ライブドア事件とは何だったか

私はライブドアという会社が好きだったし、今もそれに変わりはない。

しかしだからといって、必要以上に擁護したいとは思わないし、むしろおかしな陰謀論として「ライブドア事件」が語られることは、全体像がぼやけてしまうから、あまり好ましくないと思う。きちんと事実は事実として整理されるべきだ。


ライブドアは有罪か無罪かで言えば間違いなく有罪だ。一方で、刑罰の妥当性という意味では若干過剰だ。

過剰となった原因は、ホリエさんがしらを切りとおしたためというのがひとつで、もうひとつは「世論」ではないか。

ライブドア事件とは、「世論」が新自由主義的経済を否定する、ひとつの契機だった。


世の中には、ライブドアホリエモンは何も悪くない、運が悪かっただけだ、目立ちすぎただけだと嘯くバカシンパが多いようだが、ライブドアホリエモンの何が悪かったかはきちんと法律に書いてある。最も代表的なもので、今回の損害賠償支払いの原因となったのも、この条文であるはずだ。

第二十五条第一項各号(第五号及び第九号を除く。)に掲げる書類(以下この条において「書類」という。)のうちに、重要な事項について虚偽の記載があり、又は記載すべき重要な事項若しくは誤解を生じさせないために必要な重要な事実の記載が欠けているときは、当該書類の提出者は、当該書類が同項の規定により公衆の縦覧に供されている間に当該書類(同項第十二号に掲げる書類を除く。)の提出者又は当該書類(同号に掲げる書類に限る。)の提出者を親会社等(第二十四条の七第一項に規定する親会社等をいう。)とする者が発行者である有価証券を募集又は売出しによらないで取得した者に対し、第十九条第一項の規定の例により算出した額を超えない限度において、記載が虚偽であり、又は欠けていること(以下この条において「虚偽記載等」という。)により生じた損害を賠償する責めに任ずる。ただし、当該有価証券を取得した者がその取得の際虚偽記載等を知つていたときは、この限りでない。

金融商品取引法

「第二十五条第一項各号(第五号及び第九号を除く。)に掲げる書類」というのはつまり、有価証券報告書や有価証券届出書などの、要するに株主に対して会社の状況等を開示する書類のことを指す。そうした書類の内容に虚偽の記載があった場合は、当該虚偽記載によって株主が被った損害を賠償しろという内容である。

以前にも書いたが、「株式交換を利用した自社株売却益の還流」こそ解釈の問題を挟む余地があるものの、「後の子会社からの架空発注」について、議論の余地はあまりない。

架空発注で得た利益を上述したような書類に記載して株主に開示したのであれば、罪を問われて当然ではなかろうか。


そうしてライブドアは、当該虚偽記載が明るみに出たことによって生じた一般株主等の損害を賠償するに至った。そしてそれは会社にとって当然損害である。会社に損害を生じせしめた旧経営陣に対し、訴訟で責任を追及するのは現経営陣にとってのいわば義務である。

当然、株主らに生じた損害のうち、どこまでが「虚偽記載等により生じた」損害なのかについては議論の余地はある。東京地検特捜部による強制捜査という発覚の仕方でなければ、あそこまで株価は下がっただろうか?

だが、そうした議論というのはいわば程度の問題なのであって、イチかゼロかという類の議論ではない。つまり無罪という選択肢は、もともとない。

結果、東京地裁の判決は「堀江氏らの逮捕や上場廃止などの虚偽記載以外の理由を差し引き、(株主による訴えを)約7割減額」するものであった。こうした判決の妥当性についても当然議論はあることと思うが、個人的にはそこそこ妥当な線ではないかと考えてはいる。


私が過剰だと思うのは、ライブドア事件において、5人もの逮捕者が出たことに他ならない。東証による粉飾決算ごときでの上場廃止という措置を過剰と見る向きもあろうが、東証の判断は逮捕者が出たことに基づくものであって、多くの逮捕者が出たことこそが根本的な原因である。

逮捕者が多数にのぼった原因のひとつは、ホリエさんにあると私は思う。ホリエさんが強情に罪を認めないものだから、検察も周辺の幹部を逮捕することでホリエさんにプレッシャーを与えつつ、周辺情報を収集する必要が生じたことは明らかである。検察としても大いに注目を浴びた、自身の威信がかかったといえる捜査であったわけだから、必死だったのだろう。

同時期に逮捕に至った村上ファンドの村上さんなどと比べても、ホリエさんの強情さは群を抜いているといえる。良い悪いは別にして、普通の経営者は部下の逮捕をちらつかせられたら、自分が責任をかぶろうとするものである。ホリエさんにはそういう思考回路はまったくないようだ。

勘違いして欲しくないが、私はホリエさんを批判したいわけではない。そういうところがあの方の持ち味なのだと思っている。ただ、事実としてあそこまで事が大きくなったことには、そういう事情もあるのではないかと考えている。


しかしそもそも何故、ライブドア事件は東京地検特捜部による強制捜査という方法によって明るみに出る必要があったのか。取引所や金融庁などの監督庁からの勧告などのかたちでも十分だったのではないか。

そうした通常の枠組みの中で、あのライブドアという会社の「悪行」を明るみに出させ、更正させることは決して不可能ではなかったはずである。

東京地検特捜部による強制捜査などという大袈裟な方法を取ったからこその株価の暴落であるし、検察の威信をかけた逮捕劇であるし、取引所の上場廃止であり、結果としてライブドアという会社の解体ではなかろうか。

東京地検特捜部を動かしたものは何か。特定の政治家や特定の利権ではないだろう。今日び、そこまでの絶大な権力を持つような人物・団体は日本には存在しないだろう。


強いて言えば「世論」ではないかと私は思う。当時のホリエさんは時代の寵児ともてはやされ、小泉政権がかかげる新自由主義のマスコットとして機能していた。落選はしたものの、自民党の推薦で立候補も果たした。

私の認識では、世の中で急激に「格差」の問題が取り上げられ始めたのは、ホリエさんの逮捕後くらいからであったように思う。

小泉政権による改革は、確かに大きく株価を押し上げたが、世の中に格差をもたらした。というか、貧しいものには何も与えなかった。世の中が良くなればいつかはあなたの暮らしも良くなるはずだと我慢だけを強要した。

こうした状況に対する反発を、新自由主義のマスコットは一身に浴びたのかもしれない。社会正義を標榜する検察が、そうした世論の声に敏感に反応したと考えることに強い不自然さは感じない。

日米同盟は危機的な状況なのか?

米国側から見た現在の日本政府は、「困惑」の対象から「不信」の対象へと、次第に変わりつつあ」り、「現在の日米関係は、本当に「瀬戸際」にあるように思え」る人がいるようだ。

その根拠は要するに、「日本が将来米国に求めるかもしれない協力の「死活的な緊急度」は、どう見ても、米国が日本に求める協力の「死活的緊急度」より、はるかに大きい」ことなのだそうだが、日本がどれだけ米国債を保有しているのか知らないのだろうか。

米国は今般の金融危機に端を発する景気悪化に対峙するにあたり、未曾有の流動性供給と財政出動を行っている真っ最中なのであって、周知の通り「2009会計年度(2008年10月〜2009年9月)における正味の米国債発行額は1兆7900億ドルに達し、2010会計年度は約1兆4000億ドルに達すると予想されている」。

昨年の暮れくらいに中国に抜かれてしまったものの、日本は世界2位の米国債の保有国である。

普通に考えて、米国にとっての心配は、米国債の大量発行に伴う需給悪化懸念から長期金利が上昇し、ようやく下げ止まりの兆しが見えて来た米経済の足を引っ張ることだろう。

鳩山民主党が何を勘違いしたか突然米国債を売り始めでもしたら*1、米経済は一大事なのであって、「死活的緊急度」が非常に高いというかむしろ、そもそも日本に対してタメ口をきける立場ではない。


大体、「仮に中国が東アジア一帯を自らの勢力圏に入れようとしたとしても、軍事衝突をしてまでもそれを阻止するインセンティブを、米国は最早持ってはいない」などということがあるはずがない。

アメリカが中国の台頭を指をくわえて見ているだろうか?世界の覇権国家たる地位を安々と譲り渡すようなことがあるだろうか?そんなわけない。

アメリカがこれからも世界の覇権を維持しようと思えば、今後世界経済のけん引役になる可能性が高いアジアにおける戦略は、極めて重要なのであって、これもまさに「死活的緊急度」の高い問題だ。日本と中国がくっついたら、軍事力、経済力などで出し抜かれるかもしれないくらいの危機感があって然るべきである。


アメリカが日本を蔑ろにすることは考えづらいし、日本として中国との関係を(米中関係よりもさらに)良好に維持することも、米国をけん制するうえでも極めて重要である。

ただ、確かに中国に軍事的に支配される脅威はやはりあるので、アメリカとの国防上の同盟は死守すべきだろうとは思うから、日本から米軍を追い出そうみたいなノリは、いまいち意味が不明ではある。

*1:ありそうで怖い

「最近の若者」がダメな理由

「最近の若者」というのは、概ねその時代の10代から20代を指すもので、その「最近の若者」は、常にうえの世代からの批判に晒される。これは何故だろうか。

それは、うえの世代のときよりも一層発達した社会が、「最近の若者」の幼児性を肯定するからである。

然るに、「最近の若者」がダメだから、将来の日本(社会)が危ぶまれるという論調はまったく逆で、正しくは、日本(社会)が十分に発達したから、「最近の若者」はダメでも良くなったのである。

およそ人間というものは、他の動物のように環境に適合するかたちで進化するのではなくて、自らにとって適した環境を自らが構築することで進化を遂げてきた。

動物にとっての環境は、人間にとっては社会である。社会は人間に規範を与えるが、社会の発達に伴って与えられる規範は寛容なものになる。

旧い社会における規範は、社会が未発達であるが故に人間に多くの制約を課す。我々は、そうした規範が与えられると、腹に落として普遍性を持たせ、常識とか真理とかだと思い込んでしまう。そして、一度思い込んでしまうとそれをやすやすと捨て去ることは難しい。

こうしてうえの世代は、自らにとっての真理であるところの旧い社会規範に照らして「最近の若者」を見ることになる。ところが、「最近の若者」が感じる社会規範はもっと寛容なものだから、そこにはギャップが生じる。

これが、「最近の若者」が常にダメな理由であると思う。

本当に大事なことは教えてくれない

中学生時代、私は比較的勉強が得意なほうで、そこそこ成績は良かった。ところが、一度だけ国語の論説文読解の問題で文意をまったく理解ができないことがあった。あまりそういう経験をしたことがなかったので、よく覚えている。河合塾の模試だった。

その論説文は、「壁を設けること」という観点から日本の文化を論じる内容で、対人関係や住居におけるさまざまな「壁」に関していくつか具体的な事例が展開された後、結論へと続く運びであった。ところが、その結論が当時の私にはまったく理解のできないものだった。その結論とは、「壁」を作らないことは失礼なのだという趣旨のものだった。

当時の私の認識はまったく逆で、「壁」をつくらず、開けっぴろげで、気さくな様こそが良いものとばかり思っていたから、自分の認識とはまったく逆の結論をうまく理解することができず、試験の結果としては実に芳しくないものとなったのだった。


そんなことを最近急に思い出した。

きっかけは、自宅の近所に最近建った一軒家である。その家は、比較的大きな通りに面して建っているのだけれども、通り側が全面窓になっており、家の中が見事に丸見えな造りになっている。

実際に「壁」を設けない住居を目の前にして思ったのは、実に迷惑だということであった。赤の他人に自分のプライベートな空間を覗き込まれては誰だっていい気分はしないだろうから、なるべくそちらに目をやらないようにするのだが、見事に丸見えな造りなものだから、どうしたって目に入ってしまう。

若干趣意は異なるが、公然猥褻などに通じるものを感じた。大事なものや部位は、他人が気をつかわなくとも済むように、本人が責任を持って隠すべきである。こんなことが中学生だったとはいえ、何故わからなかったのか不思議なくらいだ。


そもそも礼儀という言葉は、まんま「壁」の意味かもしれない。礼儀を忘れるなという戒めは、しばしば本音をそのままに語らずにオブラートに包めという意味を持つ。

まさにそういった慣わしは、我々の文化に根付いたものだと今になれば思うが、こういう慣わしの難しいところは、そういう慣わしがあること自体が隠されることだ。

中学性の私がうえで紹介した論節分の文意をとり損ねたのも、素直が一番などと平気な顔で言う大人が絶えないからだと思う。

まさに、本当に大事なことの周囲には「壁」を設け、安々と人には語らないわけである。