をすればよいだけの話である。国内にカネをだぶつかせ、仕方なしにわけのわからないクソ会社で仕手まがいの日計り取引をしている暇があったら、外国の有望企業にジャパン・マネーを突っ込んでいく方が総体としてもよほど建設的である。


結局、「日本企業」なる括りが有効に存続している根拠は、我々自身のナショナリズム以外には考えられない。ガンバレニッポンである。

ただ私は決して、「日本企業」なる曖昧模糊な概念にしがみ付く軽薄なナショナリスト(笑)をDISりたいわけではない。私が言いたいのは、逆に、ナショナリズムというのはそう易々となくなったりするものではないだろうなということである。当然のことだが、程度の差こそあれ、日本人ならほとんどの人が日本という国に対して帰属意識を持っている。それがまったくなくなったらそれは日本という国がなくなることになるのだろうから、やはりきっとほとんどの人が帰属意識を持っているということなのだろう。それは今までもそうだったし、これからもそうだろう。

つまりどういうことかと言うと、ナショナリズムがなくならないのであれば、ナショナリズムに基づく「日本企業」という概念もまた、なくならないのだろうということだ。

そして、上述したように経済がグローバル化したら「日本企業」は必然的になくなるにもかかわらず、「日本企業」はなくならないということは、つまり、経済は完全にはグローバル化しないということに他ならない。


経済がグローバル化するから、「日本企業」の存続が危ぶまれるわけではないのだ。我々が望めば、または望むから、それは存続するのである。まさに楽天の三木谷氏が自らの望むところによって「日本企業」であることをやめたように。

経済や商慣習などが自律的にそのあり方を変異させ、我々の行動や思考を制限するのではなくて、我々が思考し行動した結果が経済や商慣習なんである。少なくともそうあるべきである。と思った。

アップルとマイクロソフトのビジネスモデルの違いについて

アップルの時価総額マイクロソフトのそれを抜き、世界で2番目となった*1。数年前の状況からすれば、俄かには信じ難いほどの快挙だと言える。

こうした事実を受け、コンピューター業界における新しい時代の幕開けを宣言するような論調は枚挙に暇がないが、アップルとマイクロソフトは、いまやビジネスモデルも事業領域もまったく異なる会社であり、アップルの台頭をもって、それ即ちマイクロソフトの失墜を断じることはできないし、何よりそうした文脈ではアップルのビジネスモデルを正確に理解することは難しいように思われる。

アップルとマイクロソフトのジネスモデルや事業領域が異なるものであることを表す非常にシンプルな事実は、下のグラフを見てわかるとおり、アップルの台頭によってマイクロソフトの利益はまったく脅かされていないということだ。

確かにアップルの利益は劇的に伸長しており、この勢いであればマイクロソフトの利益を上回ることも時間の問題かに思える。ただし、事実としてマイクロソフトの利益は減少する傾向にないし、現時点においてはアップルよりもはるかに大きい。

製品戦略上の相違点

アップルとマイクロソフトの違いは、端的にマーケティング戦略に表れている。

マイクロソフトは、自社製品を世の中のスタンダードたらしめることに対して全ての戦略を最適化している。そして、マイクロソフトの主力製品であるWindowsをOSのスタンダードとして揺るぎない地位に至らしめたのは、プラットフォーム利用者の利益調整に他ならない。プラットフォームがスタンダードたり得るためには、万人に対してオープンであり、また特定の固定的な価値観から自由である必要がある。

一方のアップルであるが、iPhoneiPadを見ればわかる通り、その開発環境や利用環境は極めてクローズドなものであり、開発者や利用者に対して高い利便性を提供するものとは言えない。例えば開発者として、アップルがNOと言えば即座に流通がストップするようなプラットフォームに自身の命運を託すような資本投下はできない。

NewsWeekに、アップルとマイクロソフトの違いをカトリックとプロテスタントに例えた記事が掲載されている*2。曰く、「マイクロソフトのパソコン用OS(基本ソフト)MS-DOSを基にしたオープンな世界では、「救済」に至る道も百人百様。だが、唯一の正統な教会たるアップルのマックOSの世界では、「信者は何から何まで教会の指示に従わなければならない」」と。これは実に的を射た例えである。そしてこうした論調は特段珍しいものではなくて、日経ビジネスでも同種の記事が掲載されていたことがあった*3

こうした記事は、アップルの製品が業界のスタンダードになることはないということを予言している。しかし、スタンダードになるということは、会社が高い収益を上げるための唯一の方法ではない。マイクロソフトのビジネスモデルの根幹がデファクト・スタンダードとなることだとしたら、アップルのそれはブロックバスター(圧倒的な大ヒット製品)を生み出すことだろう。

iPodを思い出して欲しい。アップルがあの大きくて重たいmp3プレイヤーを大ヒットさせることができたのは、ユーザーの優先度を的確に把握した製品コンセプトや洗練されたデザインもさることながら、プロモーション戦略によるところが極めて大きい。

大ヒット製品を生み出すためには、製品がいかに高品質でユーザーの需要を満たすものであったとしても、それだけでは足りない。プロモーションと流通における効果的な戦略が不可欠である。

ダンコーガイ氏が言うように*4、アップルのプロモーションは神がかっている。アップルはいま、新しい製品を出すたびに、イチイチ発表を匂わせ、もったいつけ、ジョブズ入魂のプレゼンテーションで大々的に発表し、熱が冷めないうちに即座に世界中に流通させている。そしてそのすべての過程を、アップルは完全にコントロールしている*5。これぞ言わば、大ヒット製品を生み出すための方程式である。

高収益の源泉

ところで、マイクロソフトにしろアップルにしろ、その利益の大半は純粋な製品販売以外から上がっている。

マイクロソフトのWindowsやOfficeのように、デファクト・スタンダードとなった製品は莫大な利益を生む。顧客は他社の製品に切り替える際のコストを忌避するため、顧客流出は最小限になるから、結果として広告宣伝費を大幅に削減することができるし、何よりアップデートやサポート、ライセンスなどの原価率が極めて小さいサービスを有利に販売することが可能となる。

対するアップルは、繰り返しになるが、デファクト・スタンダードを目指すビジネスモデルではない。アップルのインターフェース・デザイン乃至自社ブランドに対する強い拘りは、プラットフォームを完全にオープンにすることと完全に相反している。自社のプラットフォーム上をダサいコンテンツや下品なコンテンツが流通することを、ジョブズは決して許容しないだろう。

では、アップルの偉大な収益はどういったビジネスモデルによるものか。それは、ひとことで言えばブロックバスター製品を基盤とした事業領域の拡大によるものである。もともとコンピューターメーカーだったアップルは、いまや楽曲の販売や通信料(キャリアからの上納金)で多額の収益を計上している。

アップルはまず、その素晴らしい製品コンセプトと適切なプロモーション戦略により、iPodという製品を大ヒットさせた。iPodiTunesがインストールされたPCなしには作動せず、メインPCのサテライト的な端末だった。そしてiTunesでは、楽曲コンテンツのダウンロード販売が展開された。iPodの好調とともに、iTunesMusicStoreはシェアを拡大し、ついにはトップシェアを獲得するに至った*6

次にアップルは、iPodに音声通話とインターネットブラウザ、アプリケーションのプラットフォームを付加し、iPhoneを販売した。iPhoneの販売に際して、アップルはiPodにおける輝かしい実績を盾に通信キャリアとの交渉を有利に進め、従来通信キャリアが得ていた利益の一部を収奪することに成功した*7。事実上、アップルは通信料ビジネスにも参入した*8

そしていま、アップルはiPadを携え、電子書籍ビジネスへの参入に意欲を見せている。

アップルとディズニー

こう考えると、アップルのビジネスモデルは、むしろディズニーに酷似していることがわかる。

ディズニーのビジネスモデルの根幹は、自社のキャラクターをさまざまなチャネルで流通させ、広範な事業領域において価値を獲得する点にある。ミッキーマウスからバズ・ライトイヤーまで、ディズニーは自社が生み出した大ヒット映画のキャラクターを、小売店(ディズニー・ストア)、ビデオ、テレビネットワーク、出版、テーマパーク、ホテルやレストランなど、実にさまざまな領域で流通させ、そのチャネルをコントロールすることによって大きな価値を得ている。

アップルが事業領域拡大の基盤としたものは、iPodの製品コンセプトであると考えられる。それは次のようなものだ。

ジョブズとその側近たちは「汎用コンピュータを使う時代から、コンピュータを応用して特定の目的に使う専用機が主流になっていく」と読み、現在へと続く製品企画の基本的なポリシーになっているという。

本田雅一の「週刊モバイル通信」

専用機化である。その背後にあるのはもちろん、ユーザーの多様化だ。アップルは、この大成功を収めた製品コンセプトを、上述したように様々な事業領域において展開しているのである。

両社は、(それぞれの事業領域における)競合他社との差別化の要因を主としてブランドに依存するところまで含めて、よく似ている。

アップルの今後

マイクロソフトの利益がまったく減少していないことからもわかるように、優れたビジネスモデルは長期間に渡って会社に利益をとどまらせるものである。

今まで見てきたとおり、アップルのビジネスモデルは実に素晴らしく、他社には見られないものである。SONYは確かに様々な専用機を販売しているしコンテンツ事業にも注力しているが、ブロックバスターを生み出すためには製品が多すぎる。新製品開発のためのコストが高くて固定的であり、開発後の生産にかかる限界コストが低い場合、多数の製品で平均的なポジションを維持するよりは、少数の製品で卓越したリーダーとなることが望ましい。

いま、アップルのライバル企業といえるような会社は、ない*9。少なくとも、明確なライバル企業が台頭してくるまでは、アップルの覇権が続くことは間違いないのではないだろうか。

*1:[http://mainichi.jp/select/biz/news/20100527dde001020011000c.html:title]

*2:[http://newsweekjapan.jp/stories/business/2010/06/ipad-4.php:title]

*3:[http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20100608/214828/:title]

*4:[http://agora-web.jp/archives/1031147.html:title]

*5:一応言っておくけど、言うほど簡単なことではない

*6:[http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20080411/298739/:title]

*7:[http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20100604/348849/:title]

*8:形式上は通信キャリアからの販売奨励金。

*9:当然個別の事業領域における個別の製品に対しては競合が存在しているが。

親デビュー

タイトルは、ついに人の親になりましたヤッターということではなくて、親になって突然振る舞いが積極的になる現象に名前をつけたものであり、要は高校デビューや大学デビューをもじった造語である。

親になるというのは結構特殊な経験で、それまでの価値観を一変させるだけのインパクトがある。命の連鎖というストーリーは実に壮大だし、なにより赤ん坊というのは手のかかり方が半端じゃなく、生活を変えざるを得ないという事情もある。

こうした外部環境をまるで手玉に取るがごとく、こどもができるや否や子煩悩キャラに徹し、親という職位に光の速さで自己を同一化させる人が、親デビュー組である。

それはまるで、中学のときに冴えなかったのに、高校に入った途端金髪になって、ちょい悪キャラに華麗な転身を遂げる人のようだ。

こどもの口を借りて他人に話しかける、即ち誰がどう考えても親の意思であるのに、いちいち語尾に「〜って(言いなさい)。」をつけ、こどもに対して発話を促す形式をとるタイプや、子持ちが相手だと途端になれなれしくなる(普段は無口)タイプの人は、大抵親デビューとみて間違いない。

高校デビューや大学デビュー同様、誰に迷惑をかけているわけではないので、別に何か問題があるというわけではないが、ちょっと前までの自分はどこ行ってしもうたんや、と周囲の人からこっそり突っ込まれることは避けられない。


ちなみに、私は親になってもう5年にもなるわけだが、未だに親キャラに完全に馴染めず、それはそれで問題のような気もする。