エスカレーター止まる派はまだ有効な戦略を打ち出せていない

エスカレーターを利用するとき、立ち止まって利用する人(「止まる派」と呼ぼう)と、エスカレーターが動いている上をさらに歩くという人(「歩く派」と呼ぼう)がいるのである。エスカレーター自体が動いているのだから、その上を歩くということに必然性はないわけだが、エレベーターの中を歩くきまわるのとはまたわけが違うのも事実。階段が動いている上を更に進むことになるから、結果は足し算となる。即ち、目的地により素早く到達することができる。 

 古くから我が国には、止まる派・歩く派の双方が存在しており、エスカレーター上では、止まる派が進行方向に向かって左側に固まり、空いた右側を歩く派が闊歩するというかたちでもって共存が図られてきた。しかしいま、この関係が揺らいでいるのである。

 

最初に断っておくと、私は止まる派の人間だ。しかしながら、本稿は、止まる派の主張を強化するために書かれるものではなく、ましてや歩く派を弾劾する目的でもない。今一度冷静に戦況を眺めんとするものである。

 

さて、長く続いた均衡を打ち破ったのは、止まる派であった。その主張を概観すると、即ち、歩くのは危険であるという論旨が主となる。安全性を人質とした彼らは、リスクに怯える役人のような駅員を空気でもって支配し、エスカレーターは止まって利用することが文明人の姿であると呼びかけるポスターを至るところに展開させた。エスカレーター上は狭いし、混雑するから、立ち止まって乗らないと危ないよと、こう呼びかける。

ただ、危険だろうか。いや、危険の有無を論うべきではないだろう。エスカレーター上で歩いたが故に転倒したという事例は、おそらく存在する。探せば。なので、危険がないとはいえない。ただ、何だってそうだ。問題は、その危険性の見返りとして何を得ているかだ。

ご承知の通り、クルマは危険である。自転車も然り。走れば、転ぶかもしれない。要するに、人間が早く移動しようと思えば、危険はつきものなのだ。エスカレーターも例外ではない。つまり危険だという事実をもって、直ちに歩くべきではないと導くことはできない。「危険な割になんの効果もない」といったように、効果の話をしなければならない。効果はどうだろうか。誰がどう考えたって、歩いた方が早い。つまり、相応の効果はあるのである。

 

止まる派の中には、合理に訴えかけようとする諸兄もいる。即ち、往々にして止まる派が利用すべき左側だけが混雑していて、歩く派の領地はスカスカであるから、右側も止まる派に開放することが合理であるとする主張である。しかしこういった主張に対しては、非常に残念ながら、だったらお前も歩けと言わざるを得ない。混雑の解消が合理なのであれば、全員が歩き、さっさとエスカレーターの利用を終えることこそが合理である。合理に徹してエスカレーター上を突き進む集団の足を引っ張り縮小均衡を目指してはいけない。

 

他方、私などが思うのは、お前ら偉そうに急いでるけどなんかそんなに大事な用事でもあるのかよということである。早く移動するためにはリスクはつきものだというのは先に述べたとおりだが、では早く移動することに妥当性がない場合はどうなるだろうか。その場合は当然、リスクを取ること自体が無駄という判断になる。無駄なリスク負担は、社会悪だ。であれば、早く移動することに関して相応の理由を示すべき。そう考えることは自然である。

例を出そう。あなたはトイレを待っていたとする。男子トイレだ。イベント開催のため混雑しており、数分待って次があなたの順番。そこにある男があらわれる。男は「すみませんが先に入れてください」という。入れてあげるだろうか?では「これから大事な商談があるのだけどどうしても腹痛になってしまってこのままだと商談中に破裂してしまうから、どうかなんとか先に入れていただけないか」と言われたら?何が言いたい例えなのかよくわからないが、理由付けは大事だということだ。

しかしながら、である。しつこいが。しかしながら、歩く派の人々は、本当に急いでいるから歩くのかという点については一考の価値がある。

言ってみれば、われわれ止まる派の歴史認識は次のようなものだ。

もともとエスカレーターには止まる派だけが存在し、平和に暮らしていた。あるときそこに歩く派の集団が押しかけて次のように宣言する。「われわれは急いでいる。道をあけろ」と。平和を愛する止まる派は必死に抵抗するも、激しい戦いの末エスカレーターの右半分を歩く派に奪われてしまう。いまわれわれは不遇の時を経て今一度エスカレーター上に平和を取りもろすべく立ち上がるものである。ニッポンを!とりもろす!と。

ただ実のところを言えばそうした史実を裏付ける根拠はなく、これらの認識は止まる派による捏造であると言わざるを得ない。

エスカレーター上に止まる派だけが存在していた歴史はない。エスカレーター上に原始的存在していたのはカオスであって、平和ではない。止まる人もいれば歩く人もいただろう。何か理由があったわけではない。もともと生まれたときからそうしていたから、引き続きそうしているのだ。あるとき知恵の実を食した若い男女が突然に合理に目覚め人類歩くべしと提唱したわけではない。

 

少し整理をしよう。歩く派も止まる派も何か理由があってそのような行動を取っているわけではない。エスカレーターのアーキテクチャは、いずれの利用法をも許容する。これまでの歴史というのは、単に混沌としたエスカレーター上が整理されてきた歴史に過ぎない。各々が無秩序に歩いたり止まったりしてぶつかり合っていたものを左右に分けることで整理をしてきた。その中で、例えば止まる派の一部が歩く派に転向したとか、逆に歩いていた人が止まるようになったとかそういう行き来があるわけではない。従って、現状における止まる派の攻勢は、長い戦いの一部として語られるべきものではない。歩く派の領地を狙う歴史上初めての侵略戦争なのである。

 

ことほど作用に大掛かりな歴史的聖戦に挑むにあたって、マナーを呼びかけるポスターを貼るくらいでは戦況の好転は望むべくもない。歩く派が転向せざるを得なくなるような絶大な力が必要だ。

なにか。

やっぱり月9じゃないか。そう。キムタクである。エスカレーターの右側で立ち止まるキムタク。隣には山口智子。歌い出す久保田利伸。ちょっと古いか。

今更ながらにシン・ゴジラの感想

先週、いや先々週だったか。どっちでもいいが、超久しぶりにブログを書いた。
バチェラーについてである。なんだよバチェラーって、という感じではあるし、我ながらぬるすぎる構成に雑なオチを取って付けたひどいものだ。反響も、その昔めっちゃ気合い入れてブログを書いていた時期からすれば、比較的少なかったと言わざるを得ない。

ただ、なかなか良かったと思ってる。自分はやはりブログを書くのが好きなのだな、などとも感じている。
何が良かったかって、単に自分が思っているだけのことでも、人目を多少なりとも気にしつつ文章化すると、なんだかスッキリするじゃないか。散らかっている洋服を洗濯して、畳んで、収納する感覚に似ている。そうすると、次に着るときに着やすいのである。先週自らの感想を整理しておいたおかげで、今週のバチェラーは、普段よりもさらに、より素直に楽しめたような気がする。久保くん。ちょっと気抜けすぎ。

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バチェラーは森友学園の夢を見るか

実に久しぶりにこのブログをひらいた。Jリーグを観始めてFC東京のSOCIOになったり、会社を辞めたり、会社をつくったり、ベンチャー企業に参加したりしてたらすっかり時間が経ってしまった。なんと3年半。矢のごとし。

今日、そんなに久しぶりになぜ更新しようかと思ったかと言えば、これがまた本当に大した話じゃないのだけど、バチェラー・ジャパンである。バチェラー・ジャパン。知ってますか?
https://www.amazon.co.jp/dp/B01N6POVWZ/

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ニワカの見たJリーグ その展望と2ステージ制について

過日私は、当ブログにおいて、これからサッカーのニワカファンになろうとする、いわばプレニワカの立場として、ニワカファンへの正しいアプローチとは一体どのようにあるべきなのか、広く教えを乞うた。

詳しくはリンク先をご覧いただければと思うが、プレニワカとして長らくニワカを眺めてきたものとして、海外厨に代表されるような痛いニワカにはなりたくなかったのである。

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場末のダイエット論 精神編

ずいぶん久しぶりの更新になってしまった。夏になると更新が途絶えるのはいつものことだが、今年は途絶える時期がいつもより少しはやめだったように思う。いつもよりはやめに途絶えました、というのもいいんだか悪いんだかよくわからないが。

更新が途絶えたのはおそらくサッカーを観る時間を増やしたせいだが、その話はまた今度にして、今日はダイエットの話を書きたいと思っている。

理由は、正直に言おう。痩せてきたからだ。私が。

ダイエットの甲斐あって少し痩せてきたものだから、ウンチクニュアンス込みの経験談を、場末のダイエット論を、誰彼かまわずに語って回りたいというわけだ。実際、最近の私は完全に「痩せたね」待ちである。もう、待ちガイル状態。ひとたび「痩せたね」が来たら間髪いれずにサマーソルトキック。これ。空中ガードは、なしの方向で。

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アブラハムグループは、いつかはゆかすのか

タイトルに深い意味はないが、「いつかはゆかし」ですっかり有名になった、近頃話題のアブラハムグループ・ホールディングス株式会社及びその関連会社(以下単に「アブラハム」という。)についてである。

アブラハムとは何か。今日はそのあたりを考えていきたい。

理由は、特にない。

近頃話題だから?

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サッカーを観たいんだがニワカにとって安全な入口がどこにあるのかよくわからない

最近、なんかサッカー観たいなって、思うのである。

もともと、決して嫌いではない。

何を隠そう中学時代はサッカー部なのだ。

ただ、その当時サッカー部に出入りしていたコーチ、今思えば単なる近所の暇な大学生だと思うのだが、そいつに意味もなくさんざん走らされた挙句「遊びでやりたい奴はやめろ」などとわけのわからないことを言われた私は、自分とサッカーの関係性を完全に見失い、そそくさと部を退いた。それ以来、なるべくボールには触れないようにして生きてきたのである。

観戦する方についても、専らアジアカップの決勝とか、オリンピックの最終予選とか、要するにそういう本質的にサッカー関係なく盛り上がるイベントに末席で参加するくらい。まあだからつまり、「決して嫌いではない」というレベルだったのだ。

それが今になって一体どうしたのかと言う話だが、これがまた、日本の若い選手たちが頑張っているのが、純粋に嬉しいのである。

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単なる詰まったトイレの修理で30万円近くを支払わされそうになった件について

秒速で1億円稼ぐ条件いや最近、ネットで与沢翼という名前をよく見る気がして、おや誰かな、non-noの専属モデルかなと、なんとなく気になっていたところ、この間暇な時間にそれを思い出したので、ちょっとググって見てしまったわけである。

すると、これがどうやら「秒速で1億円稼ぐ」という大した俗物だったわけだ。

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都心住まいの価値とは何か

みなさんご存知の通り、都心の地代は高い。実に。

しかし果たして本当にそれだけの価値があるものなのか、都心住まいというものは、という話である。今日はそのあたりについて考えてみたい。

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ブログに何を書くべきか

毎年のことながら、気づけば年末になっている。

なぜ別に気を失っていたわけでもなく、毎日普通に生活していたはずなのに、ふと気が付くと年末になっているものかと考えたが、たぶん、夏が長過ぎる所為だろう。

エルニーニョ現象だか地球温暖化だか、詳しい原因は存じ上げない。存じ上げないが、最近、妙に夏が長くなっている。

なにせ10月いっぱいくらいは、平気で気温30度のいわゆる真夏日ラインを超えてくる。10月はいまや夏だということだ。昔は9月までくらいではなかったろうか。そうして10月いっぱいまで夏が続くものだから、ようやく涼しくなったと思うのはつまり11月ということになる。「来月は12月か」などとのんびり構えていると、すぐにその12月がやってくる。すわ年末である。

ご存知かどうか知らないが、当ブログは毎年夏になると更新が途絶えることになっている。これも要するに暑いからである。

純然たる社畜である私は、何を隠そうこのブログの8割を通勤途中の銀座線車内で書いている(残り2割は風呂)。が、夏の銀座線というのは、とてもじゃないが何かをするのに適した環境ではないのだ。あの狭いトンネルに無理矢理詰め込まれた旧式の車体には、暑さに弱い現代人を満足させるための十分にパワフルな空調設備を背負い込むだけのゆとりが、明らかにない。乗客からのクレームに晒され続けた結果だろう。聞いてもないのに、空調の設定が車内アナウンスで再三周知される始末である。車内では単に座っているだけで、汗が噴出してくる。サウナか。

そうしてそこに、クールビズの大号令のもと解き放たれた白シャツの襟元からその縮れた体毛をチラつかせ、 脂滴る肉塊が大挙してなだれ込んでくるわけだ。奴らは、座席に少し空いた隙間でもあれば、その巨体を遠慮なくねじ込む。傍らに人無きが如し。暑いし、臭いし、痛いのである。世に過酷な環境は数あれど、あれほどのものを私は知らない。地獄と呼んで差し支えなかろう。

そう。単なる思い付きの妄言を、ただ気の向く儘に書きなぐっているだけと思われがちな当ブログであってさえも、一応書くためには思索を要するのである。地獄と見紛うほどに過酷な環境では、到底思索などできようもない。できてポケモンのレベル上げくらいなのだ。

こうした状況は10月いっぱい継続して、11月は惰性で休養。漸く更新を再開しようかと思うのが12月なのだ。「気づけば年末」で始まる記事が増えるのも頷けるというものだろう。


さて、このような年次の休養を利用して、今年は少し、ブログについて考えた。

ブログに何を書くべきか、である。

振り返れば、今年の当ブログは、少なくともアクセス数の面から言えば、年初から比較的堅調であった。

アダルトビデオ女優に関する取り留めもない雑感で正月を飾ると、スタバ利用に際してのマナーを問いかけると見せかけてアップル信者を罵倒した。西ではてながCFOを募集していると聞けば便乗して無責任にはてなかくあるべしと語り、東でソーシャルゲームがバブルだと聞けば門外漢の野次馬的立場から野放図に茶化してみせた。こう考えると碌なことを書いていないが、ページビューだけはそれなりに積み上げることができたのだ。残念ながらメルマガブームには乗り遅れてしまったが、メルマガ考察にこじつけて人気ブロガーを揶揄することは忘れなかった。

然し難しいもので、こうして記事を書けば書くほど、そしてそれが文章として成功すればするほど、益々何を書けばいいかわからなくなっていくような感じはあった。段々と字面と私との距離が離れていって、次第に足元が覚束なくなり、ついには何百メートルも上空から小さい紙切れか何かに書き込んでいるような感覚になる。今日に至る長期の休養も、キッカケこそ上述の通り暑さによるものであったが、それが長引いた理由の一つには、こうした心持によるところがあったかもしれない。

どうすれば地に足をつけたまま、ブログを継続していけるのか。

継続するためには、当然成功が不可欠である。

では一体どうすれば、読者の心に残るような成功した文字列を絶え間なく生み出し続けることができるのか。


この問題について、もっとも重要なことは、おそらく、「同じことを書く」ということだと今般思い至った。結論から言えば、である。

ともすれば我々は、毎回毎回、新しい発想や視点、若しくは斬新な言い回しなどを求めがちである。そうした新しい何かを生み出し続けることこそが、継続の意味するところであるとさえ考えがちではないか。水は一箇所に留まると腐るみたいな在りがちな喩えを持ち出してもいい。兎に角、変化の方に重きを置き、変化に乏しい様を停滞と見做して軽んじる傾向がある。やに思う。

今般私が思い至ったことはこれとは逆で、変化に晒されず、同じ状態にとどまること、若しくはそういう要素をつくりあげることこそが、ブログを成功させるための要諦ではないかということである。


このように思った背景はいくつかある。

先日、KindleのPaperwhiteを購入したが、肝心の書籍の方の品揃えが何とも言えない感じなので、藁をも掴む思いでジャンプコミックスの超人気シリーズ、「ジョジョ」の8部を読んでみたのだ。失礼だが。

ジョジョの連載開始は私が7歳の時で、かれこれ25年以上連載しているのに、衰えることを知らない面白さには心底驚かされた。

ただ、そのジョジョも、必ずしも毎回毎回、まったく新しいアイデアが次々に創造されることによって、ここまでの連載を重ねて来たというわけでもない。むしろ逆で、変わらぬジョジョらしさの存在こそがシリーズの人気を担保しているわけだ。

シリーズを通底するテーマは人間讃歌だそうで、なるほど言われてみればそんな気がしないでもないが、なにもそこまで一気に上流に遡ることもない。より表面的な部分だけでも、第3部以降継続しているスタンドという概念や、それを活用したスリリングなバトルは一切変わっていない。微動だにしていない。それを演出するホラー味溢れる重厚な筆致や、臨場感を高める独特の効果音も然りである。ギリシャ彫刻みたいな芸術的佇まいの登場人物たちも、よく見ると大体みんな同じ顔である。

スピード感溢れる描写故だろう、何となく奇抜な展開や表現の斬新さに目を奪われがちなのであるが、真に着目すべきは、実はほとんど同じ内容の繰り返しということの方なのだ。「らしさ」をしっかりと維持しつつ、飽きさせない。制約の力を最大限に利用しながら、読者にその存在を感じさせない。実はずっと同じことを書いているのに、どこか違って見える。

自分の鼻糞ブログと日本を代表する人気コミックシリーズを並べて語るようで大変恐れ多いが、地に足をつけた継続というのは、まさにああいうことを言うのだろうと思ったのだ。


また、それより以前には、爆笑問題太田光が、同世代の芸人数人を評して「(彼らは)まだテレビで面白いことを言おうとしている」と発言したという話を目にしたことがあった。

当時、芸人が面白いことを言わないでどうすると、通り一片に訝しがった私であったが、なんとなく本意が気になって、心に留めていたのである。

かく言う太田光は、「面白いこと」を言う代わりに、粗末なダジャレや、取るに足らないベタなボケを繰り返しながら、現在の地位を築いていった。それこそ四六時中「面白いこと」を言おうと熟慮していた彼のライバルたちよりも、純粋なネタの面白さという尺度では見劣りして然るべきである。にもかかわらず、彼は確かに成功してみせたのだ。何故か。

これは、視聴者が、芸人による単発の発言や動作、及び漫才、並びにコントといった、いわゆるネタのみを消費するのではなくて、寧ろ文脈を消費するからである。「この芸人はこういう人だ」というような、よりメタ的な要素を共有することによって、視聴者は、眼前で繰り広げられるその芸を、より一層愉快に消費することができるのだ。

芸人は当初、視聴者との間で共有すべきメタ要素を持ち得ない。あるのは単発のネタのみである。この段階において、芸人の全神経は、ネタの完成度に対してのみ向けられるべきだ。それこそ、先人たちが繰り広げてきたネタを入念に研究し、それを拡張させ、変化させていく必要がある。

然しながら、ある程度ネタが評価を得、テレビなど各種メディアで露出する機会を得ると、事態は変わってくる。ネタ自体よりも、その背景や人物像を含めた全体を視聴者と共有することになりはじめる。所謂「キャラが立つ」というやつのことで、メタへの移行である。

メタ要素は、芸人のネタを制約する機能を持つ。芸人は、例えば一度かたちづくられた自らのキャラからは、容易に逸脱することは許されない。すべての行動や発言はキャラというメタ要素の文脈で消費される。

その一方で、この制約があるから、芸人は視聴者と文脈を共有することができ、まったくゼロからの積み上げを再現することなく、芸人として芸を継続し得る。要するに、縛り上げられてこそ発揮できる力というものがあるということだ。如何にも変態的であるが。

然し。然しここに、あのほとんど何を喋ってるかも聞き取れないような老人タレントどもが、今だに食いっぱぐれないどころかテレビ界の帝王よろしく大手を降って闊歩できている理由がある。爺さん共のネタはことごとくベタだが、大御所なのに縛られているという文脈のなかで、いまなお映えるのである。


これは、実は人間が存在するということの意味を問う話でもある。

あの人がもしここにいたら。もし仮にこの場に参加していたらきっとこう言うだろうなと周囲が想像するそのイメージこそが、その人の存在なのだ。

イメージこそが存在であり、人体というものはある種、そのイメージをもっともうまく体現するための機能に過ぎない。モノマネと口寄せは紙一重とはよくいったもので、言わないかもしれないが、要は存在の強さなのである。

面白いとは何か。それは、存在の強さなのだ。


何の話だ。ブログの話だった。

ブログに何を書くべきか。

これはやはり、毎回同じことを書くということであるから、つまるところは、毎回武田邦彦上杉隆を嘘つき呼ばわりして、ミクシィの倒産を祈願したうえ、「そんじゃーね」で締めるということに他ならない。

そう。またこのオチである。皆さん、良いお年を。

終末期医療とか社会保障費とかの話

ポケモン育成に尽力するあまりちょっと時間が開いてしまったが、この間、自民党総裁選に出馬した某耄碌都知事のところの放蕩息子が、社会保障費削減の文脈で尊厳死の話題を持ち出したとのことで、ちょっとした騒ぎになっていた。

まあ、そりゃ騒ぎにもなるという話だ。

社会保障費の削減、ならば尊厳死」では、まるで尊厳死の御旗のもとに老人を殺戮すれば社会保障費などいくらでも削減できる、と言っているのとほとんど等しい。何か庶民感覚を一切待ち合わせない中世の貴族などがおもむろに発案しそうな単純さ。

社会保障費が払えないなら老人を減らせばいじゃない」。

「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」というのと、まったく同じ香りを放っているではないか。

あの家系、自らを貴族か何かと思っていてもまったく違和感ないのは確かではあるが、いまは中世ではなく現代。多少自粛して欲しいところではある。

今さら私が指摘することでもないが、人の命というのは、他人が勝手に奪っていいものではないことは言うまでもなく、社会からの要請によって手放さなければならない類のものでもない。結構、大前提の部類だろう。

人が、人としての尊厳を保つために、自ら潔く死を選択する権利はないのか。そのような議論はあって然るべきものとしても、先に述べた大前提を覆すようなことは断じてあってはならないわけで、そこにはまさに超えてはならない一線があるわけだが、あの文脈であの発言というのは、要するに一線の向こう側からにこやかに手をふられる感覚に近く、「えっお前その線…」という感じは否めない。

文字起こしされたもので問題の発言の前後も確認したところ、どうやら当のご本人も、誤解を招く恐れが強いという認識をしていたようではあったが、ではいったい何が、誤解を恐れる彼をして、あのように勇敢な発言に踏み切らせたのかは、依然として謎のままである。別にオフィシャルにしている政策でもないし、誤解される恐れが強いなら、誤解されないタイミング(というのがいつ来るのかは知らないが。)までそっと胸に秘めておけばいいではないか。

まったく。

ゾンビ化する病院

と、ひとしきり自らの良識ぶりをアピールしたところで本題に入る。

件の放蕩息子にあやかって誤解を恐れずに言えば、私は、世の中には、それこそ尊厳死の対象となり得るような寝たきり老人の命を盾にして社会からカネを巻き上げている悪いヤツらがいると思っていて、ソイツらから人質を奪い返すために尊厳死の議論は有用ではないか、とは思う。

ここで言う悪いヤツらというのは、端的に言うと一部の病院のことで、より具体的には、業績が極めて悪い、どう考えても人の面倒見てる場合じゃない病院のことを指す。

これは、少し以前に仕事上の絡みでいくつか経営が悪化した病院の内情というものを垣間見た経験から言うのだが、「病院の業績が悪い」というときのその「悪さ」というのは一般的な事業会社の比ではなく、それ故に腐敗の程度も深刻なのである。

病院の業績が極端に悪化した状態に陥り安い理由は極めて単純で、病院が滅多なことでは潰れないためだ。要するに、病院がなまじっか人の命をあずかっているものだから、債権者としてもそう簡単にはトリガーを引きづらい。自分が破産を申し立てたら、入院患者が全員死ぬかもしれない。そんな懸念を抱きながらトリガーを引ける人は、なかなかいない。

だから、病院は、一般の事業会社であればとっくに潰れているような状況に追い込まれてなお、 未払金を膨れ上がらせながら、さながらゾンビのように生き永らえる。そうして、一般の事業会社では到底辿りつけないような業績悪化の境地まで、容易にたどり着くのである。

ゾンビ病院の内情

ゾンビ化した病院の内部では、当然様々な好ましくない事態が起こる。

好転する兆しのない業績。みるみる減っていく現預金。いったいどうやって資金を手当てしているのかと、貸借対照表の右側を見る。すると、借入金勘定は増えていない。資本調達した形跡もない。むしろ債務超過だ。

増えているのは、未払金だ。ただひたすら積み上がっていく未払金。

私はこれを未払金勘定を活用した資金調達、即ち、未払ファイナンスと呼んでいる。単に払ってないだけだが。

この未払ファイナンスの実態について言えば、資金調達の相談を銀行以外に対して行わざるを得ないような病院の場合、8割は、税金も従業員の給与から天引きした社会保険料も支払えていないと考えて間違いないし、3割は給料の支払い日も翌月末くらいまで引き延ばしている。業者向けだと一番滞りやすいのが給食だろうか。リース料は、滞納すると最悪医療機器を回収されてしまうので、比較的滞納されづらい。しかし酷いところになると病院の建設資金すら未払いで済ましており、人間は一体どこまで無計画になれるのかと問いかけられている気分になる。

未払ファイナンスもついに限界に達すると、保険料の不正請求、病院債の不正発行に手形の乱発という最終ステージに突き進み、さすがにもう潰れるかと思うのだが、それでもやはり潰れない。民事再生手続きを申請すれば大概の債権者が泣いてくれるので、今度はDIPファイナンスとか言いながらのうのうとやっていくのだ。

まさに不死身。恐ろしい話である。

当たり前だが、このような資金的困窮が続く中にあっては、医師や看護師のモチベーションは地に落ち、職業的倫理観は枯れ果てる。なにせ、今日働いた分の給料が、来月無事に入ってくるかわからないのだ。キレイゴトを言っている場合ではないのはよくわかる。

患者に対する扱いは次第にゾンザイになり、果ては患者の財布に手をかけるのである。これは驚くべきことだが、身寄りのない老人で、かつ痴呆が進んでいたりすると、病院にすべてを委ねる他ないから、その預金通帳の残高を守るのは病院関係者の倫理観でしかない。救急車での運搬(長期入院は保険点数が下がるので、他の病院に移される)中にこっそりかすめ取ったりというのは結構ザラで、究極的に酷いケースでは本当に預金通帳と印鑑ごと丸パクリしていることもあると聞いた。

憎むべきは当然罪なのであって、人ではない。誰だって精神的、金銭的に追い詰められれば間違いの1つや2つ犯すことはある。しかし敢えて厳しいことを言わせてもらえば、困窮した病院の従業者には、患者を人として扱うだけの心の余裕がない場合が、少なからずあるのではないかということだ。さすがに財布に手をかけるという一線は踏みとどまったとしても、医療保険によって毎月数十万の現金を生み出す老人を、単なるカネのなる木として扱っているようなことはないだろうか。

淘汰の仕組み

本来、このような病院は、淘汰されて然るべきなのだと思う。

ダメな病院はさっさと潰れ、新しい病院が生まれた方がいい。ところが、既に述べたようになかなかそうはならない。誰も好んで病院を潰そうとは思わないからである。

ここで起こっていることは、つまるところモラルハザードだ。米国で発展したあの大きすぎて潰せない金融機関たちが、国民の税金でギャンブルに明け暮れているように、神聖すぎて潰せない病院は、国民の税金と健康保険料で左団扇なのだ。

もし世の中が十分に裕福であれば、このテのモラルハザードというのは、深刻な問題にはならないのかもしれない。経営の苦しさゆえに一部に歪みが生じてしまっているだけで、基本的に患者を生かすという大きな方向性についての動機付けは成功しているわけだから、世の中の富にゆとりがあるのであれば、問題のカイゼンにあたっては単に医療保険点数をあげ続ければいい。いくら放漫経営でも無尽蔵にカネがあれば、さすがに現場が疲弊しない程度にはうまく回るだろう。うむ。夢物語である。

現実的には、みなさんご存知の通り、年々減少を続ける我が国の税収はいまや風前の灯といった様相なのであり、年間支出額のおよそ半分は、未来からの借金というべきか過去に蓄えた資本の食いつぶしというべきか、要するに国債発行による収入でまかなっている。

予算は限られているのだ。

その限られた予算の中で、なんとかうまくやっていくには、現行の制度は心許な過ぎる。そう思うのである。

医療というものはいったい何なのか。

死に体の病院が保険料目当で片手間に施す延命措置は、果たして医療と呼べるのか。ある程度、人としての尊厳が維持されることが医療の前提であってもいいのではないだろうか。医療としての前提を満たすための十分なリソースを確保できない病院には、潔く市場からご退出いただいた方がいいのではないか。

当然、病院は反発するだろう。

患者を見殺しにしろというのか、と。

それこそまるで、人質に銃をつきつけるように。

でもそうじゃない。患者を助けるためにも、ダメな病院が淘汰されない仕組みは見直したほうがいいだろうと思うのだがどうだろうか。


と、何か誤解も恐れず大上段に構えてはみたものの、特に振り下ろすアテもないので、今日のところはこの辺にして、私はポケモン個体値厳選作業に戻ります。お疲れ様でした。

日本の領土問題についてと残暑お見舞い

それにしても毎日クソ暑すぎてブログを書く筆も進まないが、最近、韓国が妙に対日姿勢を強めている件は、少し気になっている。

いや、本当に「妙に」という感じで、そこに特段の戦略性は感じられず、ただ徒に、若気の至りみたいな雰囲気で粛々とエスカレートしていっているのである。

みなさんご存知のことと思うが、五輪サッカーの3位決定戦となった日韓戦、日本に圧勝した韓国代表の選手は、「独島は我が国領土」とハングル語でかかれた(らしい)プラカードを掲げ、満面に笑みを浮かべながら試合後のスタジアムを周遊した。

領土問題。結構微妙な政治ネタである。

そんなものを掲げながらにしてあの爽やかな笑顔は、敵ながら天晴という気もしなくもないが、単にあの手の主張が韓国国内ではもはや常識のように繰り返されているということなのかもかもしれない。褒めるのは保留にしておこう。

韓国の李明博大統領も、まさに上記日韓戦と同じ日である、日本政府の反対を押し切り、勝手に竹島(独島)に初上陸を果たすと、今度は返す刀で日本の天皇陛下に向かって韓国に謝罪に来いと抜かす始末。しかもその場合は心からの謝罪を求めるという聞いてもいない注釈付きだ。就任当初は「日韓関係は未来志向で」などと言っていたことを思うと驚くべき豹変ぶり。縦横無尽である。

ただ、これまでの傾向からしても、韓国の大統領というのは、国内での求心力が低下すると、必ずと言っていいほど対日姿勢を激化させてくるものだったりはする。一番手っ取り早い人気取りということなのだろう。気持ちはわからないでもない。

だから、そういう意味では李明博大統領の件も、単にご多分に漏れずという話でしかなく、むしろある種の風物詩なのであって、私としても、もうそんな時期かと、とりあえず感慨にでも浸ろうかという構えであったところ、意表をついて今度は香港の活動家が尖閣諸島に突撃してきたとの報である。おや。

さらに、韓国の歌手だかタレントだかは、独島まで遠泳で行くという謎の企画の最中にパニック障害だそうだ。意味がわからない。

そう言えばその前は、親玉プーチン余裕の再選によって目出度く首相に格下げとなったメドベージェフも北方領土に降り立ち、言いたい放題言って帰って行ったそうだ。

被害はなくとも腹は立つ

いま、近隣諸国から次々と我が国領土に訪れる望まれざる客人たち。

当惑を隠せない日本。

この状況を漫然と眺めていて、ふとピンポンダッシュに悩む一般家庭みたいだなと思ったわけだ。

その心は、と言うと、要するに大した被害はない割に、無性に腹が立つということである。

ピンポンダッシュ。インターホンが鳴ったので玄関を出てみても誰もいない。まあ確かに面倒くさいといえば面倒くさいので、それが被害と言えばそうなのだけど、モノを盗られるわけでもなければ、壊されるわけでもない。つまり、大した被害はない。

それでも無性に腹が立つのは、ピンポンダッシュをする側が、それを楽しんでいそうだという想像によるところだろう。こちらに大した被害がなければ、あちらにも大した利益などないはずなのに、じゃあなぜあちらがそんなことをするかと言えば、こちらの反応を楽しんで、嘲っているに違いないのだ。もっと言えば、あちら側の仲間内では、実行犯を称えたりしているに違いない。こういう推測が平静を失わせる。

件の問題に関しても、冷静に考えれば、韓国の大統領が竹島に上陸したところで、我々に何か被害があるわけではない。もともと実効支配はあちらにあったりする。

しかし、だからこそ腹立たしいのである。意味もなく上陸。挑発以外の何者でもない。絶対バカにしてるだろという話なのだ。

あれはやはり、一種のピンポンダッシュに他ならない。

何か、問題がグッと身近になった感じがする。

ピンポンダッシュへの対処

しかしピンポンダッシュ。その解決は意外と難しい。ピンポンダッシュを嗤うものはピンポンダッシュに泣くのである。

まず、中途半端に怒るのは逆効果と言わざるを得ない。なぜなら、やつらはスリルを求めているのだから。

ピンポンダッシュをする側からすれば、「おやめなさい」と冷静に諭されるよりも「コラーッ!」と来られたほうが俄然テンションが上がるし、「ゥウォノレラアアアァァァ!!!」と来られればなおさらだ。手に竹刀でも持とうものなら完璧だろうか。そうして晴れて地域の名物オヤジの誉に授かった不運な中年は、生涯を不毛なイタチごっこに費やすこととなる。

おそらく、「怒鳴る」というのは、相手を撃退するというよりはむしろ、自分がスッキリしたいがための行動なのだ。要するに、相手はスリルを感じ、自分は怒鳴ってスッキリする。なんていうことのないWin-Winである。お互いがお互いの需要を満たしつつ、イザコザは半永久的に続く。

日韓で高まる緊張感とは裏腹に、両国首脳の支持率は目下上昇中らしい。つまり、そういうことなのだ。

それはそれでいいし、実際問題として国際政治の舞台では、数多の問題がそのようにして止揚されているのだろうけど、もし問題の解決を望むのであれば、やはりこれは悪手であると言わざるを得ない。

敵を追い払うのであれば、もっとこう、スリルどころではない明確なリスクを感じさせる必要があるのだ。

そういう意味では、ピンポンダッシュを犯人の学校にチクるというのは、「先生に怒られるかもしれない」というリスクを顕在化させるという意味で、割と有効な手段となり得るが、件の領土について言えば、ちょっかいを出して来ているのはあの国の大統領なのであり、要すれば、ピンポンダッシュの犯人は校長先生でしたみたいな話なので、応用は難しい。学校には頼れない。

学校もグルだったとなると、警察に相談しようかという案がよぎるが、警察は基本、民事不介入である。ちょっとやそっとのもめ事程度ではその正義を行使しないという問題がある。まるで、本件問題に関して静観の態度を崩さない米国のように。

よって、警察沙汰を望むのであれば、必然的にイタズラの更なるエスカレート、被害の拡大を待たねばならないということになる。しかしそれはそれで、本末転倒ではないのか。

放っておけばただのピンポンダッシュで済んだかもしれないのに、敢えて放火を煽ることもない。犯人は無事、警察権力に屈したとしても、自分の家が焼けてしまっては元も子もない。言うまでもないことである。

そう。結局ただのピンポンダッシュにリスクを感じさせるといっても、 もともと大した利益が見込まれる行為でもないわけだから、 本質的に大したリスクはないのだ。とするとつまり、何らかの働きかけによってやめさせるというのは、意外とハードルが高いということになってくる。

反対に、押してダメなら引いてみろとばかりに、いっそ受け入れてみるという案もあるだろうか。

しかし、軒を貸して母屋を取られるという諺もある。

最初はただのピンポンダッシュと思っていたらいつの間にか住み着いて、終いには権利書を奪われるということもあるかもしれない。あまりつけあがらせるのもやはり、考えものなのである。

最終手段

押してもダメ。引いてもダメ。いまや問題は迷宮入りの様相だが、最終手段はあると思っている。

引越しだ。

出来の悪い小学校や中学校の通学路、それも学校のすぐそばさえ避ければ、ピンポンダッシュの被害になど遭いようもない。やつらも別に、たまたまそこに家があったからイタズラしているだけで、我々個人に恨みがあるわけではない。さすれば、引越し先まで付き纏われる道理はない。

イタズラ程度のことで引越しまでするというのは、情けないと思うかもしれない。しかし、思い切りが大事だ。ちょっとした不満でも、積もり積もれば、いつかあなたの血管を破裂させるかもしれない。だったらさっさと引っ越してしまったほうが、被害は小さくて済むのではないか。

相手をギャフンと言わせてやりたい気持ちはわかる。イタズラには屈しない強い自分が大好きなのもわかる。しかし、健康のためにも、余計なストレスや悩みの種は可能な限り抱えるべきではない。

結局、この手のイタズラというのは、ある程度は、目を付けられた不運を呪うしかないのだ。根本的な解決を望むのであれば、多少の犠牲は厭わず、思い切った決断を下すことが必要になる。


そうだ。日本も、思い切って大西洋あたりに引っ越せばよいのだ。

そう思い立ち、マイホームを狙う主婦の眼差しで、改めてグーグルマップを眺めていたら、意外と良さそうな物件があった。

アイスランドである。

アイスランドと言えば、イギリスの北西に位置する島国で、これといって特徴のない漁業国だったが、先の金融危機で一躍有名になった。リーマン破綻前、極端なカネあまりから生じた過剰流動性は世界の隅々にまで行き渡り、各地で変調を起こしていたが、アイスランドはその最たる例となったのだ。

そのカネあまりを背景に、自分たちでも短期資金であれば結構調達できるということに気がついたアイスランド人は、とにかく借金をしまくると、なるべく高い金額で、あらゆるアセットを買い漁った。例えば、イギリスの銀行や、サッカーのクラブチームなど。

そうしたアセットを仲間内でグルグル廻しながら、資産規模を膨れ上がらせ、経済成長を偽装、さらなる資金を呼び込むと、ゲレンデを転げる雪玉のように肥大化していき、アイスランドの株価は3年でほとんど10倍になり、GDPも4倍くらいに急成長、ついぞIMFの人だかに「アレは国というか巨大なヘッジファンド」と言わしめるに至る。国内では、それまで漁師だった人が突如として銀行家に生まれ変わる事案が相次いでいたという。

このような突発的で実態と乖離した経済成長がどのような行く末を辿るのかというのは、日本の歩んで来た道を例に出すまでもないだろう。バブル崩壊。経済の破綻。そして後に残る莫大な借金である。一人あたり33万ドルという途方もない借金だけが残ったアイスランドでは、国外移住の希望者が殺到したらしい。


まあ、住民の方には失礼だが、この国だったら、多少カネを積めばなんとかなるんじゃないのかと思ったのである。

日本よりちょっと狭いものの、東京の都心部みたいなテンションで詰め込めんで行けば、きっと何とかなる。そうだ。グリーンランドの一部も貸してもらって、農地にしよう。

気候的には、暖流が通っているから、高緯度の割にはそこまで寒さは厳しくないらしいが、とは言え、さすがに日本より寒いのは寒そうだ。

ただそれも、最近の日本は、それこそまともにブログを書く気も失せるほどに暑すぎるので、かえってちょうどいいだろう。


ということで、少し話が逸れたが、厳しい残暑が続く中、読者の皆様におかれましては、くれぐれもご自愛ください。

参考

絶好調時のアイスランドの破天荒ぶりに関する記載が愉快な同著は、サブプライム危機の内情を綴った名作「世紀の空売り」の続編。ブーメランというのはつまり、アメリカを震源地とする金融危機が欧州に飛び火し、また戻ってくるのではないかという話だろうか。上述したアイスランドに関するくだりも、同著を参考にさせていただいた。ただまあ、ひとことで言うなら、前作の方が面白かった。

なぜいま「スタートアップ」なのか

リアルスタートアップ ~若者のための戦略的キャリアと起業の技術~大先輩の塩野先生がまた本を上梓されたとのことで、早速購入して拝読させていただこうと目論んでいた矢先、なんとご本人様からご著書をお送り頂いたわけである。

渡りに船。いや、実に有難いことなわけだが、こんなときは、ブロガーの端くれとしては、やはりあのひとことを言わねばならない。

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