状況は創れる

さっき、駅での話。
駅のホームにウンコ座りしてケータイの操作に没頭するスカート姿の女性がいた。
無論、パンツ丸見えである。


男性諸氏においては、もはや論を待たないことであると思われるが、女性の下着というのは、チラリズムとともにあるからこそ価値を持つのであって、特にそういう公共の場においては、前出の例のようにあまりにあけっぴろげにされると価値を感じないというか、むしろ有害でさえある。また、例えば階段で先を行く女性に、ブルマやスパッツなど”見せパン”を見せ付けられ、納得のいかない思いをした経験は誰にでもあるように思う。期待したチラリズムの可能性を根本から否定されるわけであって、悔しくないはずがない。階段に上る前から”よもや”を期待していたとしたらなおさらである。
見えそうで見えないからこそ欲求を駆り立てられるのであって、それは単にパンツを見るということが目的なのではなく、知的(?)好奇心を刺激される感覚そのものが目的なのだ。
なお、万が一この文章を見ている女性の方がいらしたら誤解のないように言っておきたいのが、私が変態なのではなく男というのは総じてそういうものなのだということ。くれぐれも誤解なきよう。


さて、そういうことで、上記の状況は私にとって当然に落胆をもって迎えられたわけであるが、そこで私は、自身の本能的な対応を客観的に把握することに成功した。
即ち、私の本能は直感的に、その女性を直視してはならないものとして位置づけ、そのうえで限りなく限定された視野の中でその状況をチラ見したのだ。これがなにを意味するかということは既に明らかであると思うが、私はまさに、恣意的にチラリズムの状況をつくりだしたといえる。チラリズムという価値を創出したわけだ。


チラリズムという価値は一般的に、受動的な価値と考えられている。相手の女性のふとした仕草にすべては委ねられていて、それを手にするのは幸運のみがなせる業だと信じられている。しかし、その定説が必ずしも真実ではないことを私は今日証明したことになる


確かに、上述した価値の創出でさえ、ホームでウンコ座りする女性に遭遇するという、おそらくはチラリズムそのものよりもさらに、類まれなる外的要因に立脚していることは否定のしようがなく、その意味では私が創出した価値自体も本質的には受動的なものであるといえるかもしれない。しかしながらやはり、それを直視した場合単に有害であるべきものが、能動的なバイアスによって価値を持ち得るという事実は、なお重要であると考える。


状況とは、一見それが不幸を運ぶものであっても、個々人の捉え方によっては、幸運を運ぶものになり得る。状況は想像力を持ってすれば主体的に創造できるのである。


もしもあなたが望むならば、目の前の露出狂に対してでさえチラリズムを感じることは可能なのだ


※追記08/06/26
とか何とか言ってたら、わけのわからない掲示板にて、04年11月02日の段階で、既に能動的チラリズムの概念を提唱している御仁を見つけた。実に世界は広いものである。
http://f11.aaa.livedoor.jp/~ashou/log/kms26.htm