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ニワカの見たJリーグ その展望と2ステージ制について

生活

過日私は、当ブログにおいて、これからサッカーのニワカファンになろうとする、いわばプレニワカの立場として、ニワカファンへの正しいアプローチとは一体どのようにあるべきなのか、広く教えを乞うた。

詳しくはリンク先をご覧いただければと思うが、プレニワカとして長らくニワカを眺めてきたものとして、海外厨に代表されるような痛いニワカにはなりたくなかったのである。

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場末のダイエット論 精神編

生活

ずいぶん久しぶりの更新になってしまった。夏になると更新が途絶えるのはいつものことだが、今年は途絶える時期がいつもより少しはやめだったように思う。いつもよりはやめに途絶えました、というのもいいんだか悪いんだかよくわからないが。

更新が途絶えたのはおそらくサッカーを観る時間を増やしたせいだが、その話はまた今度にして、今日はダイエットの話を書きたいと思っている。

理由は、正直に言おう。痩せてきたからだ。私が。

ダイエットの甲斐あって少し痩せてきたものだから、ウンチクニュアンス込みの経験談を、場末のダイエット論を、誰彼かまわずに語って回りたいというわけだ。実際、最近の私は完全に「痩せたね」待ちである。もう、待ちガイル状態。ひとたび「痩せたね」が来たら間髪いれずにサマーソルトキック。これ。空中ガードは、なしの方向で。

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アブラハムグループは、いつかはゆかすのか

ビジネス

タイトルに深い意味はないが、「いつかはゆかし」ですっかり有名になった、近頃話題のアブラハムグループ・ホールディングス株式会社及びその関連会社(以下単に「アブラハム」という。)についてである。

アブラハムとは何か。今日はそのあたりを考えていきたい。

理由は、特にない。

近頃話題だから?

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サッカーを観たいんだがニワカにとって安全な入口がどこにあるのかよくわからない

生活

最近、なんかサッカー観たいなって、思うのである。

もともと、決して嫌いではない。

何を隠そう中学時代はサッカー部なのだ。

ただ、その当時サッカー部に出入りしていたコーチ、今思えば単なる近所の暇な大学生だと思うのだが、そいつに意味もなくさんざん走らされた挙句「遊びでやりたい奴はやめろ」などとわけのわからないことを言われた私は、自分とサッカーの関係性を完全に見失い、そそくさと部を退いた。それ以来、なるべくボールには触れないようにして生きてきたのである。

観戦する方についても、専らアジアカップの決勝とか、オリンピックの最終予選とか、要するにそういう本質的にサッカー関係なく盛り上がるイベントに末席で参加するくらい。まあだからつまり、「決して嫌いではない」というレベルだったのだ。

それが今になって一体どうしたのかと言う話だが、これがまた、日本の若い選手たちが頑張っているのが、純粋に嬉しいのである。

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単なる詰まったトイレの修理で30万円近くを支払わされそうになった件について

生活

秒速で1億円稼ぐ条件いや最近、ネットで与沢翼という名前をよく見る気がして、おや誰かな、non-noの専属モデルかなと、なんとなく気になっていたところ、この間暇な時間にそれを思い出したので、ちょっとググって見てしまったわけである。

すると、これがどうやら「秒速で1億円稼ぐ」という大した俗物だったわけだ。

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都心住まいの価値とは何か

生活

みなさんご存知の通り、都心の地代は高い。実に。

しかし果たして本当にそれだけの価値があるものなのか、都心住まいというものは、という話である。今日はそのあたりについて考えてみたい。

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ブログに何を書くべきか

雑談

毎年のことながら、気づけば年末になっている。

なぜ別に気を失っていたわけでもなく、毎日普通に生活していたはずなのに、ふと気が付くと年末になっているものかと考えたが、たぶん、夏が長過ぎる所為だろう。

エルニーニョ現象だか地球温暖化だか、詳しい原因は存じ上げない。存じ上げないが、最近、妙に夏が長くなっている。

なにせ10月いっぱいくらいは、平気で気温30度のいわゆる真夏日ラインを超えてくる。10月はいまや夏だということだ。昔は9月までくらいではなかったろうか。そうして10月いっぱいまで夏が続くものだから、ようやく涼しくなったと思うのはつまり11月ということになる。「来月は12月か」などとのんびり構えていると、すぐにその12月がやってくる。すわ年末である。

ご存知かどうか知らないが、当ブログは毎年夏になると更新が途絶えることになっている。これも要するに暑いからである。

純然たる社畜である私は、何を隠そうこのブログの8割を通勤途中の銀座線車内で書いている(残り2割は風呂)。が、夏の銀座線というのは、とてもじゃないが何かをするのに適した環境ではないのだ。あの狭いトンネルに無理矢理詰め込まれた旧式の車体には、暑さに弱い現代人を満足させるための十分にパワフルな空調設備を背負い込むだけのゆとりが、明らかにない。乗客からのクレームに晒され続けた結果だろう。聞いてもないのに、空調の設定が車内アナウンスで再三周知される始末である。車内では単に座っているだけで、汗が噴出してくる。サウナか。

そうしてそこに、クールビズの大号令のもと解き放たれた白シャツの襟元からその縮れた体毛をチラつかせ、 脂滴る肉塊が大挙してなだれ込んでくるわけだ。奴らは、座席に少し空いた隙間でもあれば、その巨体を遠慮なくねじ込む。傍らに人無きが如し。暑いし、臭いし、痛いのである。世に過酷な環境は数あれど、あれほどのものを私は知らない。地獄と呼んで差し支えなかろう。

そう。単なる思い付きの妄言を、ただ気の向く儘に書きなぐっているだけと思われがちな当ブログであってさえも、一応書くためには思索を要するのである。地獄と見紛うほどに過酷な環境では、到底思索などできようもない。できてポケモンのレベル上げくらいなのだ。

こうした状況は10月いっぱい継続して、11月は惰性で休養。漸く更新を再開しようかと思うのが12月なのだ。「気づけば年末」で始まる記事が増えるのも頷けるというものだろう。


さて、このような年次の休養を利用して、今年は少し、ブログについて考えた。

ブログに何を書くべきか、である。

振り返れば、今年の当ブログは、少なくともアクセス数の面から言えば、年初から比較的堅調であった。

アダルトビデオ女優に関する取り留めもない雑感で正月を飾ると、スタバ利用に際してのマナーを問いかけると見せかけてアップル信者を罵倒した。西ではてながCFOを募集していると聞けば便乗して無責任にはてなかくあるべしと語り、東でソーシャルゲームがバブルだと聞けば門外漢の野次馬的立場から野放図に茶化してみせた。こう考えると碌なことを書いていないが、ページビューだけはそれなりに積み上げることができたのだ。残念ながらメルマガブームには乗り遅れてしまったが、メルマガ考察にこじつけて人気ブロガーを揶揄することは忘れなかった。

然し難しいもので、こうして記事を書けば書くほど、そしてそれが文章として成功すればするほど、益々何を書けばいいかわからなくなっていくような感じはあった。段々と字面と私との距離が離れていって、次第に足元が覚束なくなり、ついには何百メートルも上空から小さい紙切れか何かに書き込んでいるような感覚になる。今日に至る長期の休養も、キッカケこそ上述の通り暑さによるものであったが、それが長引いた理由の一つには、こうした心持によるところがあったかもしれない。

どうすれば地に足をつけたまま、ブログを継続していけるのか。

継続するためには、当然成功が不可欠である。

では一体どうすれば、読者の心に残るような成功した文字列を絶え間なく生み出し続けることができるのか。


この問題について、もっとも重要なことは、おそらく、「同じことを書く」ということだと今般思い至った。結論から言えば、である。

ともすれば我々は、毎回毎回、新しい発想や視点、若しくは斬新な言い回しなどを求めがちである。そうした新しい何かを生み出し続けることこそが、継続の意味するところであるとさえ考えがちではないか。水は一箇所に留まると腐るみたいな在りがちな喩えを持ち出してもいい。兎に角、変化の方に重きを置き、変化に乏しい様を停滞と見做して軽んじる傾向がある。やに思う。

今般私が思い至ったことはこれとは逆で、変化に晒されず、同じ状態にとどまること、若しくはそういう要素をつくりあげることこそが、ブログを成功させるための要諦ではないかということである。


このように思った背景はいくつかある。

先日、KindleのPaperwhiteを購入したが、肝心の書籍の方の品揃えが何とも言えない感じなので、藁をも掴む思いでジャンプコミックスの超人気シリーズ、「ジョジョ」の8部を読んでみたのだ。失礼だが。

ジョジョの連載開始は私が7歳の時で、かれこれ25年以上連載しているのに、衰えることを知らない面白さには心底驚かされた。

ただ、そのジョジョも、必ずしも毎回毎回、まったく新しいアイデアが次々に創造されることによって、ここまでの連載を重ねて来たというわけでもない。むしろ逆で、変わらぬジョジョらしさの存在こそがシリーズの人気を担保しているわけだ。

シリーズを通底するテーマは人間讃歌だそうで、なるほど言われてみればそんな気がしないでもないが、なにもそこまで一気に上流に遡ることもない。より表面的な部分だけでも、第3部以降継続しているスタンドという概念や、それを活用したスリリングなバトルは一切変わっていない。微動だにしていない。それを演出するホラー味溢れる重厚な筆致や、臨場感を高める独特の効果音も然りである。ギリシャ彫刻みたいな芸術的佇まいの登場人物たちも、よく見ると大体みんな同じ顔である。

スピード感溢れる描写故だろう、何となく奇抜な展開や表現の斬新さに目を奪われがちなのであるが、真に着目すべきは、実はほとんど同じ内容の繰り返しということの方なのだ。「らしさ」をしっかりと維持しつつ、飽きさせない。制約の力を最大限に利用しながら、読者にその存在を感じさせない。実はずっと同じことを書いているのに、どこか違って見える。

自分の鼻糞ブログと日本を代表する人気コミックシリーズを並べて語るようで大変恐れ多いが、地に足をつけた継続というのは、まさにああいうことを言うのだろうと思ったのだ。


また、それより以前には、爆笑問題太田光が、同世代の芸人数人を評して「(彼らは)まだテレビで面白いことを言おうとしている」と発言したという話を目にしたことがあった。

当時、芸人が面白いことを言わないでどうすると、通り一片に訝しがった私であったが、なんとなく本意が気になって、心に留めていたのである。

かく言う太田光は、「面白いこと」を言う代わりに、粗末なダジャレや、取るに足らないベタなボケを繰り返しながら、現在の地位を築いていった。それこそ四六時中「面白いこと」を言おうと熟慮していた彼のライバルたちよりも、純粋なネタの面白さという尺度では見劣りして然るべきである。にもかかわらず、彼は確かに成功してみせたのだ。何故か。

これは、視聴者が、芸人による単発の発言や動作、及び漫才、並びにコントといった、いわゆるネタのみを消費するのではなくて、寧ろ文脈を消費するからである。「この芸人はこういう人だ」というような、よりメタ的な要素を共有することによって、視聴者は、眼前で繰り広げられるその芸を、より一層愉快に消費することができるのだ。

芸人は当初、視聴者との間で共有すべきメタ要素を持ち得ない。あるのは単発のネタのみである。この段階において、芸人の全神経は、ネタの完成度に対してのみ向けられるべきだ。それこそ、先人たちが繰り広げてきたネタを入念に研究し、それを拡張させ、変化させていく必要がある。

然しながら、ある程度ネタが評価を得、テレビなど各種メディアで露出する機会を得ると、事態は変わってくる。ネタ自体よりも、その背景や人物像を含めた全体を視聴者と共有することになりはじめる。所謂「キャラが立つ」というやつのことで、メタへの移行である。

メタ要素は、芸人のネタを制約する機能を持つ。芸人は、例えば一度かたちづくられた自らのキャラからは、容易に逸脱することは許されない。すべての行動や発言はキャラというメタ要素の文脈で消費される。

その一方で、この制約があるから、芸人は視聴者と文脈を共有することができ、まったくゼロからの積み上げを再現することなく、芸人として芸を継続し得る。要するに、縛り上げられてこそ発揮できる力というものがあるということだ。如何にも変態的であるが。

然し。然しここに、あのほとんど何を喋ってるかも聞き取れないような老人タレントどもが、今だに食いっぱぐれないどころかテレビ界の帝王よろしく大手を降って闊歩できている理由がある。爺さん共のネタはことごとくベタだが、大御所なのに縛られているという文脈のなかで、いまなお映えるのである。


これは、実は人間が存在するということの意味を問う話でもある。

あの人がもしここにいたら。もし仮にこの場に参加していたらきっとこう言うだろうなと周囲が想像するそのイメージこそが、その人の存在なのだ。

イメージこそが存在であり、人体というものはある種、そのイメージをもっともうまく体現するための機能に過ぎない。モノマネと口寄せは紙一重とはよくいったもので、言わないかもしれないが、要は存在の強さなのである。

面白いとは何か。それは、存在の強さなのだ。


何の話だ。ブログの話だった。

ブログに何を書くべきか。

これはやはり、毎回同じことを書くということであるから、つまるところは、毎回武田邦彦上杉隆を嘘つき呼ばわりして、ミクシィの倒産を祈願したうえ、「そんじゃーね」で締めるということに他ならない。

そう。またこのオチである。皆さん、良いお年を。

終末期医療とか社会保障費とかの話

雑談

ポケモン育成に尽力するあまりちょっと時間が開いてしまったが、この間、自民党総裁選に出馬した某耄碌都知事のところの放蕩息子が、社会保障費削減の文脈で尊厳死の話題を持ち出したとのことで、ちょっとした騒ぎになっていた。

まあ、そりゃ騒ぎにもなるという話だ。

社会保障費の削減、ならば尊厳死」では、まるで尊厳死の御旗のもとに老人を殺戮すれば社会保障費などいくらでも削減できる、と言っているのとほとんど等しい。何か庶民感覚を一切待ち合わせない中世の貴族などがおもむろに発案しそうな単純さ。

社会保障費が払えないなら老人を減らせばいじゃない」。

「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」というのと、まったく同じ香りを放っているではないか。

あの家系、自らを貴族か何かと思っていてもまったく違和感ないのは確かではあるが、いまは中世ではなく現代。多少自粛して欲しいところではある。

今さら私が指摘することでもないが、人の命というのは、他人が勝手に奪っていいものではないことは言うまでもなく、社会からの要請によって手放さなければならない類のものでもない。結構、大前提の部類だろう。

人が、人としての尊厳を保つために、自ら潔く死を選択する権利はないのか。そのような議論はあって然るべきものとしても、先に述べた大前提を覆すようなことは断じてあってはならないわけで、そこにはまさに超えてはならない一線があるわけだが、あの文脈であの発言というのは、要するに一線の向こう側からにこやかに手をふられる感覚に近く、「えっお前その線…」という感じは否めない。

文字起こしされたもので問題の発言の前後も確認したところ、どうやら当のご本人も、誤解を招く恐れが強いという認識をしていたようではあったが、ではいったい何が、誤解を恐れる彼をして、あのように勇敢な発言に踏み切らせたのかは、依然として謎のままである。別にオフィシャルにしている政策でもないし、誤解される恐れが強いなら、誤解されないタイミング(というのがいつ来るのかは知らないが。)までそっと胸に秘めておけばいいではないか。

まったく。

ゾンビ化する病院

と、ひとしきり自らの良識ぶりをアピールしたところで本題に入る。

件の放蕩息子にあやかって誤解を恐れずに言えば、私は、世の中には、それこそ尊厳死の対象となり得るような寝たきり老人の命を盾にして社会からカネを巻き上げている悪いヤツらがいると思っていて、ソイツらから人質を奪い返すために尊厳死の議論は有用ではないか、とは思う。

ここで言う悪いヤツらというのは、端的に言うと一部の病院のことで、より具体的には、業績が極めて悪い、どう考えても人の面倒見てる場合じゃない病院のことを指す。

これは、少し以前に仕事上の絡みでいくつか経営が悪化した病院の内情というものを垣間見た経験から言うのだが、「病院の業績が悪い」というときのその「悪さ」というのは一般的な事業会社の比ではなく、それ故に腐敗の程度も深刻なのである。

病院の業績が極端に悪化した状態に陥り安い理由は極めて単純で、病院が滅多なことでは潰れないためだ。要するに、病院がなまじっか人の命をあずかっているものだから、債権者としてもそう簡単にはトリガーを引きづらい。自分が破産を申し立てたら、入院患者が全員死ぬかもしれない。そんな懸念を抱きながらトリガーを引ける人は、なかなかいない。

だから、病院は、一般の事業会社であればとっくに潰れているような状況に追い込まれてなお、 未払金を膨れ上がらせながら、さながらゾンビのように生き永らえる。そうして、一般の事業会社では到底辿りつけないような業績悪化の境地まで、容易にたどり着くのである。

ゾンビ病院の内情

ゾンビ化した病院の内部では、当然様々な好ましくない事態が起こる。

好転する兆しのない業績。みるみる減っていく現預金。いったいどうやって資金を手当てしているのかと、貸借対照表の右側を見る。すると、借入金勘定は増えていない。資本調達した形跡もない。むしろ債務超過だ。

増えているのは、未払金だ。ただひたすら積み上がっていく未払金。

私はこれを未払金勘定を活用した資金調達、即ち、未払ファイナンスと呼んでいる。単に払ってないだけだが。

この未払ファイナンスの実態について言えば、資金調達の相談を銀行以外に対して行わざるを得ないような病院の場合、8割は、税金も従業員の給与から天引きした社会保険料も支払えていないと考えて間違いないし、3割は給料の支払い日も翌月末くらいまで引き延ばしている。業者向けだと一番滞りやすいのが給食だろうか。リース料は、滞納すると最悪医療機器を回収されてしまうので、比較的滞納されづらい。しかし酷いところになると病院の建設資金すら未払いで済ましており、人間は一体どこまで無計画になれるのかと問いかけられている気分になる。

未払ファイナンスもついに限界に達すると、保険料の不正請求、病院債の不正発行に手形の乱発という最終ステージに突き進み、さすがにもう潰れるかと思うのだが、それでもやはり潰れない。民事再生手続きを申請すれば大概の債権者が泣いてくれるので、今度はDIPファイナンスとか言いながらのうのうとやっていくのだ。

まさに不死身。恐ろしい話である。

当たり前だが、このような資金的困窮が続く中にあっては、医師や看護師のモチベーションは地に落ち、職業的倫理観は枯れ果てる。なにせ、今日働いた分の給料が、来月無事に入ってくるかわからないのだ。キレイゴトを言っている場合ではないのはよくわかる。

患者に対する扱いは次第にゾンザイになり、果ては患者の財布に手をかけるのである。これは驚くべきことだが、身寄りのない老人で、かつ痴呆が進んでいたりすると、病院にすべてを委ねる他ないから、その預金通帳の残高を守るのは病院関係者の倫理観でしかない。救急車での運搬(長期入院は保険点数が下がるので、他の病院に移される)中にこっそりかすめ取ったりというのは結構ザラで、究極的に酷いケースでは本当に預金通帳と印鑑ごと丸パクリしていることもあると聞いた。

憎むべきは当然罪なのであって、人ではない。誰だって精神的、金銭的に追い詰められれば間違いの1つや2つ犯すことはある。しかし敢えて厳しいことを言わせてもらえば、困窮した病院の従業者には、患者を人として扱うだけの心の余裕がない場合が、少なからずあるのではないかということだ。さすがに財布に手をかけるという一線は踏みとどまったとしても、医療保険によって毎月数十万の現金を生み出す老人を、単なるカネのなる木として扱っているようなことはないだろうか。

淘汰の仕組み

本来、このような病院は、淘汰されて然るべきなのだと思う。

ダメな病院はさっさと潰れ、新しい病院が生まれた方がいい。ところが、既に述べたようになかなかそうはならない。誰も好んで病院を潰そうとは思わないからである。

ここで起こっていることは、つまるところモラルハザードだ。米国で発展したあの大きすぎて潰せない金融機関たちが、国民の税金でギャンブルに明け暮れているように、神聖すぎて潰せない病院は、国民の税金と健康保険料で左団扇なのだ。

もし世の中が十分に裕福であれば、このテのモラルハザードというのは、深刻な問題にはならないのかもしれない。経営の苦しさゆえに一部に歪みが生じてしまっているだけで、基本的に患者を生かすという大きな方向性についての動機付けは成功しているわけだから、世の中の富にゆとりがあるのであれば、問題のカイゼンにあたっては単に医療保険点数をあげ続ければいい。いくら放漫経営でも無尽蔵にカネがあれば、さすがに現場が疲弊しない程度にはうまく回るだろう。うむ。夢物語である。

現実的には、みなさんご存知の通り、年々減少を続ける我が国の税収はいまや風前の灯といった様相なのであり、年間支出額のおよそ半分は、未来からの借金というべきか過去に蓄えた資本の食いつぶしというべきか、要するに国債発行による収入でまかなっている。

予算は限られているのだ。

その限られた予算の中で、なんとかうまくやっていくには、現行の制度は心許な過ぎる。そう思うのである。

医療というものはいったい何なのか。

死に体の病院が保険料目当で片手間に施す延命措置は、果たして医療と呼べるのか。ある程度、人としての尊厳が維持されることが医療の前提であってもいいのではないだろうか。医療としての前提を満たすための十分なリソースを確保できない病院には、潔く市場からご退出いただいた方がいいのではないか。

当然、病院は反発するだろう。

患者を見殺しにしろというのか、と。

それこそまるで、人質に銃をつきつけるように。

でもそうじゃない。患者を助けるためにも、ダメな病院が淘汰されない仕組みは見直したほうがいいだろうと思うのだがどうだろうか。


と、何か誤解も恐れず大上段に構えてはみたものの、特に振り下ろすアテもないので、今日のところはこの辺にして、私はポケモン個体値厳選作業に戻ります。お疲れ様でした。

日本の領土問題についてと残暑お見舞い

雑談

それにしても毎日クソ暑すぎてブログを書く筆も進まないが、最近、韓国が妙に対日姿勢を強めている件は、少し気になっている。

いや、本当に「妙に」という感じで、そこに特段の戦略性は感じられず、ただ徒に、若気の至りみたいな雰囲気で粛々とエスカレートしていっているのである。

みなさんご存知のことと思うが、五輪サッカーの3位決定戦となった日韓戦、日本に圧勝した韓国代表の選手は、「独島は我が国領土」とハングル語でかかれた(らしい)プラカードを掲げ、満面に笑みを浮かべながら試合後のスタジアムを周遊した。

領土問題。結構微妙な政治ネタである。

そんなものを掲げながらにしてあの爽やかな笑顔は、敵ながら天晴という気もしなくもないが、単にあの手の主張が韓国国内ではもはや常識のように繰り返されているということなのかもかもしれない。褒めるのは保留にしておこう。

韓国の李明博大統領も、まさに上記日韓戦と同じ日である、日本政府の反対を押し切り、勝手に竹島(独島)に初上陸を果たすと、今度は返す刀で日本の天皇陛下に向かって韓国に謝罪に来いと抜かす始末。しかもその場合は心からの謝罪を求めるという聞いてもいない注釈付きだ。就任当初は「日韓関係は未来志向で」などと言っていたことを思うと驚くべき豹変ぶり。縦横無尽である。

ただ、これまでの傾向からしても、韓国の大統領というのは、国内での求心力が低下すると、必ずと言っていいほど対日姿勢を激化させてくるものだったりはする。一番手っ取り早い人気取りということなのだろう。気持ちはわからないでもない。

だから、そういう意味では李明博大統領の件も、単にご多分に漏れずという話でしかなく、むしろある種の風物詩なのであって、私としても、もうそんな時期かと、とりあえず感慨にでも浸ろうかという構えであったところ、意表をついて今度は香港の活動家が尖閣諸島に突撃してきたとの報である。おや。

さらに、韓国の歌手だかタレントだかは、独島まで遠泳で行くという謎の企画の最中にパニック障害だそうだ。意味がわからない。

そう言えばその前は、親玉プーチン余裕の再選によって目出度く首相に格下げとなったメドベージェフも北方領土に降り立ち、言いたい放題言って帰って行ったそうだ。

被害はなくとも腹は立つ

いま、近隣諸国から次々と我が国領土に訪れる望まれざる客人たち。

当惑を隠せない日本。

この状況を漫然と眺めていて、ふとピンポンダッシュに悩む一般家庭みたいだなと思ったわけだ。

その心は、と言うと、要するに大した被害はない割に、無性に腹が立つということである。

ピンポンダッシュ。インターホンが鳴ったので玄関を出てみても誰もいない。まあ確かに面倒くさいといえば面倒くさいので、それが被害と言えばそうなのだけど、モノを盗られるわけでもなければ、壊されるわけでもない。つまり、大した被害はない。

それでも無性に腹が立つのは、ピンポンダッシュをする側が、それを楽しんでいそうだという想像によるところだろう。こちらに大した被害がなければ、あちらにも大した利益などないはずなのに、じゃあなぜあちらがそんなことをするかと言えば、こちらの反応を楽しんで、嘲っているに違いないのだ。もっと言えば、あちら側の仲間内では、実行犯を称えたりしているに違いない。こういう推測が平静を失わせる。

件の問題に関しても、冷静に考えれば、韓国の大統領が竹島に上陸したところで、我々に何か被害があるわけではない。もともと実効支配はあちらにあったりする。

しかし、だからこそ腹立たしいのである。意味もなく上陸。挑発以外の何者でもない。絶対バカにしてるだろという話なのだ。

あれはやはり、一種のピンポンダッシュに他ならない。

何か、問題がグッと身近になった感じがする。

ピンポンダッシュへの対処

しかしピンポンダッシュ。その解決は意外と難しい。ピンポンダッシュを嗤うものはピンポンダッシュに泣くのである。

まず、中途半端に怒るのは逆効果と言わざるを得ない。なぜなら、やつらはスリルを求めているのだから。

ピンポンダッシュをする側からすれば、「おやめなさい」と冷静に諭されるよりも「コラーッ!」と来られたほうが俄然テンションが上がるし、「ゥウォノレラアアアァァァ!!!」と来られればなおさらだ。手に竹刀でも持とうものなら完璧だろうか。そうして晴れて地域の名物オヤジの誉に授かった不運な中年は、生涯を不毛なイタチごっこに費やすこととなる。

おそらく、「怒鳴る」というのは、相手を撃退するというよりはむしろ、自分がスッキリしたいがための行動なのだ。要するに、相手はスリルを感じ、自分は怒鳴ってスッキリする。なんていうことのないWin-Winである。お互いがお互いの需要を満たしつつ、イザコザは半永久的に続く。

日韓で高まる緊張感とは裏腹に、両国首脳の支持率は目下上昇中らしい。つまり、そういうことなのだ。

それはそれでいいし、実際問題として国際政治の舞台では、数多の問題がそのようにして止揚されているのだろうけど、もし問題の解決を望むのであれば、やはりこれは悪手であると言わざるを得ない。

敵を追い払うのであれば、もっとこう、スリルどころではない明確なリスクを感じさせる必要があるのだ。

そういう意味では、ピンポンダッシュを犯人の学校にチクるというのは、「先生に怒られるかもしれない」というリスクを顕在化させるという意味で、割と有効な手段となり得るが、件の領土について言えば、ちょっかいを出して来ているのはあの国の大統領なのであり、要すれば、ピンポンダッシュの犯人は校長先生でしたみたいな話なので、応用は難しい。学校には頼れない。

学校もグルだったとなると、警察に相談しようかという案がよぎるが、警察は基本、民事不介入である。ちょっとやそっとのもめ事程度ではその正義を行使しないという問題がある。まるで、本件問題に関して静観の態度を崩さない米国のように。

よって、警察沙汰を望むのであれば、必然的にイタズラの更なるエスカレート、被害の拡大を待たねばならないということになる。しかしそれはそれで、本末転倒ではないのか。

放っておけばただのピンポンダッシュで済んだかもしれないのに、敢えて放火を煽ることもない。犯人は無事、警察権力に屈したとしても、自分の家が焼けてしまっては元も子もない。言うまでもないことである。

そう。結局ただのピンポンダッシュにリスクを感じさせるといっても、 もともと大した利益が見込まれる行為でもないわけだから、 本質的に大したリスクはないのだ。とするとつまり、何らかの働きかけによってやめさせるというのは、意外とハードルが高いということになってくる。

反対に、押してダメなら引いてみろとばかりに、いっそ受け入れてみるという案もあるだろうか。

しかし、軒を貸して母屋を取られるという諺もある。

最初はただのピンポンダッシュと思っていたらいつの間にか住み着いて、終いには権利書を奪われるということもあるかもしれない。あまりつけあがらせるのもやはり、考えものなのである。

最終手段

押してもダメ。引いてもダメ。いまや問題は迷宮入りの様相だが、最終手段はあると思っている。

引越しだ。

出来の悪い小学校や中学校の通学路、それも学校のすぐそばさえ避ければ、ピンポンダッシュの被害になど遭いようもない。やつらも別に、たまたまそこに家があったからイタズラしているだけで、我々個人に恨みがあるわけではない。さすれば、引越し先まで付き纏われる道理はない。

イタズラ程度のことで引越しまでするというのは、情けないと思うかもしれない。しかし、思い切りが大事だ。ちょっとした不満でも、積もり積もれば、いつかあなたの血管を破裂させるかもしれない。だったらさっさと引っ越してしまったほうが、被害は小さくて済むのではないか。

相手をギャフンと言わせてやりたい気持ちはわかる。イタズラには屈しない強い自分が大好きなのもわかる。しかし、健康のためにも、余計なストレスや悩みの種は可能な限り抱えるべきではない。

結局、この手のイタズラというのは、ある程度は、目を付けられた不運を呪うしかないのだ。根本的な解決を望むのであれば、多少の犠牲は厭わず、思い切った決断を下すことが必要になる。


そうだ。日本も、思い切って大西洋あたりに引っ越せばよいのだ。

そう思い立ち、マイホームを狙う主婦の眼差しで、改めてグーグルマップを眺めていたら、意外と良さそうな物件があった。

アイスランドである。

アイスランドと言えば、イギリスの北西に位置する島国で、これといって特徴のない漁業国だったが、先の金融危機で一躍有名になった。リーマン破綻前、極端なカネあまりから生じた過剰流動性は世界の隅々にまで行き渡り、各地で変調を起こしていたが、アイスランドはその最たる例となったのだ。

そのカネあまりを背景に、自分たちでも短期資金であれば結構調達できるということに気がついたアイスランド人は、とにかく借金をしまくると、なるべく高い金額で、あらゆるアセットを買い漁った。例えば、イギリスの銀行や、サッカーのクラブチームなど。

そうしたアセットを仲間内でグルグル廻しながら、資産規模を膨れ上がらせ、経済成長を偽装、さらなる資金を呼び込むと、ゲレンデを転げる雪玉のように肥大化していき、アイスランドの株価は3年でほとんど10倍になり、GDPも4倍くらいに急成長、ついぞIMFの人だかに「アレは国というか巨大なヘッジファンド」と言わしめるに至る。国内では、それまで漁師だった人が突如として銀行家に生まれ変わる事案が相次いでいたという。

このような突発的で実態と乖離した経済成長がどのような行く末を辿るのかというのは、日本の歩んで来た道を例に出すまでもないだろう。バブル崩壊。経済の破綻。そして後に残る莫大な借金である。一人あたり33万ドルという途方もない借金だけが残ったアイスランドでは、国外移住の希望者が殺到したらしい。


まあ、住民の方には失礼だが、この国だったら、多少カネを積めばなんとかなるんじゃないのかと思ったのである。

日本よりちょっと狭いものの、東京の都心部みたいなテンションで詰め込めんで行けば、きっと何とかなる。そうだ。グリーンランドの一部も貸してもらって、農地にしよう。

気候的には、暖流が通っているから、高緯度の割にはそこまで寒さは厳しくないらしいが、とは言え、さすがに日本より寒いのは寒そうだ。

ただそれも、最近の日本は、それこそまともにブログを書く気も失せるほどに暑すぎるので、かえってちょうどいいだろう。


ということで、少し話が逸れたが、厳しい残暑が続く中、読者の皆様におかれましては、くれぐれもご自愛ください。

参考

絶好調時のアイスランドの破天荒ぶりに関する記載が愉快な同著は、サブプライム危機の内情を綴った名作「世紀の空売り」の続編。ブーメランというのはつまり、アメリカを震源地とする金融危機が欧州に飛び火し、また戻ってくるのではないかという話だろうか。上述したアイスランドに関するくだりも、同著を参考にさせていただいた。ただまあ、ひとことで言うなら、前作の方が面白かった。

なぜいま「スタートアップ」なのか

ビジネス

リアルスタートアップ ~若者のための戦略的キャリアと起業の技術~大先輩の塩野先生がまた本を上梓されたとのことで、早速購入して拝読させていただこうと目論んでいた矢先、なんとご本人様からご著書をお送り頂いたわけである。

渡りに船。いや、実に有難いことなわけだが、こんなときは、ブロガーの端くれとしては、やはりあのひとことを言わねばならない。

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孫正義のゴネ得が禿し過ぎて往年の大スターが太陽光発電事業に大集合の巻

ネタ

まあ、何ということでもないのだけど、やらなくてはいけないのにやっていないようなことがあると、どうにも喉に小骨が刺さっているような感じがしてブログを書こうにもなかなか捗らないというか、暇な日に冷蔵庫ばっかり開けちゃうような感じで何故かやたらとツイッターを開いてしまうものだから、要するにそれで時間がなくなるわけなのだけど、本邦エネルギー政策をめぐる状況から俄に面白い感じの薫りが放たれているので、今日は少しその件を書いておきたいと思ったわけなのである。

再生可能エネルギー全量買取制度

さて。

我が国では、福島の原発事故以降、神の啓示でも受けたのか、突如としてエネルギー問題の専門家として生まれ変わる門外漢が大量発生すると、それによってエネルギー問題に関する議論は際限なく拡散。事故から1年が経過した今もなお、収束の糸口すら見えないでいる。

まさに「船頭多くして船山に登る」を地で行っているわけだが、ことここに至っては、その船がまた随分と高い山に挑み、さらには登頂しかかっているというのだから驚く他ない。門外漢侮りがたしである。

そう。ご存知の通り、いま、太陽光発電による電力の買取価格が、42円ということで決定されようとしているのだ。船が山に登った結果としては、異例と言っていいほどに立派なものなのではなかろうか。

当該買取りの根拠は、昨年8月に成立し、来年7月を期日として施行される見込みである「電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法」だ。

同法は、専門家を自称する門外漢の筆頭でありながら、震災当時に首相を勤めた政治家でもあり、現在は反原発運動に精を出すプロ市民風の隠居生活を送っている菅直人が、大災害で気分が高揚したのか、どさくさに紛れて無理やり成立させた法案だった。

そんな法案、どうせ有耶無耶になって終わりじゃないのと私あたりは油断していたのだが、その後

「日本には自然エネルギーが必要ぜよ」

と、アツい理念に燃えた孫正義がどこからともなくやってくると、話が妙に具体的に転がりだし、あれよあれよという間にじゃあ42円にしようかという話になっているようなのだ。

孫正義、相変わらずデキる男である。

で、この42円という買取価格。これがいま、ちょっと高すぎるのではないかということで話題を呼んでいるわけだ。

以下の記事なんかには、それはもう高いと、とにかく高すぎると、そのような趣旨のことが割と克明に書き綴られているので、是非ご参照いただきたい。

蹴茶: 孫さんが触れたくない事実 2009年のFITを引用する理由 [2012.4.26]

曰く、孫正義は2009年以降に起きたソーラーモジュールの価格下落(太陽光発電の原価低減)を誤魔化すため、2009年以前のヨーロッパ各国における太陽光発電買取に関するデータを援用することで、日本での買取価格42円を正当化しようと、議員相手に熱弁してまわっているのだそうだ。これはつまり、最新の設備を用いて発電した電力を、3年前の水準で売り捌くということだから、要すれば技術進歩によって生じた異時点間の価格差でアービトラージができるということであり、賭けとしてはかなり固い賭けであると言えるだろう。

仮にそうだとすると、これはもう要するにただの補助金泥棒だったのではないかという気もしてくるわけで、ウソも方便とは言うものの目的自体ウソ臭過ぎて、ウソも方便と言うよりむしろ方便もウソ、よってウソはウソ、結論として全部ウソといったような三段論法を展開せざるを得ないわけである。

42円は高いのか

孫正義は補助金泥棒なのか。

これは、42円という価格がぼったくりかどうかにかかっているということになる。

まあ、うえで紹介した記事に、結構理路整然と「高い」と書いてあるのでそれを信用してもいいのだけど、なにぶん専門知識がないからよくわからない。よくわからないけどDISりたい。

ということで、長い前置きとなったが、買取価格42円が高すぎるということを少し別の角度から検証してみようというのが、本日のテーマだ。

そして、ここで言う別角度とは、今般の再生可能エネルギー全量買取制度の開始を受けて、続々と太陽光発電事業に新規参入している事業者のメンツのことである。

これがなかなか個性的で面白いのだ。

順に見て行こう。

■DMM

まずはあのDMMである。エロビデオを核に徐々に事業を拡大し、最初はオンラインビデオレンタルなど、まあ言ってもエロビデオの周辺産業に落ち着いてたものの、最近ではFXを筆頭に、何というか庶民のエロ心とか射幸心とか、そういう感じの需要を取り込む事業へ着々と歩を進めているようだ。

もうすでに子会社としてDMMエナジーというのがあって、個人宅向けにソーラーパネルを販売しているそうで、そんなにDMMというブランドを前面に出して何か良いことがあるのかなという気もするのだけれど、新聞にどーんと広告を出していたりもする。

見ると、初期投資を限りなく抑え、レベニューシェア的な方式で個人宅に対してソーラーパネルを売るというのがミソのようだ。ただこれ、何となくローン的に個人の与信リスクを取っている風に見せて、実はただ場所を借りて発電しているだけなのであるから、場所の精査だけきちっとすればリターンの割にはリスクの少ないビジネスには見える。まあカネがあるからこういうビジネスができるのだと言ってしまえばそれだけのことなのだけど、なかなか抜け目ないビジネスをつくりこんでくる。侮れない会社である。

■マーチャントバンカーズ

唐突に「マーチャントバンカーの○○です」と名乗られたら、うっかりイギリスの金融マンか何かかと思ってしまいそうだが、要するに元アセット・インベスターズなのである。

アセット・インベスターズと言えば、長銀OBと反社会的勢力の奇跡のコラボレーション、バブル崩壊が生み出した金融・不動産界の芸術、アセット・マネージャーズの元子会社である。カテゴリーとしてはイーバンクと一緒。懐かしいな、イーバンク

業績や事業の状況は比較的まともであり、前期・前々期と6億くらいの利益を計上している。まあその前はガツンと100億円くらい損を出しているし、今期も4億円くらいの赤字のようなので、通算すると果たしてどうなのというのはあるが。何れにせよ、以下に紹介するような新規参入組よりは幾分経営に余裕があるが故だろうか、いちはやくテスト的な発電所をオープンさせたようなことがリリースされていた。

いやしかし、この会社が発電した電力を買い取るために我々の電気代が上がるのだと思うと実に胸が熱いではないか。

多摩川ホールディングス

いわゆるジェイ・ブリッジ銘柄。

「最後のハイエナ」ことジェイ・ブリッジは、経営難に陥った会社の支配権を二束三文で獲得すると、逆にその会社の自己資本の部から資金を限界まで引き出し続け、終に資源が枯渇すると次のターゲットに移るという実に伝統的な焼き畑農業で市場を席巻した。高田屋を展開するタスコシステムズなど、世にジェイ・ブリッジ銘柄は意外と多いが、多摩川ホールディングスはそのうちの1社に他ならない。

今も同社の大株主の一角に燦然と輝く枡沢徹氏は、ジェイ・ブリッジ出身者であり、オリンパスによる不正に高額な買収資金が世界一周して再びオリンパスに還流するに際して、名誉ある土管の一部を担ったとも言われる、裏社会の雛壇芸人的ポジション(中堅)の人物である。

同社は、売上高こそ一応20億円以上と、そこそこの水準を維持しているが、損益ベースでは一貫して2億から5億の赤字であり、事業に根本的な問題がある節が窺える。

この会社の事業とは何かと言えば、携帯電話の基地局用のアンテナ等部品の製造。

うん。まあ、昔はそこそこ景気がよかった予感はするが、確かに現状では右肩上がりの成長というのは難しそうだ。

そこで「太陽光エネルギー事業準備室」を新設である。何なんだ「太陽光エネルギー事業」。暇な日につい開けちゃう冷蔵庫か。

クレアホールディングス

クレアホールディングスと聞いてもピンとこないは多いかもしれないが、千年の杜と言えばわかるだろうか。または東邦グローバルとか。もしくはキーイングホームとも言う。社名変え過ぎである。

同社は、久馬元防衛相と共に、ロシアはソチでの五輪開催に合わせ、彼の地に人工島を建設するという壮大なプランをぶち上げ、当時10円くらいだった株価を500円くらいまで吊り上げると、キチガイみたいな量の新株予約権を発行し個人投資家を恐怖のズンドコにたたきおとしたという伝説を持つ。

現在は、ロシア人工島事業からは撤退。市場から調達した莫大なカネからすると随分慎ましくなった資産規模で、水道工事を主戦場に年間3億円という、これまた上場会社としては慎ましい売上を計上している。連結対象の会社数はホールディングスを入れて7社だが、連結従業員数は18名である。1社あたり3名弱。素晴らしい。

太陽光関連事業への参入を企図し、韓国メーカーとOEM契約を締結だそうだ。

そんな装備で本当に大丈夫か。

■インスパイアー

もともとはイスラエル産のセキュリティソフトを輸入販売するという業態で、まあ今思えば持続的な成長は難しいのではないのと思うのだけど、当時は何となくナウい感じだったのだろう。2001年に何かの間違いで今は亡きヘラクレスにグロース基準で上場している。しかしながらといったものか、案の定といったものか悩むところだが、上場した途端に力尽き、売上高は年々減少、直近では1.2億円を割り込むこととなっている。営業損益はなんと2003年以来10年連続で赤字。赤字に次ぐ赤字。真っ赤。5億、4億、3億とまあ面白いくらいに資金が蒸発していくのである。

すると当然のごとく債務超過に陥るわけで、現状は債務免除にデットエクイティスワップ、大規模な第三者割当による新株予約権発行と、まさに集中治療室状態。

本年2月にウエストホールディングスと提携して太陽光発電システムの販売事業に参入とのことだが、「おじいちゃん、点滴外して大丈夫なの」という不安は拭えない。従業員9名しかいないし。

誰がための買取りか

ことほどかように太陽光発電関連事業には、かなり個性的な面々が次々と新規参入を決めており、その様はまるで、暇を持て余した田舎のヤンキーOBたちが、深夜、明かりを求めてコンビニに大集合するが如しである。

とはいえ、私に上記で示したような面々を批判する意図はない。

当然だ。

企業として存続している限り、資本コストを僅かでも上回るような投資機会があるのであれば、積極的に投資を検討していくことが経営者の義務というものである。

だからこれは偏に、孫正義の決死の努力によって確保された42円という単位当たりの買取価格が、素人目にも魅力的な水準だったという厳然たる事実が招いた合理的な結果なのである。

やはり買取価格42円は、十分に高かったのだ。

買取価格が十分に高ければ、それはそうなるはずである。

なにせ、十分に利益が確保できそうな水準で端から売上が決まっているのだから。国債を購入して満期まで保有する投資戦略と同じ。即ち、ノーリスクである。

しかも、やることと言えば、多少語弊はあろうが極端な言い方をすれば、中国産のパネルを輸入して空地に並べるだけだ。むしろ、上記各社にとどまらず、主たる製品の汎用化や過剰な競争などで利益の源泉を失った赤字企業各社は、例外なく発電事業への参入を検討されたほうがいいのではないかとさえ思うし、きっとそうなるだろう。


しかしそれにしてもこの状況である。

これから起こることを俯瞰すれば、要するに電力の最終消費者たる我々一般市民から、それこそ上述したような太陽光発電事業者各社への所得移転に他ならないのであって、どうしてそんなことをしなくてはならないのという思いは、拭い去れない。

まして、発電用の太陽光パネル自体はほとんど中国製だから、国内では雇用もロクに生まれないわけで、一体誰がための補助金なのかという疑念もよぎるわけである。


もし、あなたが戸建住宅にお住まいであれば、屋根にパネルを設置することで、晴れて搾取する側に廻れることとなる可能性もあるわけだけれど、マンション住まいの方はそれもなかなか難しい。「これはもうあまりにもバカバカしい」ということで、いっそ海外に引っ越すという選択もあながち荒唐無稽というわけではなくなってくるのかもしれない。

何だろうか。意に反して真面目な話みたいになってしまったのだが、我が家はと言えば、まあ比較的日当り良好な戸建住宅なわけなのであって、結論としては、孫さん、応援してます(笑)

ソーシャルゲームに返還請求ってさすがにそれはないでしょ

雑談

なにかその、ソーシャルゲームの「被害者」なる方々が、ソーシャルゲーム事業者各社に対して返還請求訴訟を起こすとか何とかという話が聞こえてきて、いくら何でもさすがにそれはないのではないかと思ったので。

話の出所はこのあたりではないかと推察。有名なやまもといちろうブログですね。

これは消費者庁や警察庁関係なく、そもそも懸賞、絵合わせで違法だったコンプリートガチャは、利用者から、使用金額の変換訴訟を起こされる可能性があります。
戸田泉せんせとか腕まくりしてたら笑いますが。
ただ、ざざっと試算しますと、総額で1,200億円以上、返還対象となるんじゃないかと思うので、絶対に取り返したいと思う方は携帯電話の支払い明細を握り締めて、事実上の違法認定となる改善通知が業界団体に送達された報道があり次第、その方面に詳しい弁護士方面に雪崩れ込んで相談していただければと思います。

ソーシャルゲームへの「コンプガチャ」規制関連のメモ: やまもといちろうBLOG(ブログ)

まあ、同ブログの後の記事なども合わせて読むと、要するにそんな動きがあるという噂を聞いたよという話に過ぎず、さらには先般のコンプガチャ規制とは独立した動きだと言うから、微妙に何のことかよくわからないというか、そんなことがあったら面白いねというネタと言う感じもするところではあるものの、一方で、なんとなく1,200億円という数字が一人歩きして、例によって例のごとく2ちゃんねるあたりではソーシャルゲーム憎しとの狼煙が上がっており、実際に株価がストップ安売り気配になっているのを見て、何と言うか、さすがに気の毒だと思ったわけだ。いや誰がというわけでもないのだけど。


で、いい大人が通常のガチャで使いすぎただけというのはもちろん論外で、未成年のウッカリ課金については裁判外で事業者が返金に応じているらしいので別枠として、あるとすればコンプガチャ違法判断に基づく不当利得返還請求だと思うものの、絵合せ懸賞の部分のみが黒で、その前段階としてのガチャ販売の部分が白な現状では、不当利得といっても大した額にならないか、ほとんどゼロというのが穏当な判断ではなかろうか、という話。

そう。確かに民法は不当利得の返還請求権を認めている(703条)。Wikipediaなんかにもある通り、後で契約が無効になった場合や法律上の根拠がないことが明らかになった場合などに、当該契約に基づいて発生した相手方の利益を取り戻せるという権利である。

このように聞くと、ならばコンプガチャの売上は、まさしくソーシャルゲーム事業者の不当利益であると思うのかもしれないけれど、コンプガチャが違法であるというその意味合いというのは、詳しくは昨日書いたエントリーを見ていただきたいと思うが、要するにガチャをやってカードを引き、特定のカードをコンプリートするとレアカードが貰えるよという仕組みの後半部分のみなのであって、前半のガチャでカードを買う部分は特に違法ではない。

文房具屋さんで鉛筆を12本、600円で買いました。例えばね。それで鉛筆にはそれぞれ異なるシールが付いてて、シールの絵柄が数種類揃うと消しゴムが貰えますと。ここで言う消しゴムの提供方法は絵合せ懸賞であり、違法だ。この懸賞は行われるべきではない。しかしながら、鉛筆の販売自体は、普通に合法なのである。

だから、懸賞が違法というだけでいきなり600円全額が返ってくるというのはどう考えてもおかしい。600円は、不当な利得でも何でもない。鉛筆の販売代金なのであって、支払われて然るべきものなのである。

もし鉛筆を使っていなければ、鉛筆を返品することで、取引自体を白紙に戻す(つまり、お互いに不当利得を返還する)という選択肢はあり得る。ソーシャルゲームにおいても、レアカード景品がないのならそもそもガチャをしなかったという理屈で、取引を白紙に戻せるのだろうか。もしそれが通るなら、「ハイハイ返しますよ喜んで」と返還に応じる消費者も多そうだが、それはそれで消費者に有利過ぎると感じないか。

鉛筆は消費しなければ商品が損耗しないが、ソーシャルゲームのカードは消費しても損耗しない。逆に言えば、損耗させずに消費することができる。消費したのであれば対価を払うべきだが、商品の損耗の度合いで消費の形跡を図ることができないのである。このあたりがややこしい部分だ。

カードの消費によってどのような便益が得られるのかいまいち定かではないものの、何のカードが当たるかわからないよということを承知の上でガチャを引いて、出てきたカードが自分のコレクションの一部となった時点、要するに事業者がデータベースに顧客のカード所有情報を登録した時点で、ある程度ユーザーによる消費行動は完了していると考えるのが自然ではないのだろうか。

そうであれば、返還は得られないということになる。ゼロ。今後コンプガチャのような懸賞は慎むようにという話には当然なろうが、過去のコンプガチャに係る売上の返還はなされない。理由は、事業者側が売上に対応する役務の提供を既に完了しているから。

逆に返還が多少なりとも認められる場合というのは、ユーザーの消費行動は、カードの購入時点では完了していないということが認められるときだろう。例えば、一律1年間で均等に消費することにするなどの対応があり得るが、その場合は事業者側の売上計上基準をも変える大々的な話になるだろう。ややこしい。実にややこしい話だ。


ということなので、コンプガチャ売上1,200億円というものが返還の対象になるというのが最悪のシナリオだとすると、私は、会社にとってもう少しという大分ポジティブな決着になるのではないかなという気はする。

とはいえ、たかだかあれだけの報道でこれだけ大騒ぎが起こるという現状の背景には、少なからず世論が、社会がソーシャルゲームに違和感を感じている部分はあるはずで、額面通りに決着するかというと、正直不明なところはある。

個人的には、ソーシャルゲーム各社ともに、国内で売り上げるだけ売り上げて投資は海外という図式の割に、海外投資の成果がなかなか見えてこないところに、マクロ的に見たときの存在意義の微妙さ、ある種のODAなのではないかという嫌疑というものがあるような気がするので、海外でしっかりと成功し出すと世論の傾きというものも少し変わってくるのではないかなという気はする。

消費者庁によるコンプガチャ規制はソーシャルゲーム終了のお知らせか

雑談

我が家のPS3をリニューアルしたこともあり、何気なくHuluを眺めていたらいつの間にかうっかり「24」を見始めてしまい、連休の半分が一瞬で失われたので「あーあ」とか思っていたところ、何やら興味深いニュースが急きょ舞い込んできたので、リハビリのつもりでブログを書いてみる。

お知らせ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

当ブログでは再三申し上げている通り、私はソーシャルゲーム界隈に何らの利害もなく、プレイさえしていないので、それこそあの業界があってもなくても本当にどうでもいいのだけれど、まだ新しく未成熟な割にカネの動きだけはやたら派手という、近年の日本では珍しいあの業界についに当局のメスが入ったと聞いては、野次馬根性を大開放せざるを得ないわけである。

コンプガチャは違法か

ということで記事内容だ。記事によると、満を持して登場した消費者庁が、いわゆるコンプガチャについて、景品表示法違反との見解を近く公表する見通しとのことである。

コンプガチャはお分かりだろうか。ドリランドや何やという有名どころのカードバトルを模したソーシャルゲームでは、ゲームで利用するカードを入手する際に、300円を投じると何らかのカードが入手できるという現実のおもちゃ売り場におけるカードダスやガチャガチャのような、「ガチャ」と呼ばれる仕組みが用いられる。「コンプガチャ」は、ガチャによって特定のカードをすべて集めた(コンプリートした)際に、より希少なカードを獲得できるとする仕掛けのことだ。

このコンプガチャ景品表示法に違反するとのことなので、多少疑いの念を抱きつつも、さっそく景品表示法なるものを確認してみたのだが、これがまた本当にしっかり違反していて実に面白いのである。

同法における景品類の定義は、概ね以下の通りだ。

  1. 「顧客を誘引するための手段」として、
  2. 「事業者が自己の供給する商品又は役務の取引に付随」して
  3. 「相手方に提供する物品、金銭その他の経済上の利益」

ここまでは何の問題もない。確かにコンプガチャの仕掛けは、プレイヤーがガチャを行うことを「誘引するための手段」であり、それにより配布されるレアカードは「物品」ではないものの何らかの「経済上の利益」であることは疑いようがないから、コンプガチャにおけるレアカードが景品類に該当することは間違いない。しかしながら、この法律は景品類を一切禁じるものではない。当たり前だ。ヤマザキ春のパン祭りを引き合いに出すまでもなく、世に景品類は氾濫している。

同法は、「必要があると認めるときは、景品類の価額の最高額若しくは総額、種類若しくは提供の方法その他景品類の提供に関する事項を制限し、又は景品類の提供を禁止することができる」と言っている。このあたりが肝だ。要するに程度の問題ということであり、線引きが問題になる話ということだ。

このあたり、線引きの問題を確認するには、法律そのものではなくて告示にあたる必要がある。「懸賞による景品類の提供に関する事項の制限」において、景品類の制限について概ね次のとおり定められている。

  1. 懸賞により提供する景品類の最高額は、取引価額の二十倍(だたし最大10万円)を超えてはならない
  2. 懸賞により提供する景品類の総額が、取引の予定総額の2%を超えてはならない。
  3. 一定地域における事業者相当多数が共同して行う場合などは、例外的に、景品類の最高額を30万円を超えない額、景品類の総額を取引の予定総額の3%まで拡大することができる。
  4. 2以上の種類の文字、絵、符号等のうち、異なる種類の組合せを提示させる方法を用いた懸賞による景品類の提供は金額の多寡によらず一切禁止

上記を読めばわかるだろうが、コンプガチャは4に違反する。私は全然知らなかったが、絵合わせによる懸賞は一切禁止だったのである。

だから例えば、何度も引き合いに出して申し訳ないが、ヤマザキ春のパン祭りが、単にシールを集めて応募するという話ではなくて、複数種類あるシールをすべて揃えなければならず、かつそのシールの種類が商品購入時に選択できない場合は、同法の違反になるというわけだ。

コンプガチャは、誰がどう見ても、2以上のカードについての「コンプリート」という組み合わせを条件に、景品としてのレアカードを提供している。一切禁止なのに。何という真っ黒だろうか。GREEやDeNAに法務部門はないのか。どこかに解釈の問題が入り込む余地があるのなら教えてほしいくらいである。

ちなみに、同法に違反する行為があった場合、内閣総理大臣はその行為をしている事業者に対し差止めを命ずることができる。さっさとしてはいかがか。

ガチャ自体は違法か

ただ、一方で今回の景品表示法適用を過剰に大袈裟なものとしてとらえる向きも少なくないように感じているので、その点については少し釘を刺しておいてもいいのかもしれないとは思っている。つい先日、ソーシャルゲームを規制すべきか否かみたいなべき論を打ち出していたところ、このように議論の余地のない見解が公表されて少し恥ずかしいので、行き過ぎた解釈をディスることで自分内バランスを整えようという魂胆もある。お付合い願いたい。

私も当初、上記告示を確認した時に勘違いしそうになったのだけれど、今回の件は、上記告示における4への該当を示唆するものであり、1ではない。この違いは大変重要である。

1に該当するということになった場合、その判断はコンプガチャの景品たるレアカードが10万円以上の価値を有しているという解釈を含むものだからだ。

もし、一部のレアカード「だけ」が10万円以上の価値を持つという解釈が認められると、コンプガチャだけでなくてそもそもガチャ自体が景品表示法に違反する可能性が高くなってくる。当たれば10万円外れれば紙屑というのは、上記告示の運用基準に例示されるところの「すべての商品に景品類を添付するが、その価額に差等があり、購入の際には相手方がその価額を判別できないようにしておく方法」に他ならない。

この点、現状はどのような解釈がなされているかと言うと、レアカードだろうがノーマルカードだろうが本質的には同じもの(ある固有のゲームで使うカードであり、そのゲームで勝つか負けるかくらいの差しかない)であり、それらを一律300円で売っているという解釈である。300円払うと、カードが購入できる。カードが財産かサービスかは一旦置いておいて、実に単純な商取引である。

RMTが存在するのだから、一律300円という理屈はおかしいと主張する人もいるだろうが、基本的にああいうセカンダリーマーケットというのは、商品の価値の本質を規定するものではない。たまたまレアさ加減がウケて高額で取引されるに至った昔の切手などが、過去に遡って本質的な価値上昇を認められるかというと、そんなはずがない。切手は切手。販売した時は50円の価値しかなかった。それがすべてである。そもそもあんなカード、ゲームの流行が過ぎたら1円にもならないのだ。そんなもの財産ですらないというのが、一般的なものの見方なのだ。

ところがここで、一部のレアカードに10万円以上の価値を認めるとどうなるか。そうすると途端に、300円払ってガチャを回す権利を買うと、10万円相当の景品が当たるときもあるし、ゴミが当たるときもあるという解釈のされ方が成り立ち始めるのである。これは、少なくとも景品表示法に違反する。

こうなってくると、問題はかなり広範に拡散する。リアルなトレーディングカードモノなどは、最もわかりやすい延焼先だろう。これらはすべて、出てくるカードに本質的な違いはないというところを前提にしているからだ。

これらをもグレーゾーンに引き戻すとなると、例えば個別の「カード」の価値をどのように判別するのかといったかなりややこしい問題が頭をもたげ始める。市場価格といっても、個別のカードは短命かつ不安定すぎて全幅の信頼を置くには至らないし、カードの能力差に応じて個別に判断するとなると、壮絶なイタチゴッコが否が応でも想起される。

なので、今回コンプガチャに絵合わせ懸賞(上記告示の4)が適用されることとなったのはかなり大きなニュースだが、実は景品上限額(上記告示の1)が適用「されなかったこと」はさらに大きなニュースだと言ってもよいことだと思う。

今回のニュースは、風営法を擁する本丸警察庁様の出方はまだ不透明なものの、少なくとも消費者庁としては、ガチャという販売手法そのものについては原則として踏み込まない、若しくは踏み込めないという意思表示だと捉えてもいいのではなかろうか。

追記)ソーシャルゲーム事業者が取り得る対策について

いつも遵法精神で溢れかえる当ブログには、上記事案を受けてさっそくいくつかの脱法アイデアが寄せられているのでここで紹介しておきたい。

・絵合せの景品としてレアカードを300円で購入する権利を提供

現在、絵合せ懸賞の景品はレアカードである。このレアカードが果たして「景品」なのかについては若干の議論はある。原価もないし、原則として換金の手段もないことになっているのだから、確かにこれが「経済上の利益」かについては疑わしい部分もある。ただ、ソーシャルゲーム事業者は、まったく同じようなカードを300円で売っている。これは300円分の景品と見られてやむを得ないだろう。

ではこの景品を、「レアカード自体」ではなく「レアカードを買う権利」にしてはどうか。権利には理論的な価値があるが、300円のカードを300円で買う権利であれば理論的にゼロ円である。ゼロ円の価値のものをゼロ円で提供しても、普通景品とは言わない。完璧である。

・絵合せでなくて同一カードの重複を条件にする

「2以上の種類の文字、絵、符号等のうち、異なる種類の組合せを提示させる」から違法なのだ。であれば一種類にすればよいという非常にシンプルな法の潜脱である。

ただ、シンプルなだけに禁止は難しいように思える。あっちこっちの店で配られるスタンプカードや、何度も本当に申し訳ないがヤマザキ春のパン祭りと本質的に何も変わらないからだ。これでも禁止できるんすか消費者庁さんよ、という非常に挑発的な好手であると言える。

有名ブロガーメルマガと芸能人ディナーショーの共通点について

雑談

最近、とみに有料メルマガがブームである。

つい先日も、切込隊長で有名なやまもといちろうさんと金融日記の藤沢数希さんが、相次いでメルマガを創刊した。

その他にも、ネットである程度有名と言われるような人は大抵メルマガを発行している。

いまや、ネット界隈である程度名を上げた末に有料メルマガを始めるという一連の流れは、完全にパターン化されたと言っていいだろう。昔メルマガといえば、メルマとまぐまぐくらいしかなかったが、いつの間にかBlogosも始めているし、他にも新規参入は少なくないようだ。

メルマガに新規参入、何か今更だが。メルマガ、やっぱりブームなんだろう。

有効な課金手段としてのメルマガ

理由は分からないでもない。インターネットでの課金手段というものが限られているからだ。

古くパソコン通信の時代から、インターネットというものは、どうにもこうにも課金との相性がよろしくない。当初から課金を前提に設計されたiモードをはじめとするモバイルインターネットが課金天国として力強く発展したこととは実に対照的だ。

そういう中にあると、「ブログが人気です」「月間100万円PVです」というようなことに仮になったとしても、ともすれば単に「よかったね」というだけの話で終わってしまい、いざ課金と言うことになると「うーん」と頭を抱えてしまうということは多い。のだろう、たぶん。

グーグルのアドセンスに代表されるアフィリエイト広告というのは、現状においてブロクを収益化するうえでの最有力手段なのだろうが、これもイマイチパッとしない。実際問題として、いまご覧いただいている拙ブログ、多いときだと月間に10万近いアクセスがあるが、アフィリエイトの報酬というのは精々5,000円程度でしかない。仮にアクセス数が10倍の100万PVになっても、単純計算で5万円にしかならない。大規模になることによるプレミアムで2倍、さらに効果的な広告設置でさらに2倍になったとしても、20万円である。20万円、まあそこそこの金額ではあるが、月間に100万ものアクセスを集めるトップブロガーの収入と考えると、実に夢がない。うーん。

と、そういうときに頭をもたげる選択肢こそが、おそらくメルマガなんである。

思うに、第何次にあたるのかよく知らないが今のメルマガブームの走りは、堀江さんではなかったか。堀江さんのブログは、月額800円という料金設定で、10,000人を超える購読者を獲得した。つまり月800万円の収入であり、年収で言うと、ほぼ1億円。アフィリエイトによる雀の涙的な報酬と比べると、天と地ほどの差だ。 で、そうした懐事情を、堀江さんがまたわりと明け透けに公言するものだから、その発言ひとつひとつが、まるで海賊王の言葉が男たちを海へと駆り立てるかのように、ブロガーたちをメルマガへと駆り立た。

そう。大メルマガ時代の幕開けである。

みたいな。

まあ、概ねこのような理解である。

今メルマガが流行る不思議

ということで、メルマガを出す方の根本のところにある動機(=カネ)というのは想像に難くないわけであるが、よく分からないことが2つくらいある。

まず、なんで今更メールなのかということ。

これは、テクノロジーの話といえばテクノロジーの話だ。IT業界は日進月歩、次から次へと新しいテクノロジーやサービスが生まれている。先週もこのブログで書いたように、つい2年前に誕生したサービスに800億円もの評価がつき、10年前には影も形もなかったフェイスブックなんていうものが、明日にでも時価総額8兆円で株式を公開しようとしているわけだ。にもかかわらず、である。日本のネット界隈でいま一番アツいのはやっぱりメールマガジンですかね、ってなんかおかしくないだろうか。

別にアイフォンやアンドロイドのアプリでもいいし、キンドル電子書籍でもいいではないか。それこそフェースブックのアプリでもいい。なんでメルマガなのか。動的なコンテンツもなければインタラクティブな仕掛けもない。ただのテキストデータをメールサーバーを経由して送るというだけの原始的な仕組み。どうにもこうにも、ブームとしてはローテク過ぎると思うのである。これが最初の疑問。

それから、メルマガを購読する人が世の中にそんなに大勢いるという事実もよくわからない。だって、高くないか?メルマガ。

先にも上げた堀江さんのメルマガは、確か800円で月に4回発行だったと思うが、肝心の内容は、記憶してる限り、「こんなビジネスモデルが儲かるのではないか」的な講釈や、「勾留中はこんなことしてました」的な回顧録なんかがメインのコンテンツとされていたやに思う。

まあ、「あの堀江さんが注目する新ビジネス!」と煽られればまったく興味がないというわけでもないし、あのライブドア事件という特異な事件を、当事者として、しかも勾留中という特殊な環境下でどのように捉えたのかというのも、知りたくないわけではない。

しかしながら、価値とは相対的なのである。エコノミストでも日経ビジネスでもいいが、世に氾濫する数多のコンテンツの中で、堀江さんのメルマガだけが毎週毎週珠玉であられる蓋然性というのは、無いに等しい。そんな毎週書いてたら当然ネタって切れますよね、と言ってもいい。

にもかかわらず、である。

そこで定期購読を選択する合理性というのは、一体何なのか。

よくわからない。

ブログでは書けない話などとよく言うが、そんなものメルマガでも書けまい。

これら疑問というのは、何かメルマガの購読者を腐すとか、そういう文脈では断じてない。いちブロガーの端くれとして将来的な課金収入の可能性に思いを馳せるとき、読者に提供すべき価値がまったく想定できないという、ある種切実な問題なのである。

プライベート空間とファン心理

ということで、メルマガの何たるかに頭を悩ませ続けていたわけであるが、最近啓示が降りた。

タイトルのとおりである。

要するに、芸能人のディナーショーみたいなものではないのかと。

そう考えると、上記疑問が一気にクリアになる。何故今更メールなのか。これはおそらくプライベートな雰囲気と親密さの演出なのである。

堀江さんのメルマガでは、堀江さんが読者からの質問に答えるというQ&Aのコーナーが最も人気を博していて、毎週たくさんの質問が届き、堀江さん自身がそれに全部答えているようなことを、以前に当人のブログで読んだ。そのときは、結局他のコンテンツが大して面白くないということなのではないかと訝しがった記憶があるが、ファンイベントであれば交流がメインになることは、考えれば当たり前のことだった。ディナーショーにおいて、ステージから降りた芸能人が歌いながらテーブルの隙間を練り歩き、ファンと簡単な挨拶を交わすみたいな風景を夢か何かで見たことがあるが、メルマガのQ&Aコーナーというのは、まさにそういうことではないのか。

メールはローテクだと上では書いたが、メールというのは文化的側面が強いものだ。あれは、テクノロジーの進歩が創り出した新しい概念といった類のものではない。あの便箋のアイコン、カーボンコピーという呼称など随所にみられる紙メタファー、無駄に多い儀礼的なマナーなどから明らかなとおり、電子メールというのは、もともと存在していた手紙の文化を、オンライン上に無理矢理置き換えたものである。

だからだと思うが、メールというのはどうにも相手と向き合う感が強い。オープン⇔クローズという尺度で言うと、WEBが極めてオープンであるのに対してメールは実にクローズドだ。最近はWEBでもSNSなんていうクローズドなサービスが活況だが、それでもまだまだメールよりはオープンだろう。だから、普段ブログを読んでいる相手からメールが来るというのは、読者の視点からすると、結構急激に親密さが増すユニークな経験なのかもしれない。みのもんたの思いっきり生電話にも似てる。

次の疑問に移ろう。なぜメルマガは高いのか。これはおそらく、ファンが相手だからだ。

世間広しと言えども、「腹が減ったから」という理由で芸能人のディナーショーに行くやつはいない。みんなファンだから行くのである。当たり前だが。

次のような話を聞いたことがある。

光GENJI諸星和己は、光GENJIの解散から10年以上たった今でも1万人近いファンクラブ会員を組織しており、当該会員から生じる会費や、ファン向けのプライベートイベント(それこそディナーショーの類だと思う)、グッズ販売によって1億円以上の収入があるという話である。噂話のうえにうろ覚えなので、まったく信ぴょう性には欠けるわけだが、何となくさもありなんという感じがしないだろうか。

このさもありなんな感じだけを頼りに話を進めたいと思うが、要するにこのファン心理というやつは、キャッシュ・フローの源泉としては極めて安定しているのだ。ファンであることがアイデンティティの一部になってしまうと、もう金を払わずにはいられない。

蛇足になるが、このことは、アーセナルヤンキース、それにホークスといった人気スポーツ・チームのスタジアムが証券化され、数十年と言う年限の債券を発行していることからもわかる。

証券化される資産はキャッシュ・フローの安定感が肝だから、普通は例えばロンドンの地下鉄など、そういうインフラ系の案件が多くなるものだが、そうしたスタジアムなどが好んで証券化されるというのは、要するにファン心理というものも、インフラ並みに安定したキャッシュ・カウであると考えられているということに他ならない。

ということは、堀江さんのメルマガも、証券化したら30億くらい調達できるかもしれない。生命保険は必須だ。

メルマガ向き不向き

さて。このように考えると、同じ有名ブロガーでも、メルマガという戦略に向いている人とそうでない人がいるような気がしてくる。

堀江さんは、もちろん向いている。

キャラが立っていて、人気もあるからだ。不自然なまでに合理性を前面に押し出した彼の価値判断は、悩み多き子羊たちにはたまらないだろう。要するに持ちネタがプライベート空間で威力を発揮しやすいわけだ。

そういう意味では、逆にハックルさんや池田先生はあまり向いてないようにも思う。

ファンが多いことに違いはないが、彼らの魅力というのは、あまりプライベートな感じのスペースでは映えないと思うからだ。あの統合されているのか何なのかよくわからないキャラクター、筋が通っているのか通っていないのかよくわからない論理、計算されているのかどうなのかよくわからないファン心理。

ディナーショーというよりは、どちらかと言うと野外ライブみたいな見せ方が向いているんではないか。だから、マネタイズを考えるなら、ファンとのプライベートなやり取りを売りにすると言うよりは、野外ライブの会場でビールを売るみたいなやり方のほうが良さそうだ。なんの例えか知らないが。

あとは、冒頭でお名前を出させていただいた藤沢数希さん。こちらは、かなり器用な印象があるので、まあソツなくこなすだろうという気はするが、一方のやまもといちろうさんの方は、さほど向いてない予感もする。ちょっとハラハラするぐらいの毒舌が売りの彼のブログだが、同じ芸風をメルマガでやると、ただの陰口になってしまわないか。あまりマメにファンサービスをしていく風にも見えないし。ただ逆に真面目な感じでやっていくのかなという感じもする。

ファイナルベント翁も、意外とメルマガで商業化という野心を隠さないが、まああんまり向いてないのではないか。誤解を恐れずに言えば、イメージが暗すぎる。消費意欲を煽らない。まじめに社説の解説とかしそう。おそらく、自分というものを客観視し過ぎではないのだろうか。自分のキャラというものに対するコミットが感じられない。もっとこう、なんと言うか、息をするように自然に友達のような顔ができる人が向いてるんじゃなかろうか。人なつっこいというか。

で、私の中では、断トツ向いてそうなのがちきりんさんだったりする。

アンコールに応えて3回くらい、「そんじゃーね。」とかやるイメージというのだろうか。

あの方は、なんとなくファンサービス向きだと思う。そのちきりんさん、残念ながらメルマガについては発行の可能性すら否定している状況だ。きっとそれには訳があって、おそらくメルマガにリソースを割くよりもブログで広範に読者を集めたほうが彼女にとって便益が高いとかそういうことではないかと推察するが、案ずることはない。メルマガでは社会派の冠は脱ぎ捨てて、おちゃらけ人生相談と旅日記にすれば、ブログの方とコンテンツは被らないし、毎週ネタに悩む必要もない。ファンも喜ぶ。何も問題ない。

ということで、何の話かよくわからないが、ちきりんさんは是非メルマガをやったほうがいいというのが本日の結論である。何という大きなお世話だろうか。

Facebookって要するに何なのという件について

ビジネス

先週、SNS世界最大手のFacebookが写真共有サイトのInstagramを買収との報があると、世の中にはだいぶ衝撃が走っていたようだった。

かくいう私はこのInstagramという会社のサービスを、何となく聞いたことはあったものの使ったことはなく、あまり詳しくは知らなかったので、当初はへえという感想しかなかったのだけれど、後になって詳細を見てみると、なるほど衝撃の内容だったわけである。

というのは、このInstagramという会社、実は創業から僅か2年しか経過しておらず、従業員は13名、売上高はゼロ円なのだそうだが、その会社がなんと10億ドルで買収されたというのである。10億円ではない。いや、10億円でもすごいのだが。さらにすごい、10億ドル。日本円にすると実に800億円くらいである。

売上ゼロの会社で良ければ私がいくらでもつくりますよという感じだが、同社の運営するサービスには5000万人近いユーザーがいるというから、一応納得しておこうか。まあそれでも1ユーザーあたりに20ドル以上払ってる計算だから、割安感的なものは一切ないが。

さらに言えば、Facebookは自身の上場も間近に控えており、これがまたなんと時価総額で1000億ドルとか言うから、もう何が何だかわからない。これがどのくらい凄いかというと、日本企業で言うと、トヨタに次ぐ大きさなのである。日本に3千以上ある上場会社は、たった1社を除いてFacebookよりも価値が低いのだ。一体今まで何をしてきたのか。

まあFacebookの方は、件のInstagramとは違い、ちゃんと売上高を計上していて、利益も10億ドルほど出しているそうだから、わからなくもない評価額といえばそうなのだけど、にしてもその巨大さは私の度肝を抜くには十分だ。代表者で創業者のザッカーバーグは若干27歳にして推定資産175億ドルの大富豪だそうだ。

サバンナ高橋みたいな顔をして、なかなか侮れない男である。


それにしても、だ。こうした話というのは、ちょっと射幸心を煽り過ぎではないかと思うのは私だけだろうか。

上述したようなベンチャーで一攫千金みたいな話がまことしやかに語られると、尊大なるものづくりを担う大メーカーで、額に汗して真面目に働くことがバカバカしく感じられ、「すたあとあっぷ」なる破廉恥な営みにうつつを抜かす不届者が増え、ともすればテレビ局に喧嘩を売った挙句国政選挙に立候補したり逮捕されたりして人生を棒に振ってしまう若者が増えかねないから、こういう設立間もない会社が上場したり買収されたりするときのバリュエーションに際しては、マルチプルに一定の制限を設けるべきであると、私は消費者庁に厳重に抗議したいと思う。嘘だが。


話がそれた。まあ何にしても飛ぶ鳥を落とす勢いとしか言いようがないFacebookなわけであるが、それで結局あれは何なのという疑問は多いのではないかと想像している。

おそらく私より上の世代、30代も後半くらいになると、大半の人はFacebookを使ったこともないだろうし、当然理解は追い付いていまい。そうした人にあっては、よくわからないなりに自身の人生経験に照らし、「まあ光通信時価総額8兆円まで行ったし」ということで、つまるところ「光通信みたいもん」として無理矢理整理をつけている可能性は否定できない。ともすれば、「サバンナ高橋が副業で大当たり」くらいまでこじらせている可能性さえある。憂慮すべき事態だ。いや勝手に想像して勝手に憂慮してれば世話ないのだが、今日は少しこのFacebookについて考えてみたいと思っている次第だ。

Facebookの何たるかというのは、ちょっとわかりづらいと思う。似たような感じで数年前に颯爽と登場したGoogleが、「検索」によって欲しい情報にすぐアクセスできるというわかりやすい価値を提供しているのに対して、Facebookでなにができるのか、又は何が実現するのかというのは、すぐにはイメージしづらい。

例によって例のごとく、ITジャーナリストを名乗る欧米マンセーズは合言葉「世界を変える」を操り、Facebookが人々のプライバシーの概念を変えるとか変えたとか、いつもの調子で沸き立っており、いわゆるひとつの持ちネタの披露に余念がないわけだが、冷静に考えて、プライバシーの概念なるものを変えたから一体何だというのかよく分からない。というか、誰がそんなモノ変えて欲しいと頼んだのだ。実に意味不明である。世界は変えりゃあいいというものではない。望ましい方向に変えなくては意味がないのである。

確かにFacebookは、人がプライバシーを他人と共有することの敷居を限りなく押し下げた。今何してる?という共通の問いかけに呼応するかたちで繰り返される単純なテキスト投稿に加えて、写真共有機能や携帯端末のGPSと連動した位置情報機能などを利用し、ユーザーは余すところなく現在の自分の状況を開示している。

そうして今日も今日とてFacebookでは、
「これ食べました」「いいね!」
「子供かわいいです」「いいね!」
「自己啓発セミナーです」「いいね!」
「実話ですが人種差別をこじらせた厄介な客をスチュアーデスが快刀乱麻です」「いいね!」
と、もう何でもいいのかと言いたくなる空虚なやり取りが繰り返されているわけだ。

さて、あれに一体何の意味があるのか。


Facebookがプライバシー公開の敷居を下げたとして、ユーザーがその仕組みに乗じて本当にプライバシーを公開するかというのは、プライバシーを公開することによって何か便益を得ることができる場合に限られるはずだ。

それは何だろうか。

これについて私は、結局自己同一性の強化ということではなかろうかと思っている。キャラクターの獲得と言ってもいい。

キャラクターなるものがどのようにして出来るかといえば、それはコミュニケーションでしかない。他人からどう見られるかが積もり積もってキャラクターを構成するわけだ。ナンシー関は、松岡修造について次のように言っている。

「テレビの中の自分の面白さ」を語った修造の言葉を総合すると、「笑われているのではなく笑わせているのだ」ということになる。しかし、修造のおもしろさはやはり「笑われる」ところにある。たとえば、芸能人にテニスを教えるというバラエティーの企画。修造は、唐突にピンク・レディーの「UFO」を踊らせ、その振りがテニスのストロークにつながると言う。この部分は、まさに修造が「自分に何が求められているか」を熟考したうえでの「サービス」である。しかし、こうしたサービスの部分がおもしろいのではない。おもしろいのは、そのときに修造がはいているピシッとプレスのきいた真っ白い短パンなのである。こいつ短パン何枚持ってんだ。たとえば、の話であるが。
-ザ・ベリー・ベスト・オブ「ナンシー関の小耳にはさもう」100 p.374

長々と引用したわりにはあんまり関係なかったかもしれないが、要するにキャラクターというのは、自分でつくることはできないということだ。そして、他者がそれをすることもできない。ただその人に対する言及・行動の積み重ねによってのみ、かたちづく"られる"のだ。

これは、まるで潜水艦のソナーのようだ。

ソナーというのは、潜水艦が、例えば敵の潜水艦など、何か水中の物体を探知したり位置を把握したりするために出す超音波みたいなやつのことで、対象物からの反射を計測することによって対象物までの距離や方位を測ることができる。Facebookでのコミュニケーションもこれと同じで、内容に意味があるというよりは、発することや反射すること自体に意味がある。行き交うコミュニケーションのなか、それが通過せず反射する場所、そこに人物がいてキャラクターがあるのである。例えば私は、ご覧の通りブログを書いている。1エントリーあたり、多いときは数百という反応があるが、それらの反応こそがWEB上における私という存在というものをかたちづくっている。なんの反応もなければ、私は少なくともWEB上には存在し得ないだろう。


最近、Facebookは「いい人」ばかりで気持ちが悪いという事案が、たびたび話題にのぼる。

お心当たりがないという人は、以下のエントリーなどを、ご参照いただきたい。

違う自分を演じている〜「Facebook上での友達のふるまいに違和感」34.4% -INTERNET Watch
ひとはなぜフェイスブックで「いいひと」を演じてしまうのか問題 - night and sundial

なぜ「いい人」ばかりなのか。

Facebookではフィードバックに使うコミュニケーション手段が、ほぼ「いいね!」だけしかないわけで、そういう中にあって、すべての人が「いい人」キャラに収斂していくのはある意味必然である。

これが例えば、はてなではお馴染みの「これはひどい!」とか「死ねばいいのに!」とかいう悪意のフィードバックが増えれば、結果的に露悪的な振る舞いも増え、現実社会同様に随分多様化していくことだろう。


それで、結局あれは何なのという当初の疑問である。

Facebookで公開される個々人のプライバシー情報というのは、一昔前であれば、路地裏の井戸端、会社帰りの居酒屋、若しくは自宅のリビングルームと言うところで止まっていた情報である。Facebookは、これらをオンライン上にリプレースした。そうすることによって我々は、空間も時間も超えてプライベートなコミュニケーションに興じることができるようになり、自分の存在をより強固に感じることができることとなったのである。

だから、Facebookの価値というのは、どれだけのコミュニケーションをつくりだしたか、によって測ることができると言える。

そして、そうであれば必ず、彼らが悪意のフィードバックをも自らのシステムに組み込む日というのは、遠からずやって来るだろう。多様なキャラクターをつくれた方が、ユーザーの便益は高いからだ。

そのときはおそらく、その道一筋10年弱、生み出した悪意の数やいかほどかという我らがはてなの買収も現実味を持つことになるのではないか。

なので、はてなは、そうなる前に予め私に株をください。

それからFacebookは、買収を検討する際に"はてなブックマークに満ちる悪意に果敢に挑み、そのマネージメントにはじめて成功したキーパーソン"を自称する頭の禿げた男をアドバイザーとして雇わないように。

以上です(なにが)。

参考

まあなのであんまり関係ないのだけど、面白いので。