それってアービトラージなのかなっていう

本当は先週アップする予定だったものがすっかり遅くなってしまったけど、いつも小器用な文章と池田信夫先生仕込みのエクストリームな経済理論を操り、はてなのブックマーカーを爆釣りしている自称米系投資銀行勤務の天才クオンツトレーダー(そこまで言ってないか)の藤沢数希さんが、孫正義氏による自然エネルギー財団の設立について、いつにもまして気合の入った素敵なエントリーをあげておられるので、ぜひご注目いただきたい。

金融日記:孫正義の秘密のアービトラージ

曰く、「熱せられた石炭が熱放射によって煌々とオレンジ色に輝くように、孫正義の小さな体の中にある巨大なエネルギーは、隠し切れずに、その特徴的な前頭部からある種の赤外線を発していて、インターネット空間のツイッターを通して、僕の皮膚をも温めているかのようだった」そうで、確かにこのエントリー自体何か得たいの知れない熱気を帯びている気もする。まあそんな素敵な文章なのだけれど、枝葉末節の部分にいささか違和感があって本エントリーを書いているわけである。

藤沢氏が言うには、孫正義氏の狙いは「クロスボーダー電力アービトラージ」なのだそうである。通常は送電ロスによるコストを考えると電力のアービトラージは実現不可能であると断ったうえで、孫正義氏による奇跡のスキームを次のように説明している。

まずソフトバンク傘下の電力を大量に消費するデータセンターなどを韓国に移し、そこで大量の電気を韓国で買う。一方で、日本ではメガソーラー発電施設を建造し、極めて高い電気を地域独占の半官半民の電力会社に好きなだけ売る。これによって、日本海の国境を渡って韓国から日本に電気を運ぶことなく、実質的に韓国で買った電気を、極めて高い値段で日本国民に売りさばくことが可能になる。

金融日記:孫正義の秘密のアービトラージ

同エントリーでも簡単には説明されているが、アービトラージというのは要するに同一商品の価格差を利用して利鞘を稼ぐ取引のことである。

例えば、日本と欧州でリンゴの値段が全然違って、欧州ではリンゴが日本の1/10以下の金額で取引されていたとすると、欧州で買ってきたリンゴを日本で売れば鞘を抜くことができる。これが原始的なアービトラージだ。

ところが、上で紹介されている韓国で電力を買って日本では売るというスキームは、どうもこれとは勝手が違うように感じる。韓国で買って日本で売っているのだから「実質的に」鞘を抜くことができるのだと書いてあるが、あまり合点がいかない。

まず、韓国で買う量と日本で売る量がまったくバランスしない。ソフトバンクのデータセンターの電力消費量について正確なところはまったく存じ上げないが、あれだけの規模の会社のデータセンターであれば相応の規模だろう。一方で、国内における発電は自然エネルギーということだが、自然エネルギーによる発電というのはどうやら「技術的にも経済的にも」難しいもののようだから、あまり大規模な発電能力は期待できないのではないのか。いくら価格差が大きかろうが、買う量より売る量が少なかったら、あまり儲からないのではないか。

逆に、もし国内の自然エネルギーによる発電が、韓国で購入する電気量に近しいものであるなら、つまり自社のデータセンターの電力をまかない得るものであるなら、自社のデータセンターを自家発電にすればよいだけの話ではないか。それができないから、安い電力料金を求めて態々韓国まで出張るのである。

また、韓国で買った電力は、すべてサーバーの駆動のために消費されるのであって、日本の電力事業とは何の関係もない独立した取引だ。

これはつまり、リンゴの喩えで言うなれば、日本のリンゴ農家が欧州に行ったときにリンゴを買って食べた、いや日本ではリンゴを売ってるのだけどねという特に面白くもない小噺のような状況に近い。

確かに、態々欧州に行ってまでリンゴを食べる理由が、リンゴを食べずには生きていけないが国内で食べると高いから だとすると、必要な費用を削減するというかたちで「鞘を抜いて」いるのだから、アービトラージ的だと言えなくもない。ただその場合、欧州でリンゴを食べることによって鞘を抜く主体が日本でリンゴを売っている必要はまったくない。

要するに、孫正義氏が電力料金のアービトラージをするためには、日本で変な財団をつくって電力事業を行う必要はまったくない。単に電力料金の安い国でデータセンターを運営して、ローコストでオペレーションされるホスティングサービスなりデジタルコンテンツなりを日本に輸出すればそれでアービトラージは成立、めでたしめでたしだと思うわけである。

確かに独立した取引を組み合わせるタイプのアービトラージも金融業界にはあって、例えば三菱UFJの株を買う一方でみずほの株を売るという取引がそれだ。これらはそれぞれが独立した取引として成立しているが、アービトラージに分類される。この取引のカラクリは、2つの銘柄の間に統計的に相関性があることであり、つまり統計的に異常な水準まで価格がかい離した時に高いほうを売って安いほうを買う。要するにかい離率が統計的に正しい値に収束することに賭けるわけだ。よって、この場合はかい離が収束するからこそ収益が生まれるのであって、かい離が「永久に縮まらな」かったりしたら大失敗なのである。

■■

ということで、孫正義氏が自然エネルギー財団を設立する狙いは電力のアービトラージで儲けるためだというのには強い違和感がある。もし孫正義氏が自然エネルギー固定買取制度の実現などを通じて日本の電力料金を吊り上げて何か得をするとしたら、それは競合他社のコスト増ではなかろうか。NTTやKDDIが高い電気料金に苦しむ中、自社だけが安い電気料金を満喫できれば、素晴らしい優位性を確保できる。

ただこれも、NTTなどの競合がデータセンターを海外に移設しないという前提があってこそ成り立つ戦略である。現実的にはそのような不確かな前提のもとで自社が採用する戦略を決定することはあり得ないから、この仮説もイマイチ説得力に欠ける。

結局のところ、孫正義氏はロマンチックなだけではないかと思ってる。日本のみんなが困ってる。ワシが立ち上がらねばならんじゃろうが!みたいな。日本版ノブレスオブリージュというか。

最近の事案で言うと、松本復興相による恫喝事件(大袈裟?)からの連想で注目された「えせ同和行為」の方が余程アービトラージぽい事案である。

えせ同和行為(えせどうわこうい)は、同和、部落を名乗る個人あるいは団体が、企業団体に対し同和問題への取り組みなどを口実とした賛助・献金を要求したり、企業・行政機関等の業務に差別問題を当てつけて抗議を行い、示談金名下にゆすり・たかり等の不当要求をする行為である。
また、同和利権に絡み、公共事業等への不正な参画を目指す行為も同義として扱われることもある。これらの犯罪行為を行う団体は暴力団と密接に関わっていることが多いため、警察などの監視対象となっている。

えせ同和行為 - Wikipedia

要するに、同和や部落民の被る差別等の損害について、実体と世間によるイメージに乖離があるからこそ利権が生まれるのである。差別の損害がまったくないわけがないことは自明である。ところが世間がイメージするところよりは少ないから、世間からの賛助や献金が損害を穴埋めしてなお余ることとなり、その余りの部分がある種の利鞘であり利権なのである。

2011年度総選挙振り返り(AKB)

今年もはやいもので総選挙の季節がやって来て、気づけば終わっていた。AKB48については「AKBバブルの終焉 - よそ行きの妄想」に「AKB48に学ぶ証券化の基礎技術とCDO48 - よそ行きの妄想」と、2度にわたって駄文を連ねており、あろうことかそれなりにご好評をいただいた感もあるので、調子に乗って先日の総選挙なるイベントについて感じたことを書いておくこととしたい。毎度のことながら、ファンでも何でもない人間が外部から難癖をつけるというのがそもそもエントリーの趣旨なので、ファンの方は気分を損なう可能性があるため、最初に謝っておきます。スイマセン。

柏木3位

さて、AKB48の総選挙と言えば毎度目を見張るのがトランチングの効能である。AKB48のメンバーが総選挙で高順位につけると途端にかわいくみえてしまう現象を、本質的に似たようなリスクであってもシニアと聞くとエクイティよりリスクが低い気になってしまうというファイナンスのマジックに準えて、私はトランチングと呼んでいる。

このたび、柏木由紀なる娘が前回8位から急伸、前田、大島の二大巨頭に次ぐ3位につけたという。これをもってこの微妙なルックスの少女が晴れてトップアイドルの仲間入りを果たすこととなるわけであるが、AKBで3位というカタガキがなければ、一体だれがこの娘がトップアイドルの器であると見抜くことが出来るのだろうか。

ファンがその器を見抜いたからこその3位なのだという反論があろうが、そもそもファンがファンたりえたのも、AKBとしての露出があってこそなのである。知らないが、この人の人気は、単に見た目だけによるところではないのだろう。いや、見た目だけでは説明つかな過ぎる。失礼だが。何かしら、見た目ではないキャラの要素によってここまで上り詰めてきたと考えることが妥当だろう。いや、失礼だが。

元来、アイドルの成否と言うのはルックス軸に対して効率的であったはずだ。どんなにキャラが立っていようが、ルックスでまず足きりがあって、そこを通過しなければキャラを活かすこともできなかったはずなのだ。AKB48というシステムは、この不文律を見事に打破したと言える。

普通に考えて、一部の熱狂的なマニアに担がれることと世間に認知されることの間には越え難い隔たりがある。AKB48のシニア・トランシェたちがその隔たりをやすやすと超えて行くのは、偏に総選挙と言うこの拝金主義的な仕組みがあるからに他ならない。世間は、選挙と銘打っておきながら実は票がカネで買えるという民主主義の原則をまったく無視したこの邪悪な集金システムに嫌悪感を抱きつつも、多くの貢物をかき集めたトップランカーたちを認めざるを得ない。これはつまり、キモヲタとパンピーが金銭を媒介にして価値を伝達し合うことに成功したのだと言い換えることもできよう。

かくして、ヲタによるヲタのためのイベントでしかないはずであった総選挙は金銭のチカラによって世間の注目を集めることとなり、トランチングの効能は計り知れないものとなる。AKB48のシニアトランシェであると告げれば、何も知らないパンピーが勝手に大騒ぎをして大量消費するわけで、もはや素体となるアイドルなど誰でもいいわけだ。AKBの箱の中に適当に何人かアイドルの卵を詰めておけばキャラは適当に割り振られ、選挙をすれば誰かが必ず1位になる。それで十分なのだ。

前田1位

今回トップの前田敦子は、昨年こそ大島優子に次ぐ2位の座に甘んじたものの、一昨年もやはり1位であるから、今回は王座を奪還したかたちである。ただ、私は前田と大島の争いにどういったコンテクストがあるのか、一切知らないければ興味もない。私が認識するのは、前田敦子が14万もの票を集め、1位の座を戴冠したという事実のみである。

14万票。1票1,600円らしいから、実に2億2千万円である。1か月足らずで2億を超える貢物を集める能力を有した人間は、世界広しと言えどそういまい。銀座のホステスなどにおけるマンション買って貰っちゃった的な事案を遥かに凌ぐ規模感である。今回2位の大島は「票数はみなさんの愛」と表現したが、まさにその通りだ。ホストが誕生日にシャンパンの塔を築くのとまったく同じなのであって、要するに愛は金銭によって形式化されることによって交換可能となるのである。

惜しむらくは、ヲタの愛を媒介した大量の音楽CDが、何の用途もなく部屋の押し入れに眠ってしまっていることだろう。楽曲の複製が書き込まれたメディアを個人が複数所有することに何の意味もなく、それはまるで金銭によって形式化された愛の抜け殻とでも言うべき存在である。これ、どうせだったらもうちょっと意味のあるものを使えばいいのに(外部経済的なのに)と思うのは私だけではあるまい。いっそのこと、マンション買ったら10万票!とかしたらどうだろうか。住めるし。

板野8位

最後に板野友美にも触れなければなるまい。他メンバーに先駆けて華々しくソロデビューをかざり、CMなどでも大活躍の板野は、パンピー向けの
露出が段違いに高く、私の周囲のニワカも押しなべて板野推しである。興味深いのはその度合いがオヤジになるほど高いことだが、これは、あの判で押したようにいつも同じな何かに挑むような感じの表情と、オヤジのスケベ心のプロトコルが偶然一致したということなのではないかと思っている。

ともかく、ファン層を大きく広げた板野は総選挙でも順位を伸ばすのだろうというのが常識的な下馬評であったが、ふたを開けてみれば前回4位からのまさかの4ランクダウン、第8位であったわけだ。実に興味深い結果ではないだろうか。

結局、選挙の仕組みを考えれば明らかな通り、板野についた客のカネ払いが悪かったということなのだろう。スケベオヤジは一見カネ払いが良さそうだが、キャバ嬢という貢ぎ先をすでに持っているから、板野までカネがまわらなかったのではあるまいか。そもそも推しメンのランクを押し上げるというストーリーが実利主義的なオヤジにはあまり魅力的ではなかった可能性もある。

いずれにせよ板野としては、選挙などでない方がよほどチヤホヤされるだろうから、もうAKBは辞めるしかないだろう。辞めないにしろ徐々にフェードアウトしていくのではないか。以前、当ブログに「板野友美のソロデビューは、AKBという企業体におけるレガシーコストをカットするための布石だ」というコメントが寄せられた時は、あまりのエクストリームさに度肝を抜かれたものだが、現実はまさにそのようになっている。

そしてこれは、捉え方によっては、キモヲタが世間やオヤジに迎合した板野を許さなかったというふうにも見ることも出来る。他のメンバーに対して積極的に投票すれば板野の順位を相対的に下げることができることは明らかで、パンピー及びオヤジ不在の総選挙でキモヲタが連帯すればそのくらいのことができそうな予感はする。何たる負のパワーか。

結果として板野がソロでやっていけるかどうかはわからない。高須クリニック的なクラスターではひとつの成功モデルとして捉えられている節もあるようなので、そういうキャラを濃くしていけばイス取りゲームの芸能界でも固有のポジションを確保していけるのかもしれない。ただ、再三申し上げている通り、個々ではイマイチなものを集団にすることで抽象化して(誤魔化して)売り出すというのがAKB商法の根幹にある限り、卒業は死を意味する確率の方が高いだろう。

大枚をはたいてヲタが手にしたものは、AKB48というエコシステムにおける正義だ。ヲタに迎合しないものはヲタによって葬られるのである。

キャラ化する企業

先日の「日本のベンチャー企業に見られる3つの類型 - よそ行きの妄想」というエントリーは、印象だけでテキトーに書きなぐった割には770ものブックマークを集めてしまい、誠に恥ずかしながら当ブログの最高記録となってしまったわけだが、あのエントリーを書きながら、ふと企業にとってもっとも重要なことは、製品でもビジネスモデルでもなく「キャラ」なのではないかなどと思ったわけなのである。

重要性が高まるキャラ

キャラが重要視されること自体は、特段珍しいことではない。

中学や高校の教室を思い出してほしい。それこそ、エリートやヤンキー、オタクといった基本分類からはじまって、モテキャラやアイドルキャラ、毒舌キャラに天然キャラ、キモキャラ、いじられキャラなど、各人に固有のキャラが割り当てられ、キャラの優劣によっていわゆるスクールカーストがかたちづくられていく。

各人のキャラは一度割り当てられると容易に変更することは難しく、キャラからはみ出した言動をとることも基本的には許されない。最近では「キャラ疲れ」なる言葉もあるようで、キャラを演じるのに疲れたという症例が学生などに増えているそうだ。

芸能界でもキャラが重要であることは言うまでもない。というかむしろ、芸能界で行われていることが、学校で行われていることのモデルになっているのかもしれない。

芸能界には同じキャラは何人もいらないという基本ルールがあるから、新しい人が売れるには、すでに存在するキャラをより洗練させて、というかキャラを濃くして前任者を駆逐するか、これまでになかったキャラを新たに創造(イノベーション)するしかない。先日メチャイケのオーディションを見ていたら、単なる巨乳アイドルだけではキャラが弱いから亀甲縛りをミックスしましたと宣う明らかに二流っぽいタレントが出演していて思わず引いたが、ことほどかように「キャラのイノベーション」は袋小路にはまっているということなのかもしれない。

テレビというのは、そういう意味で、新しいキャラのモデルを売っているところなのだと考えることもできる。テレビで新しいキャラを仕入れた視聴者たちが、それを自らが所属するコミュニティに持ち込むわけだ。

キャラが大事であることはブロガーも然りであるから、私も他人事ではない。いっとき極論キャラが複製され過ぎた時期があって、ブロゴスフィアは極論で埋め尽くされていたが、いまではむしろあまりストレートな極論というのはみかけなくなってきた感もある。いやそうでもないか。

キャラが求められる理由

さて斎藤環によれば、キャラとは「同一性を伝達するもの」である。同一性の考え方が難しいので同氏の著書から少し引用しておこう。

異なった場所で同型の車をみかけたとしてみよう。このとき、僕たちは「車の同一性」を認識できるだろうか。むしろ「よく似た車だな」と思うのではないか。しかし、もし異なった場所で同じ外見の人物を認識したなら、彼(女)は、ごく自然に、同一の人物とみなされるだろう。
これは僕たちの現実認識において、人間にのみ強い固有性が与えられているからだ。哲学的な問題としては、もちろん車に限らず事物の固有性を取り扱うことは可能だ。しかし僕たちの日常問題においては、事物の固有性は、それが人間に関連づけられない限り、ほとんど問題にならない。

キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人(双書Zero) p.235

基本的に事物を機能で捉えるとき、固有性は失われる。同じ機能さえ持っていれば、違う個体であっても同じものとみなすことができる。車で言えば、同じ車種はすべて同じ車になってしまう。もっと狭い意味で、ある固有の車が同一性を保つためには、"Aさんの車"というように誰か人間に紐づけるか、もしくは擬人化して"車たん"のようなキャラをつくるしかない。キャラが同一性を伝達するとはこういう意味だろう。

とすると、我々がキャラを求めるのは、自らの同一性を伝達したいがためということになる。ただ上の引用部からも明らかなとおり、人間の同一性というのは、もともとそこら辺の物体などに比べれば充分担保されているということになっている。にもかかわらず、いまキャラの重要性が高まっているとすれば、それは我々の同一性が何か危険に晒されているということなのかもしれない。

これは私の推測だけれど、我々の同一性を脅かすもののひとつは、やはり機能であると思う。社会が複雑化するに従って、我々はますますシステムの一部に成り下がっている。システムは複雑かつ巨大であり、我々の挙動がシステム全体に影響を及ぼすということはほとんどない。既にみたように、事物は機能で捉えられると固有性を失う。おそらく人間とて例外ではないのだろう。

「自分が死んでも替えはいる」に対抗する手段が、他人と被らない「キャラ」なんではないか。

企業とキャラ

で、企業である。

キャラが立った企業というのは、要するに同一性が保持された企業なのであって、語られる時間や空間や文脈が異なってもそれらが同一の企業であると人々が認識できる企業である。企業にとって、そういう特性を持つことは極めて重要なことである。

繰り返しになるが、我々は複雑で巨大なシステムに接続するにあたって、自らの同一性を本質的に認識できない。できないから、我々はキャラをこしらえる。それでも足りない分を、社会との接続ハブである企業に対して仮託するのではないか。

だから企業のキャラが立つと、まず採用が有利になると思う。その企業に所属することで、要するに自らのキャラが立つことにも繋がるのだから。これは、先のエントリーで解説したヤンキー的な価値観を媒介にベンチャー企業に結集した非エリートがチーム的な連帯感で恍惚とする現象とまったく同じだ。

同じ理由で、最終的には企業のキャラ自体が、製品やサービスの付加価値になる。いま、世界で一番キャラが立っている企業と言えば、やはり米国アップル社だろうか。少なくとも現状だけ見れば、アップル社の製品を持つということは、消費者にとって自らをアイデンティファイするためのひとつの手段となっているように見える。

ただ、アップルについて言えば、もしジョブズがいなくなったらと考えると、あれはアップルのキャラが立っているというか、ジョブズのキャラが強過ぎるだけという気もしなくもない。その場合は単に「Aさんの車」という方法で車に固有性を持たせる例と同じで、「ジョブズの会社」だから意味があるということになり、会社自体が何らかのキャラを持っているということではないということになる。奇抜な本社ビルの建設などは現行のキャラをジョブズ以外のものに紐づけようとしているのかもしれないが、それがうまく行くかはよくわからない。悪い方法ではないと思う。

まあ、キャラというかブランドイメージのことでしょと言われればそれまでのような気もする。けれど、ブランドイメージが良い悪いで捉えられがちな一方で、キャラは被る被らないで捉えられるから、やはり少し違うものだとも思うわけだ。今後ますますグローバル化が進むだろう経済を舞台に、企業間でキャラのイス取りゲームが繰り広げられると思うと、なかなか悲愴感があってよろしい。

参考

キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人(双書Zero)
斎藤 環
筑摩書房
売り上げランキング: 3937

表紙の絵がなんとなく池田信夫センセのtwitterアイコンに似た感じなのが若干気になるが、内容は面白かった。結論は要するに上で引用してしまった部分、即ち、キャラとは同一性を伝達するものだということに相違ないわけだが、そこに至るまでの推論や考察にも読みでがある。あとがきによると実に8年もの歳月をかけて世に出されたのだそうだ。

読んでみればわかるが、キャラとはなにかという問いは、要するに人間とは何かという問いなのであって、もしあなたが暇ならば、時間潰しにはうってつけの題材であることは間違いない。

人間の必死さが織りなすコント的なものについて

民主党が政権交代を果たしてしばらく経ったくらいからだろうか、私の政治に対する興味は急速に失われつつあり、最近はニュースもあまりチェックしないのだが、先週末くらいからあまりにも各方面が騒がしいので見てみると、なにやら鳩山元総理が、辞めるといっておきながら辞めない人はペテン師だの何だのと騒いでいる。何のことはない新手の自己紹介ネタかと思ったが、どうやら管総理のことを言っているらしい。

菅内閣に対する不信任案提出を巡って、一時は民主党内からも不信任案に賛成する意見が乱れ飛ぶなど、管総理は絶体絶命の危機に陥ったものの、時期が来たら自ら退くので不信任案賛成はちょっと待ってくれと話を持ちかけて、鳩山前総理との間でスピード合意し、苦し紛れの急場凌ぎで何とかその場をやり過ごすと、今度は一転辞めるとはいったがいつとは言ってないという子どもじみた詭弁を弄し、だらだらと政権に居座る姿勢を見せはじめ、ようやく騙されたと感づいた鳩山前総理がペテン師だと叫んでいるということのようだ。さらに言えば、いつも通り裏で糸を引いているつもりでいた小沢元幹事長は、管・鳩山合意のあたりから話を聞かされていなかったらしく、どういうことだと怒っているというのだから、いよいよわけがわからず、ただのコントと評さざるを得ない状況に陥ってる。


ところで、ペテン師オチのリアルコントで思い出したが、何年か前にある非上場企業の株主総会に出席した時も非常に完成度の高いコントを拝むことができた。

その株主総会は、議案からしてそもそもコントの設定じみているわけだが、確か創業者の背任だか横領だかが発覚したから、その会社の事業を創業者以外の役員が用意した新会社に引き継がせ、その会社自体は清算するという話であった。割を食うのは株主で、払い込んだ資本は創業者に使い込まれるわ、新会社の株式は持てないわで散々な目に合うことが約束されており、株主総会が紛糾することは疑いようがなかった。

よって他人の揉め事が大好きな私としては、期待に胸を膨らませながら株主総会の会場に向かったわけであるが、果たしてその株主総会は期待に違わぬものであったのである。

会場には数十人の株主がいたと思う。非上場会社の株主総会としてはかなりの規模である。その中でも明らかに異彩を放つグループがあったので気になって会社関係者に聞くと、どうやら創業者の関係者だそうで、予め当該株主総会の議案には反対の意思表示をしているということだった。要するに株主総会の運営を妨げ、議案の成立を防ぐ目的で会場に来ているわけで、言うなれば一種の総会屋なのだが、そのグループが特殊だったのは、何故かメンバーがおばさんばかりだった点だ。総会屋と言えば強面の男性という既成概念に捉われていた私には、なかなかのアハ体験だった。

さて、議長が定刻を告げ株主総会がはじまると、さっそく飛び出したのは議長解任動議である。議長は普通定款の定めに従って社長が務めるものだが、お前では信用ならんからおれに議長をやらせろというのが、議長解任動議である。ただ、この動議なるものは立派な名前がついている割には株主総会の運営側としては特別取り合わなくてはならない理由はないという代物で、基本的には単に無視されるだけの相撲で言えば”猫だまし”のような奇手である。

議長解任動議は事前に想定された範囲だったのだろう。議長はそれをセオリー通りに落ち着いて無視すると、株主総会を進行していった。議案説明の合間合間に挟まれる創業者の悪事に関する述懐はどこか情緒的で涙を誘う。自分たちも株主のみなさまと同じで被害者なのだ、もう会社は清算するしかないのだと繰り返し語られる。このあたりは、まあ普通だったと思う。

会社側の言い分がひととおり語られると、ついに質疑応答からの採決である。資本を拠出していたベンチャーキャピタルなどからいくつか真面目な質問が出た後、真打ちは登場した。異彩を放つ総会屋崩れ集団の親玉らしき人物が語り始めたのだ。メモ片手に語られた内容は、なにやら新経営陣が事業を引き継ぐ際に支払う対価は不当に安いとか、株主総会の招集手続きが適法になされていないとか、確かそんな感じであったと思う。いや実をいうと内容はほとんど覚えていない。親玉が何か喋るたび、一味のおばさんたちがいちいち野次というか合いの手をいれてくるのだが、総会屋というよりむしろ商店街の祭りの打ち上げみたいで、想像されるおばさんたちのセルフイメージとアウトプットされているもののギャップが激しすぎて、私は笑いを堪えるのに必死だったのである。

まったく緊迫感のない野次に耳を傾けながら、なぜ今日あのメンツが集まってしまったのか、突然欠員が相次いでしまったから最寄駅で急きょ募集したのだろうかなどと、奇妙な総会屋集団に関する思索にひとりふけっていると、それまで会場の後ろの方でじっと息をひそめていた別のおばさんが突然立ち上がって叫んだ。「ペテン師!ペテン師吉田!!」まさかの急展開である。

突然の出来事に一瞬呆気にとられたが、その後話を聞いてみると、どうやらその創業者の関係者成る人物に、その会社の株を売るなどと言われ、カネをだまし取られたのだそうだ。要するに、ただの未公開株詐欺事件だった。

ペテン師吉田は、詐欺の負い目がありながら何のためにノコノコ株主総会に出てきたのかよくわからないし、仲間がおばさんばかりになってしまった理由も結局わからず仕舞いである。突然叫んだ詐欺被害者のおばさんも、なぜあんなにもドラマティックでセンセーショナルな手法で詐欺を明るみに出す必要があったのか、今となってはよくわからない。ただみんな、何かを必死に考えた結果、ああゆう行動になったということなのだろう。

で、私の感想としては、申し訳ないが大変面白かった。

思うに、必死さと可笑しさというのは紙一重なのである。人間は必死になればなるほど笑いを誘うもので、既に万策尽きた感溢れる民主党も、そういう意味で良質のコント題材であることはある種の必然なのだろう。ちきりんさんが指摘する通り民主党の先生方は、次の選挙までになるべくポストを回さなくてはならないわけだから、みんな必死なのだ。


ということで何の話かはよくわからないが、とにかく民主党政権、飽きのこない政権である。

政治がぐっと身近になった気がする。卑近とも言うが。

持たない、稼がない、稼がせない

月日が経つのははやいもので、気付けば前回ブログを更新してから2週間以上経っているし、2011年も半分終わろうとしているし、21世紀もすでに11年目なわけだが、幼い時に夢見た明るい未来とは違って現実が随分陰鬱かつ暗澹としているので、陰鬱ついでに今日は少し陰鬱な予言をしてみたいと思う。

椅子取りゲームの時代

その昔、マルサスは著書「人口論」のなかで、人口は急激に増加を続けるから供給が追いくことはなく、人類は常に飢餓に直面し続けるという陰鬱な予言をした。マルサスの死後、主に技術革新による生産性の向上によって供給量は需要量の増加を上回って増え続け、現代に至るまで貧困は暫時解決に向かっているから、要するにこの予言は見事に外れたわけだが、今日においては全く逆の理由から似たような陰鬱な予言をすることができる気がしている。即ち、生産性は向上し続け経済の産出量は増大するから、人類は常に失業に直面し続ける、という。

生産性が向上すると、同じ量をつくるのにも労働力が余るというのは当然のことだが、新しい産業が芽生えれば余剰な労働力を吸収しながら、さらに経済を発展させることができる。一次産業から二次産業、二次産業から三次産業、最近では情報通信やソフトウェア関連の産業が四次産業と呼ばれるらしいが、生産性が向上するにつれて産業が高次化してきた。ただ、高次の産業ほど一人あたりの生産性が高く、それ故必要とされる労働力が少ない傾向があるように感じるのである。

例えば、Google情報通信産業を代表する世界的な大企業だけれど、従業員はたった2万人程度しかいないという。世界中の数億人のユーザーを虜にするWeb検索やWebメールなどの革新的なサービスが、たった2万人によって提供されているのだ。amazonにはGoogleよりも若干多くの労働者が就業しているが、それでも3万人程度である。ちなみに我が国が誇るスーパーコングロマリット日立グループの連結従業員数は30万人超だが、時価総額ではGoogleの1/10しかない。

よって、世界的にみても労働需要(採用枠)は減り続けるのではないかと感じているところであるが、日本国内に限ればその傾向は更に顕著である。四次産業などと呼ばれる産業の代表的な企業はほとんど米国に集中していて日本国内ではほとんど育っていないし、二次産業でもアジアの安い労働力に職を奪われている。いま国内で積極的に労働力を確保している産業というと介護くらいだが、介護という仕事は何かを生み出しているというか、社会的なコストなのであって、その薄給ぶりたるや目を覆うばかりである。

供給量が需要量を超えたそのときから、生産性の向上は失業の原因であり続ける。世界に先駆けて成長がとまってしまった我が国日本では、ワークシェアが高度に発達した結果、米国よりも失業率は低くおさえられているが、そんな日本でもついに失業率の高まりが問題化してきた。来春の新卒内定率は、前年よりなんと12.6ポイントも低い35.2%だそうだ。そして今後もグロオバルな資本競争の結果、生産性は向上し続けるだろうから、失業率の悪化という傾向はこの先もずっと続くのではないだろうかと思うわけだ。

これはつまり、完全に椅子取りゲームだ。21世紀は椅子取りゲームの時代なのである。

新しい道徳

さて、新しい時代に必要となるものは新しい道徳である。今日は新しい道徳に関するいくつかのアイデアをここで披露してみたいと思う。

それはまず、持たないことだ。

椅子取りゲームの時代では、持つことは悪しきことである。持つことには流動性のリスクがつきものだ。家でも車でもいいが、一旦持ってしまうと、すぐには換金できない。明日には仕事を失うかもしれないというのに、流動性のリスクは命とりである。シェアリングやクラウド型のサービスを最大限に活用して、持たない生活を心がける必要がある。家はシェアハウス、車はカーシェア、書籍や映像、音楽などのコンテンツについてはクラウド型のレンタルサービスを活用すれば、生活を圧迫する固定費はずいぶん削減することができる。

更に言えば、仕事においても正社員というポジションに慣れてしまうとそれを失ったときに路頭に迷ってしまうので、ノマドのようなワークスタイルの方が実は環境の変化には強い。家族も旧世代的には魅力的なオプションだが、新時代では重荷でしかない。バーチャルリアリティソーシャルネットワークの活用によって、代替するべきである。最終的には自らの身体からも抜け出し、サイバー空間を漂うようにして生きるということが新時代における理想的なライフスタイルである。

次に、稼がないこと。

持つことをやめればそこまで稼ぐ必要がなくなるということもあるが、そもそも椅子取りゲームの時代にあって、他人よりも多くを稼ぐということは、他人を出し抜き、蹴落とし、騙し搾取することに他ならないのであって、極めて非道徳的である。我々はいくら貧しくなったとしてもそうした悪行に手を染めてはならない。ボロを着てても心は錦というやつである。

基本はやはりワークシェアだ。メールは非常に便利なコミュニケーションのツールだが、便利さに胡坐をかいて無駄に生産性を向上させてはならない。メールの利用に際しては、個人情報保護などの屁理屈をこじつけて、二重三重の宛先チェックやプロクシサーバーを活用したセキュリティ体制の構築を義務付けよう。そうすればまた雇用を生み出すことができるではないか。当然、そうして生み出された雇用は何を生み出すものでもないから、言うなれば一脚の椅子に複数人で腰かけるような行為に他ならないが、椅子が減っていくのだからしようがない。仲良く分け合うしかないのである。

当然、他人にも稼がせてはならない。

もし、自分だけ稼ごうなどという非道徳な輩がいたら、我々は全力でその足を引っ張る必要がある。これは嫉みではない。新しい道徳であり、社会正義だ。新時代においては、ものを所有することよりもむしろ、ものを創り出すことのほうが希少な権利となるのだ。他人の権利を踏みにじるような行いは、糾弾されて然るべきである。

新規事業やイノベエションの類についても、同じことだ。既に述べた通り、産業の高次化による発展が必然的に失業を生むのであるから、産業の高次化自体が悪なのだと断ぜざるを得ない。そういう時代遅れの戯言にうつつを抜かすアントレプレナアたちには、我々は無言の圧力をもって「空気読め」と言わなければならない。特に目立った派手な起業家がいたら、社会正義によって司法を突き動かし、牢屋に送ってしえばよい。社会正義の前には些末な法律論など実に無力である。そうすれば、前時代的な<優秀な起業家>たちは恐れをなして発展途上国などに逃げていくに違いない。

豊かさの新機軸

持たない、稼がない、稼がせないという生活を続けていると、物質的な豊かさを実感する機会は次第に減っていき、終にはまったくなくなるので、なかには心まで貧しくなっていく人も出てくるかもしれない。そんなとき、新しい豊かさの尺度として重要な意味を持つのは、おそらく「身体」だろう。人類は宇宙に出てはじめて地球が青く美しいことを発見したわけだが、これと同じように、我々はサイバー空間に進出することで、身体の意味を発見するのである。

情報通信技術がますます発達すると、我々が「ここにいる」ことの価値は薄れていき、「連絡が取れる」ことによって代替されていく。私が物理的にどこに存在しようが、Facebookの「友人」たちは、サイバー空間上に存在する私を身近に感じることができる。このことは私の身体にはもはや何の重要性もないことを意味するわけだが、重要性が失われたからこそ、身体は新しい意味の舞台になり得るのである。

SF小説などではしばしば、脳だけが異様に発達して身体は退化し、身体の諸機能をテクノロジーによって補完している人類の未来像が描かれるが、これはたぶん身体の重要性の低下にとらわれ過ぎている。おそらく実際にはまったく逆のことが起こるだろう。未来の人類は、きっとまったく重要性の失われた身体を、まるで箱庭でもいじるように丁寧にケアし、健康で屈強な肉体に人生の豊かさを見出しているに違いない。

というわけで、豊かさを求めて今週から朝のジョギングをはじめてみましたという話に繋がる。

ゼビオの店員さんによれば踵のクッションが強い方が初心者にはいいそうで、上のAdidas Boston 2を購入した。日本の靴にしては少し幅が狭いので、足の幅が広い人はいつもより少し大きめのサイズを選んだ方がよいだろう。陰鬱さに苛まれているみなさんも是非早起きしてジョギングをしてみよう。

6/9追記

靴、まだ1足も売れてないよ!

ソフトバンクに見るスマートさの秘訣

ソフトバンクの2011年3月期の決算が発表された。業績は絶好調らしく、同社としては初の売上3兆円を達成だそうで、何やら景気がよろしい感じなので少し覗いてみたわけである。ソフトバンクとはあまり縁のない人生を歩んできたので、決算書を見るのはもう何年振りかというような気もする。

ソフトバンクと企業買収

というわけで、ソフトバンクの決算短信を見てみると、セグメント別損益の説明に大胆にページが割かれており、否が応でも目に入ってくる。その注目の内容は概ね以下の通りである。

移動体通信事業というのが、要するにボーダフォンの買収で新設された通信キャリア事業だが、同事業による売上高および営業利益が全体の64%を占めている。さらに、2010年3月期からの売上高の増加分については、ほぼ完全に同事業の伸びによるものとなっている。ソフトバンクの成長をけん引しているのは、間違いなくこの移動体通信事業だ。

ソフトバンクにとってボーダフォンの買収は大きな賭けであったことと思う。1兆7千億円という買収金額は日本のM&A史に残る巨額なもので、国内のLBOとしては過去最大ではないだろうか。そしてソフトバンクは、今のところ、この賭けを成功させていると言っていいのだろう。ボーダフォンソフトバンクモバイルとして生まれ変わり、周囲の予想をはるかに超える成長を遂げている。上の表を見れば明らかなとおり、この1年だけでも営業利益が1.5倍になっているのだ。いまソフトバンクモバイルを買収しようと思ったら、きっと1兆7千億円では全然足りないだろう。

ボーダフォンだけではない。固定通信事業を担うソフトバンクテレコム(旧:日本テレコム)もヤフーも、全部買収してきた会社だ。ソフトバンクが高成長を実現してこれた最大の理由は、間違いなく企業買収にあると言ってよいだろう。

ちなみに、ソフトバンクは、もともとは社名の通りPC向けパッケージソフトの卸売を行っていたわけだが、一体あれはどこに行ってしまったかのと思えば、どうやら”その他”に入っているようだ。この”その他”セグメント、子会社数では96社と実に全体の8割以上を占めるが、売上的には全体の1割ちょっとしかなく、なんとなく捨てるに捨てられないものをしまっておく倉庫のような、実に物悲しさを感じるセグメントである。

ソフトバンクはM&A業界の白眉

さて、私は別にソフトバンクが本業を捨て、買収に次ぐ買収で成長してきたことを嘲りたいわけではない。まったく逆で、ここまで何度も大型の買収というか投資を成功させていることに心底感服しているのだ。

企業買収というのは言うほど簡単ではない。投資に際して企業の成長性を判断するためには市場や業界の動向に関する深い理解が不可欠だし、買収した後も対象会社のハンドリングには様々な課題があることが常である。さらに、”いい会社”であればあるほど買収金額は高騰するから、元を取るためにはシナジー効果の発揮など、あらゆる価値創造の仕掛けを活用して対象会社の利益を伸長させなければならない。

一般の人はむしろ成功例の方を多く見るだろうから、M&Aの難しさと言われてもピンと来ない方もいるかもしれないが、業界的には、成功するM&Aは2割未満だと言われている。8割以上のM&Aでは、価値が生み出されるどころか損が発生しているということだ。そんな中で次から次へと巨大なM&Aさせるソフトバンクは白眉な存在なのである。

ソフトバンクのようにあれだけ巨大な企業買収をいくつも成功させているような会社は、考えてもなかなか浮かばない。海の向こうにはウォーレン・バフェットという怪物投資家がいるが、実績だけ見れば、孫正義はバフェットに匹敵する投資家ではないかとすら思う。

孫正義とバフェット

ところがその割に、孫正義にはなぜかスマートで知的な印象がまったくないという点が実に不思議ではないだろうか。例えば、バフェットが敬愛の念を込めて「オマハの賢人」と呼ばれるのに対して孫正義は親愛の意を込めて「禿」と呼ばれている。

孫正義とバフェットのイメージの間に横たわる巨大な溝。私はこの土日を使って、恵比寿ガーデンプレイスでビール片手に、必死でこの謎に迫ってみた。しかし恐ろしいことに、「見た目」以外の答えはまったく浮かばなかったのである。twitterでも質問してみたが、帰ってきた答えは、「老けてるから」(ビジュアル)とか、「頭が宣教師みたいだから」(ビジュアル)とか、「ハゲタカを連想させるから」(ダジャレ)とか、見た目に関するものばかりだった。

なんだろうか。結論としては実にパワー不足であるが、これだけ偉大な実績を積んでも全く覆らないほどに、見た目のイメージというのは実に強固なのだなあと思うわけであり、人は見た目が9割というのはまあよく言ったものだと思うわけである。

「もしも孫さんが佐藤浩一だったら?」もしソン。RT @chnpk: 見た目説強すぎ。RT @aqrcity 見た目RT @CHNPK ソフトバンクの孫さんて、あんだけ買収成功させてるのはホントに凄いと思うんだけど、なんかスマートなイメージないよな。なんで?

Twitter

もし、孫正義の外見が佐藤浩市だったら、ソフトバンクのイメージはどのようなものになっていたか。みなさんも考えてみて欲しい。

日本のベンチャー企業に見られる3つの類型

ということで、先日のエントリー「木村剛はなぜ暴走したのか」からの流れで、「ヤンキー的なもの」を求めてナンシー関を読んでみたわけである。

ナンシー関は、横浜銀蠅を論じる文脈において、「銀蠅的なものを求める人は、どんな世の中になろうとも必ず一定数いる」と述べ、次のように続けている。

銀蠅なきあと、世の中は無意識のうちに銀蠅の代わりを探していたようにも思える。これは私の個人的見解だが「X」や「BUCK-TICK」などの売れセンヘビメタや、工藤静香の方向性、THE虎舞竜のヒット、一部の素人女にみられる露出狂の域にまで達したボディコン(というよりコスプレ)文化などの根底に、いずれも「銀蠅の魂」が流れているように感じられてしようがないのだ。
現在、不良の傾向は「ツッパリ・ヤンキー」ではなく「チーム」みたいなことになってるみたいだけど、世の中が(意識下で)連帯するのはやはり「ツッパリ」なのだと思う。日本人に愛されるのはやはり真木蔵人(チーマー系)ではなく、的場浩司辰吉丈一郎(ツッパリ系)であることは確かだ。

ザ・ベリー・ベスト・オブ「ナンシー関の小耳にはさもう」100 (朝日文庫)

非常に鋭い指摘ではないだろうか。ここで語らている「銀蠅的なもの」、「銀蠅の魂」を、便宜上「ヤンキー的なもの」として扱うが、さてこの「ヤンキー的なもの」は実にさまざまなかたちで世の中に現れてくる。ナンシー亡き後も、亀田一家や氣志團(DJ OZMA)、そのものズバリのゴクセンなど、世を席捲した「ヤンキー的なもの」は枚挙に暇がない。

一方、ナンシーも指摘する通り、いわゆる暴走族形式の典型的なヤンキーを見ることは今ではあまりなくなってしまった。特に都心では皆無と言っていい。あの集団を突き動かしていた膨大なエネルギーは一体どこに行ってしまったのかと疑問に思っていたところ、ふとあの渋谷〜六本木あたりに生息するベンチャー企業の群れのことを思い出したのである。

ヤンキータイプ

日本のベンチャー企業というのは、多かれ少なかれどこかヤンキー的である。特に渋谷系USEN宇野氏を筆頭にサイバー藤田氏、GMO熊谷氏に共通する、あの「若いときはちょっとヤンチャしてまして」感。たしか誰かの著書に記載があったと思うが、あの辺のメンツはみんな一緒にダイヤルQ2で小遣い稼ぎをしていた仲間で、そこで蓄えた小銭を元手に現在に続く事業を興したという武勇伝があったやに思う。実際、昔はヤンチャだったのだ。

それから、仕事を通じて自己実現みたいなノリ。大企業のエリートに一泡吹かせたがる反骨精神。更に言えば奥菜恵を嫁にもらう派手好きさ。

このあたりの雰囲気というのは、社の隅々まで行き渡っており、まるで金太郎あめのように社員の誰と会っても感じることができる。

また、妙に仲間意識というか連帯感を重んじるキライもある。サイバーエージェントのビジョンには、モロ「チーム・サイバーエージェント」と書いてあったりする*1。あなたね、暴走族じゃないんだから。

もう1世代前だと光通信があるが、ここも凄い。何せ携帯電話とコピー機のトナーを売り続けてはや幾年、気合と根性だけで売りも売ったり年間3,500億円だ。イノベーティブな技術や巨大資本の後ろ盾などなくとも、気合と根性があれば世の中十分にわたっていけるということを示している。

あと、このあたりのメンツに混じった時のドリコムの”舎弟”感も相当凄いと思っている。完全に印象だけどベンチャー企業には歴然とした先輩後輩関係があって、第4世代などと呼ばれるドリコムは要するに末席なのである。

エリートタイプ

で、こうしたヤンキーと対をなす集団がある。

「エリート」。言わずと知れた優等生タイプである。

ヤンキーが感性や根性を重視するのに対し、エリートはロジックやフレームワークなど学習したことを重視する。

ベンチャー企業は大概がヤンキー的で、あまりエリートの雰囲気を感じる企業は少ないが、その中ではマッキンゼー出身の南場女史率いるDeNAがなんとなくエリート的だ。儲かるビジネスで冷静に儲ける小賢しさがある。何かにつけて計算高く、ロジカルにものを考えている印象で、行き当たりばったり感や気合で乗り切る感に乏しい。

携帯の無料ゲームサイトとしては後発のグリーに一旦は捲られるも、地道に客単価を吊り上げ、こっそり抜き返したかと思うと、いつの間にか収益的には倍近い差を付けるなど、やることにいちいちソツがない。以前に自社のプラットフォームにゲームを提供する開発会社に対して、優越的な立場を利用し、他プラットフォームへのゲーム提供をやめるように圧力をかけた問題が報じられた時も、南場女史は「あら、国内にライバルなんていたかしら(証拠はあって?)」という風情でシラを切っており、実に嫌味なエリートという感じであった。

他方、微妙にわからないのが楽天で、三木谷さん自体は興銀出身だし、エリートと言えばエリートなのだろうが、体育会系のイメージが強すぎてイマイチ判別できない。

楽天テナントのサイトの色彩がいちいちデコトラじみているのが若干気になると言えば気になるが、あれはヤンキー趣味というよりはマーケティングの結果という気もする。

大企業系列の社内ベンチャー系も、当然エリートに分類される。ただ、なんとなくエリートの手先という感じだが。

オタクタイプ

ところで、ミクシィはどう考えてもベンチャー企業だが、ヤンキー臭くもなければエリート風でもない。ミクシィを分類するなら、オタクと呼ぶのがもっとも適切だろう。

オタクは、コミュニケーションが不得手な代わりに、特定の専門分野に関しては深い造詣を持つ。ただ、半々の確率でコミュニケーション拙者が単に逃げ場としてオタクであることを選択するから、そういう場合はヤンキーに引け目を感じており、頭が上がらないことが多い。そういう意味ではオタクとヤンキーは同じヒエラルキーを構成している仲間と言える。いわゆるスクールカーストでも、オタクはヤンキーから2〜3枚落ちる下位層に位置する。

ミクシィ絡みで面白かったのは、笠原氏と奥菜恵の熱愛疑惑が報じられたときだ。奥菜恵は言わずと知れたサイバーエージェント藤田氏の前妻で、笠原氏は藤田氏とも親交があった。当時の私は「オイオイ、オタクが先輩(ヤンキー)の元カノを略奪ですか、カネがあると人間違うね!」と一人で勝手に盛り上がっていたが、一瞬で笠原氏から「そのような事実はまったくございません」が放たれ、事態は収束してしまった。一度や二度のIPOで得たあぶく銭程度では覆らない、動物的で本能的な序列の存在を垣間見た気がしたのである。

そんな笠原社長のパーソナリティを反映してか、ミクシィ自体も実に大人しい印象の会社である。ミクシィがM&Aをしたことがあっただろうか。私の記憶する限りはただの1件もない。IPOで調達した資金も何に使うでもなくタンス預金で、粛々と日記コミュニティサイトと人材紹介のサイトを運営している。極めて地道。真面目。目立たない。

ミクシィ以外では、ライブドアも結構オタクだったと思う。まあ、堀江氏の、オンザエッヂが上場した当時の金八先生みたいなへアスタイルを見て、堀江氏自体がオタクであることを否定する人はいないと思うが。ライブドアは、M&Aなどを担うファイナンス部門だけがヤンキー的だったんじゃないだろうか。オタクがヤンキーを従えて、道路を蛇行しながらテレビ局などのスーパーエリートに喧嘩を売っていたわけだ。そりゃ逮捕もされるというものである。逮捕というか補導だな、あれは。

一応のまとめ

以上、完全に印象だけで話を進めてきたので何の自信もないが、日本のベンチャー界にはエリートとヤンキーとオタクという3種類の企業があると言える。

3つのうちで一番数が多いのがヤンキーなわけだが、これは考えてみれば当然のことだ。我が国では、エリートコースという言葉の意味するところがそれ即ち大企業での出世であるから、ベンチャー企業に集まる人材は必然的に非エリートが中心となる。「ヤンキー的なもの」は非エリートが自らをアイデンティファイするための最適な価値観なのだ。

元暴走族のヘッド矢島金太郎が、熱いハートや筋の通った考え方などといったわけのわからない力を操ってエリートサラリーマン共を蹴散らし、出世街道をばく進する様にカタルシスを覚えるのは、読み手が非エリートだからである。

我が国の学歴社会ぶりは世界でも有数で、数年の受験戦争が人生の大半を左右する。そこでの落伍者が「学校では教えてくれない大事なこと」を求めてヤンキー道を進むのはある種の必然であり、社会全体として見ても必要なガス抜きなのである。

「ヤンキー的なもの」とはつまり、「エリート的なもの」に対するアンチテーゼである。ヤンキーが「粗暴だけどほんとは優しい」とか、「ワルだけどカワイイ(ファンシーな)とこもある」などといった二面性を重視するのはこのためだろう。上で述べた通りだ。学習することでエリートに敵わなかったヤンキーたちは、容姿を筆頭に、気合や根性や熱いハート、人としての筋など、なんとなくより本質的な感じがするもので勝負したがるのである。

オタクは元来能力が特定の方面に特化した天才タイプを指すが、近年インターネットの普及によって概念としての「オタク」が一般化したことに伴い、エリートにもヤンキーにも成りきれなかったいじめられっ子タイプが大量に「オタク」に流入し、玉石混交を極めた。よってオタクの大半はヤンキーの手先に過ぎないが、マレに天才タイプがいるという状況になっている。

読者の皆様におかれましては、もしベンチャー企業への投資を考えるようなことがあれば、大部分を占めるヤンキー系企業(手先としてのオタクを含む)は捨て置いて、極マレに混じっているエリートタイプか天才型の純オタクタイプを探すと良いだろう。

参考

ナンシー関は有名なので知ってる人も多いかもしれないが、同著はどうでもいいけど言われてみれば確かにそうだよねという考察で溢れている。どうでもいいついでに似たようなものを並べて、上記のようなエントリーを書くこともできるという優れものである。

*1:それ以外にも「ライブドア事件を忘れるな」というのは果たしてビジョンとしてどうなのというのもある。

資本を恐れ私欲に共感する社会

いわゆるライブドア事件の裁判で、ライブドアの元CEOである堀江貴文氏による上告が棄却されたようだ。堀江氏としては一応異議の申し立てを行う意向があるようだが、これはほとんど形式的なもので、司法の判断が覆る可能性はほとんどゼロであるから、事実上、懲役2年6月の実刑が確定したと言ってよいのだろうと思う。

ライブドア事件については既に語られ尽くしている感もあり、もしかすると当ブログ読者の皆様も食傷気味なのかもしれないが、旬のネタということで私も少し思うところを書いてみたい。

ライブドア事件に関するお茶の間の認識

よくライブドア事件と山一證券や日興証券などの粉飾事件とを比較して、量刑の妥当性を問うたり、恣意的で情緒的な司法判断を憂う論調を見るが、私はこれは少し違うと思っている。想像するに、ライブドア事件に関するお茶の間の認識というのは、山一證券や日興証券などよりはむしろ、円天などに近いものではないだろうか。

一般論として、本当は有望な事業など何もないのに、あたかもそれがあるかのように装って投資を募り、集めた資金を別のことに流用したら、それは詐欺だが、2004年当時のライブドアに、現に収益の柱であり、また将来的にも有望な事業があったかというと、私はなかったと思う。ライブドアと言えばポータルサイトが有名だったわけが、ただでさえ先行者利得が働きやすいネットサービス業界において、圧倒的な先行者であるYahoo!の前で、独自の存在感を出すことはできずにいた。かろうじてブログサービスではそこそこのプレゼンスを保っていたが、収益化には至っていなかったと記憶している。

当時のライブドアにあったのは、根拠のはっきりしない期待感だけだった。それが堀江氏の大言壮語によるものなのか、M&Aや株式100分割に代表される活発な資本政策によるものなのか、はたまたネット企業全体が注目を集めていた中の単なる一社だったのかはわからないが、ライブドアは業績のわりに高い株価を維持していたと思う。

この当時、膨れ上がった期待感と現実の業績との隙間を埋めるために画策されたさまざまな手法が、後に証券取引法違反偽計取引の罪に問われる原因となったものである。それは、例えば株式交換した相手から買い取った自社株式の売却益を傘下のファンドを通じて売上高に計上することであったり、買収予定先の会社から自社に発注させ、売り上げを水増しすることであったりした。

個別のスキームに関する法的・会計的な論点は尽きないが、単純化して言うと、これらはすべて期待感を利益に計上し、単なる思惑を現金に変える仕組みであったと言える。通常、会社の買収というのは、成否が判明するのに長い期間を要するものである。シナジー効果などが発揮され、実際に業績が向上するまでにはある程度時間がかかるからだ。買収の公表は投資家の判断に影響を与え、それによって株価が上昇することもあるが、それはあくまで思惑の話なのである。でも、その思惑を現金に変えることができたら?

もし企業が期待感を収益に変えることができれば、まさに百戦危うからずである。期待自体が収益の源泉なのだから、収益が期待に背くということはまずあり得ないということになるのだから。期待が収益を生み、高い収益がまた次の期待を生む。

東京地検による強制捜査があったのが2006年1月で、容疑の対象となった各手法がとられたのは2004年9月期の話であるから、2004年10月以降の取引には少なくとも違法性のある取引はなかったということになるが、上述の本質は大きく変容したわけではなかった。今でも覚えているが、会社四季報だったかに、MSCBの買取拡大で業績好調の見通しと、およそIT系企業とは思えないコメントが書かれていたのだ。MSCBというのは株式に転換できる社債のうち転換価額が時価に応じて修正されるもののことだが、ライブドアは子会社の証券会社を通じて様々な企業のMSCBを買い受け、それを転換して取得した株式を市場で売却するという取引によって多額の収益を計上していた。この取引に違法性はまったくないが、同取引のミソは、ライブドアが買収や資本提携を発表すると、その相手企業に対する期待感もライブドア並に引き上げられ、無根拠に株価が急上昇するという謎の傾向だった。ライブドアがある会社の株を買うと、ライブドアが株を買ったという理由でその会社の株価が上がるのだから、投資で失敗などということがあり得ないのは火を見るより明らかである。

こうして投資家の期待感を利益に変えることでライブドアは拡大を続けたわけだが、無限に続くかに見えるこれらの仕組みは、確かにネズミ講のようにも見える

今回、検察側は、ライブドアによる粉飾を「損失額隠ぺい型」ではなく「成長仮装型」と位置付けることで前例のない事件ぶりをアピールし、一般的な「損失額隠ぺい型」粉飾事件と比較して量刑が重いことを正当化しようとしている。この筋書きはあまりにもクリエイティブ過ぎるということで一部で話題なわけだが、個人的にはお茶の間の感覚をそれなりにうまく表現できているのではないかとは感じている。

成長の仮装という罪

さて、ライブドア事件には普通の粉飾事件と異なる点が多かったということにはそれなりに同意する一方、私が興味深いと感じるのはむしろ、我が国では「損失隠ぺい型」よりも「成長仮想型」の方が罪が重いという事実である。

上で説明したライブドアによる成長の仮装は、実際に資金の流入を伴うものばかりである。現実には資金が入って来ていなかったり、逆に出て行ってしまっていたりしているところを、単純に帳簿上の数字だけを加工して投資家に対して虚偽の報告をしていたわけではない。持続的に成長を仮装するためには、外部からの資金の獲得が必須なのだろう。そういう意味でライブドアが行った「成長仮装型」の粉飾は、その他の一般的な「損失隠ぺい型」の粉飾よりも高度で、より洗練されている。例えば、東京地検特捜部があのタイミングで強制捜査に踏み切らなかったら、誰か損をしたのだろうか

期待が先行して、その後辻褄があうという構図はベンチャー企業であればある程度どこにでも当て嵌まるもので、何もライブドアだけが例外というわけではない。例えばソフトバンクは、いまでこそ大手通信キャリアの一角として大手を振っているが、2004年ごろのソフトバンクは日本の通信インフラに革命を起こすとかなんとか言いながら、街頭で道行く人にADSLのモデムをばら撒き、回線契約を押し売りするという新しいんだか旧いんだかよくわからない事業にまい進していたし、そもそも初期のころは、PC向けパッケージソフトの卸売りという割とアナログな事業を中心的に行っていた。未分化のベンチャー企業であれば、時間の経過とともに事業が変容していくというのは極めて自然な現象で、要するに結果的に辻褄が合えばいいのだ。

ライブドアも、事件当時は確かにネズミ講的な手法で成長を仮装していたと言えるかもしれないが、当時の勢いを思えば、それこそソフトバンクにおけるボーダフォンのような”本業”をM&Aなどにより手中に収めていたかもしれない。そうすればおそらく辻褄は合い、誰に損失を生じせしめることもなかったはずである。

株主の視点から考えると、仮装だろうが何だろうが現実に資本が拡大していることが重要なのであって、現実に生じてしまった損失を隠される方がデメリットは大きいと私は思う。株主は会社の残余財産の分配権を有するから、会社資産の棄損は株主資産の棄損である。それが開示されないとあっては、恐ろしくてまともに投資など出来ない。だから「損失隠ぺい」と「成長仮装」を比べたとき、その罪は同程度かむしろ「損失隠ぺい」の方が重くて然るべきだと思うのだが、不思議なことに我が国ではまったく逆なようだ。

この不思議な傾向の背景にあるのは、資本主義への猜疑であり、恐怖ではないかと私は思う。

考えてみれば、ライブドアによって行われたネズミ講的なものは、人間の欲望を原動力として資本が資本を生み続けることで無限に拡大を続けるという資本主義の構図の相似形である。よく言われるところではあるけれども、資本主義自体が本質的に壮大なネズミ講なんであって、資本主義的なものがネズミ講的であるのはある種の必然なのだ。事件が明るみに出る前から、堀江氏は時代の寵児として扱われ、ライブドアという存在は新しい時代の幕開けを象徴するものとして論じられた。新しい時代というのはつまり、日本にはなかなか根付かないとされた「株主資本主義」の時代である。そしてそれは、やはり根付かなかったのだ。

以下に引用する産経の記事中の一文は、日本社会に厳然と存在する資本主義に対する怨嗟の念のようなものを端的に表している。ベンチャー企業が期待感をもとに資本を調達することも、投資家から資本調達した限りは利益を追求する必要があることも資本主義的には当然のことだが、それは詐欺的行為だと断じている。

一時は「IT(情報技術)ベンチャーの旗手」ともてはやされた堀江被告だが、事業の実態は違った。法の抜け穴を利用して次々に企業買収を繰り返すマネーゲームに明け暮れていた。「成長性の高い有望な企業」という幻想を投資家に抱かせ、利益追求だけをめざしたことは詐欺的行為と批判されても仕方がない。

ページが見つかりません - MSN産経ニュース

私利私欲に共感する社会

「成長仮装」が資本主義というオートポイエティック・システムの一環であり、株主視点に立った経営の結果として生じるものとして捉える事ができる一方で、「損失隠ぺい」とは言うなればその場凌ぎの保身であり、それを生じせしめるものは純粋な私利私欲ではないかと感じる。

先日、当ブログでも紹介した「凋落」のあとがきに、次のような一節がある。他人とかいて”ひと”と読ませるわざとらしさと語呂の悪さが少し気になるが、一理あると思わせられる記述である。

数々の上場企業を輩出し、一方で会員企業が相次ぎ不祥事を起こすという波乱万丈の十年史を刻んだ「日本ベンチャー協議会」を主宰した天井次男によれば、今の日本で成功するのは「他人(ひと)犠牲の経営者」ばかりなのだという。誰もが成長のパイに与ることができた右肩上がりの時代はとうに過ぎ去り、勝ち組・負け組で表されるような限られたパイを奪い合う時代が定着してしまった。そうした世界では、相手を貶め、出し抜き、ひどい場合には騙し、傷つけられるような人間ほど成功を収めがちだという。起業家たちの裏も表も見てきた天井だけに「他人犠牲の経営者」という造語は妙な説得力がある。
凋落 木村剛と大島健伸 P.277

私はライブドアは、実は他人を犠牲することから縁遠かったがゆえに負け組となった企業のひとつなのではないかと考えている。もし堀江氏が私利私欲に突き動かされる人間だったら、ライブドアの前身であるオンザエッヂが上場した際に、自身が有する株式を売り出して数億円の資金を得、その後は会長職か何かに退いて低迷する業績は放置、損失は全て個人株主に押しつけていたはずだ。そうではなくて、何とかして辻褄を合せ、成長を実現しようと模索するうちに、ライブドア事件は発生したのである。

実際、損失を全て株主に押しつけて自分だけ悠々自適の生活を送っているような経営者は新興市場の会社にたくさんいるが、そのほとんどが罰せられることなく、堀江氏のように何とか辻褄を合せようとした人のみが実刑に処されるというのは、我が国の特性を極めて象徴的に表す出来事であると言えるだろう。

我が国では、資本主義などという得体の知れないものにうつつをぬかすくらいであれば、私利私欲に走った方がむしろ健全とみなされるのである。

参考

ヒルズ黙示録—検証・ライブドア
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虚構 堀江と私とライブドア
宮内 亮治
講談社
売り上げランキング: 30363

徹底抗戦
徹底抗戦
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堀江 貴文
集英社
売り上げランキング: 10521

iPhoneはなぜ売れたのか

先週iPhone3Gから機種変更して、auのスマートフォンを買った。購入したのは「htc EVO WiMAX ISW11HT」(以下単に「EVO」)で、日本初のWiMAX搭載ケータイとして多少注目を浴びている例のアレだ。これによって、私の2年間に及ぶiPhone生活に終止符が打たれたこととなったので、果たしてiPhoneとは何だったのかなどということを少し考えてみたわけである。

WiMAXとテザリングという高機能

iPhoneとは何だったのか、他のスマートフォンとの比較でわかることもあるだろうから、まずは新しく購入したスマートフォンの説明を少しさせていただくが、EVOの目玉は間違いなくWiMAXとテザリングである。

EVOは、日本で初めてのWiMAXを搭載した携帯電話である。WiMAXとはなにかについて、コチラのページから適当に引用すると「大容量のモバイルブロードバンド通信の方式のひとつ」で、通信速度は「下り最大40Mbps、上り最大10Mbps」、「サービスエリアは全国の主要都市をカバー」しているのだそうだ。簡潔に言うと、少しエリアに不自由があるが滅法早い通信回線ということだろう。

下り40Mbpsという数字は当然理論上の最大値なわけだが、先ほどスピードテストサイトで実測したところ6Mbpsは超えており、実際使った感じも確かに早い。光回線と比べてもそん色のない水準である。エリアはもちろん携帯回線と比べればイマイチだが、私の場合は幸い自宅でもオフィスでも余裕で繋がるのでまったく問題なし。ただ、地下鉄が駅を含めて絶望的なので、これははやく何とかしてほしいところではある。

また、EVOはテザリングに対応しており、EVOをアクセスポイントとしてWi-Fi対応した機器を8台まで同時にネット接続させることができる。家のデスクトップも、ノートPCも、iPadも、iPod Touchも、Nintendo DSも、Playstation Portableも全部だ。設定も実に簡単で、EVO側ではパスワードだけ設定して、テザリング機能をONにするだけ。あとは、接続したいWi-Fi対応端末でEVOのアクセスポイントを探し、先ほど設定したパスワードを入れるだけ。1分でできる。

ここで気になるのは料金だと思うので、iPhoneとの比較を一応下表にまとめてみた。

iPhone EVO
基本使用料 980 780
基本パック 315 315
パケット通信 4,410 5,460
WiMAX 0 525
端末割賦 1,920 2,843
月々割 -1920 -2,000
合計 5,705 7,923

iPhoneは、Softbankによるまるでガソリン暫定税率なみにいつ終わるのかわからないキャンペーンによってパケット通信料が通常の5,980円から4,410円に値引きされているし、全世界で5,000万台以上出荷している超大量生産機種なので端末代金の負担もかなり低く、全体としてかなり安い。対するEVOはiPhoneよりも毎月約2千円高くなるが、この値段をどう捉えるかというのは、テザリングに対する考え方によるのだと思う。

iPhoneなどの他に、屋外でPCを接続するためにPocket Wi-FiなどのデバイスやUSB接続するデータカードなどをお持ちの人は、それを解約することができる。月2千円以上の節約が見込めるケースは決して少なくないだろう。別に何の保証もしないが、一人暮らしの人などはおそらく自宅の光回線なども解約し、通信回線をEVO一台に集約してしまっても大丈夫ではないかとさえ思う。

iPhoneにないもの

さて、上のような話は、あまりスマートフォンなどに興味がない人に対しても意外とウケが良く、話すと結構感心されたりもする。2年前にiPhone を購入した時も「どうなの」と聞いてくる人にはいろいろと説明し、最終的には感心されることなども少なくなかったが、今回はそれとはまた少し違った手ごたえを感じている。

私の知り合いで、妙に現実主義的で雰囲気に流されるようなことを嫌う人がいる。その人と何度かiPhoneについても話をしたのだが、私は終にその人にiPhoneの魅力を伝えることはできなかった。その人は常に「iPhoneでしかできない便利なこと」を求めてくるのだが、意外とそんなものはないんである。iPhoneのAppStoreには10万を超えるアプリケーションがあり、「なにか凄いものがありそうな予感」はあるが、その具体的な「なにか」を提示することはなかなか難しい。どれも普通のケータイでもできることばかりである。実際、iPhoneを買ったばかりのときはいくつもアプリケーションをダウンロードしたものの、結局メールとSNSiPodくらいしか使ってないという人は多いだろう。ただでさえiPhoneにはオサイフもワンセグもついてないのに、それを補って余りあるような画期的な「なにか」がないとあっては、その事実だけをとらえる限りiPhoneは確かに魅力のない端末である。

他方のEVOだが、今回その同じ人に世間話でEVOを紹介してみたところ、これが意外とウケたのだ。てっきりiPhoneの二番煎じ的扱いを受けるものと思っていたが、予想に反して「すごい」みたいな反応だった。何がそんなに気に入ったのか、実はあまり突っ込んで聞いたわけではないので本当のところはわからないのだが、おそらく上に書いたWiMAXやテザリングの話ではないかと思う。

つまり、「機能」である。

そう、iPhoneには目玉となるような「機能」がないが、EVOのWiMAXやテザリングというのは実にユニークな「機能」なのである。

iPhoneにあるもの

目玉となるような「機能」を持たない端末が、世界で5000万台も売れたのは一体なぜなのだろうか。

twitterでこのiPhoneの謎についてひとりごちていたら、いくつかレスがあった。

ジョブズのプレゼンのうまさなど、appleのマーケティング能力に解を求めるものもあったが、私にとっては以下のものが合点がいった。

「操作」である。普通、ある「機能」を実現するための手段が「操作」であるところ、iPhoneでは「操作」そのものが価値を持っているという面はないだろうか。iPhoneのホーム画面に指を這わせると、綺麗に整頓されたアイコンがぴったりと追従してくる。まるで本当にそこにアイコンがあって、指で触れているかのように。こうした経験は今でこそAndroidという類似品があるが、当時は非常にユニークなもので、iPhoneでしか味わえないものだった。何の目的もなくiPhoneのホーム画面を行ったり来たりした経験はiPhoneユーザーなら誰しもあるのではないだろうか?

iPhoneの価値は、単なる「機能」ではなく「操作」を含めた”iPhoneという経験”すべてだったのだと思う。これは、読売ランドのようないわゆる遊園地とディズニーランドの差に似ている。アトラクションの機能というか動き自体は遊園地もディズニーランドも大して変りなく、要すればシェットコースターだったりお化け屋敷だったりメリーゴーランドだったりバーチャルリアリティ的なものだったりするが、ディズニーランドが他の遊園地と圧倒的に差別化されているのは、その世界観である。ディズニーランドのヘビーユーザーは、別にビッグサンダーマウンテンと名付けられたジェットコースターにスペシャリティを感じているわけではなくて、むしろそこにたどり着くまでの造形物やすれ違う有名なキャラクター、そしてあの独特な雰囲気を楽しむのだ。まさに”ディズニーランドという経験”すべてが価値なんである。

思えば、上で紹介したiPhone嫌いの知人でさえも、iPhoneの地図には些か関心を寄せていたやに思う。iPhoneの地図は要するにただのGoogle Mapだが、ピンチインやピンチアウトも含めて、iPhoneの操作感が見事に凝縮されたアプリケーションだった。

なぜiPhoneを買うのか

私がiPhoneから機種変更した理由のひとつに、いまやあまりにも大勢の人がiPhoneを持っていて、特別感がまったくないというのも少なからずある。電車に乗っていても普通に両隣と正面が全部iPhoneだったりする。本当に多くの「普通の人」がiPhoneを持っているのだ。こういうのを、「キャズムを超えた」と言うのかもしれない。

一方iPhoneの設定は「普通の人」には若干難しく、私が知っているiPhoneユーザーのうち何人かは、ろくにアプリケーションをダウンロードすることすらできない。確かにあのiTunesの不安定な挙動に「普通の人」が寛容でいられるはずもない。私が家電量販店でiPadをいじっていたとき、隣の客は店員に「インターネットとか見れるんですか」とだけ質問し、購入を決めていた。そうした人々は、そもそもアプリケーションをダウンロードしたいともまったく思ってないのだ。

そんな使い方も満足にわからないような端末をなぜ好んで買うのかがずっと不思議で、本人たちに聞いても「みんな持っているから」とか「思ったより安かったから」とかあまりに消極的な理由しか出てこないので謎は深まるばかりだったのだが、これは私も「機能」に捉われていたということなのだろう。

使い方もわからないような人が、そもそもどんな「機能」があるかなど知る由もない。彼らはそもそも「機能」など求めていないのだ。すべての携帯電話は彼らにとって機能過剰だから、「機能」の話は等しく意味がなく、単に新しくて刺激的な「経験」をしたいだけなのだろう。

まあ、何を今さらという話もあるだろうし、そもそも「機能」を重視しようが「経験」を重視しようが人の勝手なわけだが、何となくiPhoneを卒業するにあたって総括をしてみたくなったのである。

木村剛はなぜ暴走したのか

凋落 木村剛と大島健伸凋落 木村剛と大島健伸」は、少し前に世間を騒がせた振興銀行とSFCG(旧商工ファンド)という二つの経済事件に関するノンフィクションである。同著は、木村剛大島健伸というまったく出自の異なる二人の経営者の運命が交錯しそして同様に破滅へと向かう様を、綿密な取材に基づき克明に書き綴ったものだが、ひとつのテーマとして「なぜ政府のブレーンまで務めた当代きっての金融エリートが、誰の目にも明らかに異常な資金還流工作や経理操作に走り、そして、自滅したのか」という疑問が呈される。同著の著者は、この疑問について木村剛は自らのレピュテーション(評判)を守りたかっただけではないかと結論付けているが、もう少し違った捉え方もできるのではないかと思い、このエントリーを書いている。

木村剛の暴走

なぜ木村剛が暴走したのかを考える前に、まずはどのように暴走したのかを振り返っておこう。

木村剛は、東京大学経済学部卒業後、日本銀行に入行し自らのキャリアをスタートさせている。その後35歳で日本銀行を退職すると、世界の四大会計事務所のひとつKPMGが日本に設立した金融コンサルティング会社「KPMGフィナンシャル」の代表に就任。小泉純一郎政権当時、経済財政政策担当大臣であった竹中平蔵から僅か5名の各界における有識者から成る「金融分野緊急対応戦略プロジェクトチーム」に大抜擢されると、中心的な立場を担い金融再生プログラムをまとめ上げ、りそな銀行の実質国有化を筆頭に銀行の不良債権処理を劇的に進行させるなど多大な成果を残し、名声を手にした。

ところが、その後落合伸治という、最終的には「暴力団から命を狙われているからあとのことは頼む」とまるで漫画のようなセリフを言い残して突如姿をくらましたとされる怪しい人物にたらしこまれて、日本振興銀行の設立に関与し始めたあたりから徐々に様子がおかしくなりはじめる。あれよという間に振興銀行内で独裁的な立場を確立すると、「ミドルリスク・ミドルリターン」というなんとも言えない微妙な標榜を掲げ、既存の銀行が扱わないような高リスクの中小企業などに資金を融通するという理念のもと、銀行経営をまい進する。

振興銀行のビジネスモデルは、完全にモラル・ハザード型モデルとしか言いようがないものであった。我が国にはペイオフという制度があり、個人の銀行預金はその銀行が破たんしても10百万円までであれば公的に保護されるが、日本振興銀行はこのことを利用し自行の低い信用力を補完する一方、他行よりも高い預金利息を提示することで個人から資金を集めた。個人からすれば10百万円以内に資金を限定すれば、極めて低いリスクで高利で運用できるのだから願ってもない話だが、自らの営業のためにペイオフという制度を活用する振興銀行は、要するにペイオフという制度のフリー・ライダーに他ならない。

こうして広範に預金を募った結果、振興銀行の預金総額は最終的に6,000億円に達したという。困ったのはこの多額の資金の運用先で、預金者に支払う金利を上回る運用益を出さない限り、銀行の経営は立ちいかないことになる。結果、木村剛は上述したミドルリターンを求めて彷徨い、微妙な企業に資金を提供しては自らが起案した金融再生プログラムも忘れて不良債権の山を築き、商工ファンドのゴミ債権をバルクで買い取ったかと思えば二重譲渡の詐欺に遭って多額の損失を計上し、挙句にはビービーネットやインデックスといったITバブルの燃えカスのようないわゆる怪しい系ベンチャーを次々と傘下に収めて中小企業振興ネットワークという謎の組織を構築、同ネットワーク内で資金を還流させたり不良債権の飛ばしを行ったりとやりたい放題だったところを金融庁に刺され、終には逮捕されるに至った。

振興銀行の経営をはじめた以降における木村剛の転落ぶりは確かに凄まじく、一体どうしてしまったのという疑問は確かに頭をよぎるものではある。

木村剛はヤンキーである

木村剛はなぜ暴走したのか。そのヒントは同著でしばしば語られる木村剛の素行にあるような気がする。以下、いくつか引用する。

ただ、木村が同期のなかで一頭地を抜くほどの存在だったかというと、そうでもないと指摘する声がある。たとえば、日銀入行後、キャリア組は海外留学を一度は経験するが、木村の留学先はイギリスのハル大学という日本ではあまり知名度のない大学だった。前出の日銀OBは「お情け留学だった」と話すほどだ。行動派でとにかく馬力のあった木村は後輩から慕われた。ただ、そんな時も「俺はカラオケが上手くて日銀に採用された」などと自身を偽悪的に語ることが多かった。木村は尾崎豊松山千春の曲をよく歌った。
凋落 木村剛と大島健伸 P.56

東大卒で日銀入行と言えば一般人の我々からすればスーパー・エリートに間違いないが、木村剛は、そのスーパー・エリートの集団内にあっては必ずしもエリートとまでは言えない存在だったようだ。「カラオケで採用された」という寒いギャグには、エリートであるという自覚は微塵も感じられず、どちらかというと日本銀行に大勢いたであろう”真のエリート”に対するコンプレックスのようなものすら感じる。木村剛は、同著によれば大学時代は麻雀に没頭していたそうで、私の個人的な経験に照らすと、もしかすると大学の成績もあまり振るわなかったタイプだったのかもしれない。

日銀は公家タイプの職員が大半を占める。政治にまみれ、剛胆さを求められる旧大蔵省とは対照的に、職員は大人しく、時に政治オンチとも揶揄される。そうしたなか、木村と福井*1は平均的な日銀マンなら眉をひそめるような場に出向いていく度胸があったという点でも共通していた。
その一つが、「B&Bの会」とその流れを汲む経営者の集まりだった。
凋落 木村剛と大島健伸 P.52

この「B&Bの会」というのは、後の「ベンチャー協議会」である。「ベンチャー協議会」といえば、株価操縦で有名なキャッツや、暴力団との親密な関係で有名なアイ・シー・エフ、100億円に迫る額の巨額横領事件で有名なジャック、覚せい剤で有名なダイナシティ、インサイダーや仕手取引で有名なジェイブリッジなど、数々の有名ベンチャー企業を世に輩出したアグレッシブな経営者の集いだが、木村剛日本銀行時代からこうした集いに顔を出していたのだそうだ。参加していた面子の濃さを考えると、普通の人にとってはシーベルト値が高すぎて健康被害を受ける可能性すらあるが、木村剛がこうした場に普通に出入りできていたとすると、そもそもそういう素質があったのではないかと疑わざるを得ない。少なくとも、一般的に我々が抱く「日銀マン」のイメージとはまったくかけ離れた人物像を垣間見ることができる。

東大時代に数々の懸賞論文に応募していたという木村はニューヨーク赴任のすこし前から「織坂濠」との筆名で専門誌に寄稿を始め、1994年にはジャーナリストの財部誠一と共同で不良債権問題に関する最初の著作も出している。織坂の姓は織田信長と坂本竜馬から一文字ずつとったとされる。ともに時代の変わり目に登場し、旧弊を打ち破ることで、歴史を前進させた変革者である。織坂との筆名は、その頃から木村に芽生えていた志向を如実に物語っている。
凋落 木村剛と大島健伸 P.57

まさかの織田信長と坂本龍馬である。別に悪いとは言わないが、チョイスがまるで中学生のようだ。普通の大人は自らを織田信長や坂本龍馬に準えるようなマネは恥ずかしくてできないものだが、そんな人物を二名とも採用してしまうというのだから並の感覚ではない。別に同じコンセプトで「坂田濠」にすることもできただろうに、それを敢えて「織坂濠」にするあたりのファンシーなセンスは、最近たまに話題になる自分の子供に「悪魔」だの「天使」だの「騎士」だのと過剰に個性的な名前を付けたがる親のセンスに通じるものがあるような気がする。

スモークがたかれ、レーザー光線が照らすなか、理事長の木村剛が壇上に現れると、パワーポイントを時折使っての基調講演が始まった。「大志共鳴」「切磋琢磨」「互恵互栄」「唯一生き残るのは変化できる者である」 一時間半に及ぶそのなかで、木村は教育や研修、雇用をその年の重点分野に挙げ、大学の買収も臭わすなど、相変わらず遠大な構想を一人熱く語り続けた。(中略)
そして最後はいつものようにアメリカのオバマ大統領に倣って会場全体で気勢を上げた。「イエス!」壇上の木村がそう叫ぶと、それに続けて全員が唱和した。「ウィ・キャン!」 それを三回繰り返すのである。
凋落 木村剛と大島健伸 P.236

このセンスである。上記引用部では途中を省いたが、省略した部分ではアントニオ猪木が成績優秀者にビンタをするというベタな余興や、お笑い芸人を司会に据えてのクイズ大会の様子が語られていた。この全編を通じて散りばめられた凄まじい量のバッド・センスは、かつてナンシー関が提唱したヤンキーの美学と完全に一致する。上のイベント、実は氣志團のライブイベントですと言われても何の違和感もない。「イエス・ウィ・キャン」、オバマ大統領に倣ってというか、ただのパクリである。

これは、急速に拡大したネットワークに自らの尊厳を重ねることで陶酔した結果などではない。こんなに完成度の高い”外した”感じのバッド・センスを、人は一朝一夕で身につけられるものではない。考えられる可能性はただひとつで、木村剛のセンスはもともとこういうものだったということだ。

「カラオケで日銀に採用された」という露悪的なギャグを飛ばしつつ、怪しい会合にも積極的に顔を出し、織田信長と坂本龍馬を自身に重ね、スモークとレーザー光線のなかで四字熟語を連呼するような人を、普通”エリート”とは呼ばない。これは完全に”ヤンキー”である

ヤンキーが暴走することに理由(ワケ)なんてない

木村剛はなぜ暴走したのか。木村剛をエリートとして捉えるからわからなくなるが、見てきたとおり木村剛という人物は学歴こそ高いものの、その精神的支柱は明らかにヤンキーである。そして、ヤンキーが「暴走」するのは極めて自然なことだ。放っておいても勝手に盗んだバイクで走りだすわけである。

ちなみに、大島健伸の方は会社の経営が傾くや否や自らの報酬を10倍にも吊り上げて資産の保全を図るなど、身体のどこを切り取っても私利私欲というタイプで、木村剛とは俄かにタイプが異なる。木村剛がヤンキー的なら大島健伸はチーマー的で、いわゆる辰吉丈一郎真木蔵人の違いのような差があるように思う。

と、ここまで書いたところで、そもそも「日本のベンチャー」の大部分は「ヤンキー的なもの」で構成されているのではないかという画期的な仮説に思い至ったが、長くなったのでその話はまた今度にしたい。

参考

凋落 木村剛と大島健伸
高橋 篤史
東洋経済新報社
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冒頭で紹介した通り綿密な取材に基づいて書かれたノンフィクションで、木村剛大島健伸という人物の人となりをかなり具体的にイメージでき、将来は両名のようになりたいという人にも、なりたくないという人にもお勧めできる。


ヤンキー文化論序説
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五十嵐 太郎
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複数のサブカル系(?)知識人がヤンキーについて語るというもの。人によっては単なる不良文化の紹介というか、いわゆる”あるあるネタ”になってしまっているが、やはり多くの日本人が内に秘めているというヤンキー的な美学に対する憧れのようなものにスポットライトをあてたナンシー関の分析は鋭く、それに基づいた論考には読みでがある。私自身はそうしたヤンキー的なものに心惹かれることはあまりない方だが、確かにそういうのが好きな人は良く見る気がする。

*1:日本銀行総裁 福井俊彦

学歴偏重主義の弊害

少し前の記事だが、日経新聞によれば、日本マクドナルドが従来の採用方法を排しすべての採用をインターンシップ経由に切り替えたとのことである。やたらと学歴を重視する日本の採用慣行は明らかに悪弊であり、こうした新しい試みというのはもっと歓迎されるべきものではないかと思った次第。

日本マクドナルドホールディングスは2012年春入社の新卒採用から会社説明会を廃止し、インターンシップ(就業体験)参加者から選考する方式に一本化する。3日間のインターンシップで学生の資質をじっくり見極め、学生にも会社への理解を深めてもらう。先進的な取り組みとして注目を集めそうだ。
マクドナルド、新卒の説明会廃止 選考は就業体験のみ

学歴偏重主義というチキンレース

我が国における大学進学率は年々上昇を続け、最近では50%を超えている。つまり大半の人が四年制大学へ進学するわけだが、これは単に企業の採用枠が大卒中心だからその対策として進学するのであって、大学で学ぶ知識なり経験なりが何かの役に立つということではないと思っている。

少なくとも私は、中学・高校で学んだことはまだ覚えていても、大学で学んだことなど何一つ覚えてない。いわゆるひとつの青春時代的な意味合いでは貴重な4年間だったのかもしれないが、学業や資質向上の面からは、完全に失われた4年間*1だった。

一方、採用企業側が何故かくも無意味な学歴という単なるシンボルに固執するかといえば、学歴競争の結果を援用することで、選別にかかるコストを削減したいがためだろう。

学歴の重要性がある程度社会的に共有されている限り、学歴競争の結果はそれなりに有意である。現状、学歴競争は10年にも及ぶ熾烈なもので、そこでの敗者は他の競争でも敗者となる可能性がある。企業にとって、そうした敗者と勝者をある程度選別できることの意味合いは大きい。

こうした状況は、ある種のチキンレースのように見える。学生側も企業側も、大学教育自体には大した意味がないことは薄々感づきながらも、既存の採用慣行から外れると損をする可能性が高まる(学生は就職できない可能性が高まり、企業は学生を選別する方法を別途考案する必要がある)から、仕方なくレースを続けている。

経済発展と教育

これは純粋に私見だが、例えばある社会において、経済の発展と共にナレッジが蓄積されると、教育コストは上がる。そして教育コストが上がると、家計の負担が増えるため出生率は低下するだろう。結果として労働人口は減少することになるが、その影響は一人あたり生産性の向上で補われる。

子供を農業に従事させる場合、生産活動に従事するまでの期間は比較的短く、また田畑さえあれば生産のためのナレッジも伝達に膨大な時間を要する類いのものではない。一方、子供を医者や弁護士にしようと思うと、20年から30年の期間と莫大な初期投資(教育費)がかかる。仮に生まれた子供をすべて農業に従事させる社会と、すべて弁護士にする社会があったとすると、どちらの社会の出生率が低いかは自明だろう。

よって、弁護士になる人が増えると人口は減ることになるが、一般に弁護士は農家よりも高い付加価値を生むから、人口の減少を1人当たりの生産性向上によって補うことができる。弁護士は起業家などに置き換えても良い。

教育バブルと長期低迷

ところが、ナレッジの蓄積と乖離して教育コストだけが上昇してしまうと、人的資本は減少し、社会の経済的発展は阻害される。人口が減少するだけで、生産性の向上がみられないからだ。

そして、上でみたように学歴がチキンレース化している状況こそはまさに、ナレッジの蓄積とは無関係の教育バブルであり、実際に我が国の経済は長期に渡って低迷を続けている。私は、日本の長期低迷の原因の一端を教育(特に高等教育)に見出さずにはいられない。

日本が長引く低迷から抜け出し、再び成長の軌道にのるためには、庶民に大卒という有名無実のステータスを高値で売りつける詐欺大学を一掃し、社会全体としての教育コストを押し下げるべきである。

そのためにはまず、企業が学歴偏重の採用活動をやめる必要があるだろう。言うほど簡単なことではないが、冒頭で紹介したマクドナルドのような事例が徐々に増えればいいと思う。

企業はかつてない採用コストを負担することになろうが、成功すれば有能な社員を他社に先駆けて雇い入れることが可能になるというメリットもある。

*1:ほんとは5年行った。

上場を維持するコストと上場を廃止するコスト

先日「会社は何故非公開化するのか」というエントリーで「買収の対象となる会社側に非公開化する積極的な理由があることは極めて稀で、どちらかというと買収する側の都合でそうならざるを得ないことの方が圧倒的に多い」という旨を書いたところ、上場維持に係るコストはそれなりに大きく、それを削減する狙いは少なからずあるだろうという指摘*1を複数いただいたので、今日はその話。

結論から言うと、上場するのも上場廃止するのも結構な負担であって、そもそもなんで上場なんてしてしまったのという話ではある。

上場を維持するコスト

さて、株式の上場を維持するためには確かに大きなコストがかかる。取引所からは適時開示を求められ、四半期ごとに決算を絞めて45日以内に開示しなくてはならなかったり、株価形成に影響がありそうな事実が発覚した場合などは即時公表しなくてはならなかったりと何かと忙しいことこの上ない。さらに、金融庁による開示規制も年々強化されており、今では四半期に1回有価証券報告書のようなものを提出しなくてはならない。その他にも臨時報告書や有価証券届出書など書類作成は極めて煩雑であるし、書類提出の手続きも何故かフォーマットをHTMLに変換しなくてはならなかったり、ブラウザのバージョンを落とさなくてはならなかったりと複雑怪奇なわけである。

こうした開示義務に対応するため、会社としては経験者の確保やシステムへの投資を避けて通ることはできない。これらの整備に要する額は、当然会社の規模によってマチマチだが、どんなに少なく見積もっても年間1億円は下らないのではなかろうか。

一方で、会社が上場していることによって会社が得られるメリットというのは限定的ではある。新株発行で資金調達と言ってもそうしょっちゅうできるわけではないというか、ほとんどの企業は上場時の一度きりだし、上場によって社会的な信用が補完されることを期待する経営者は多いが、今日び単に上場しただけで信用が得られるほど世の中は甘くない。

であるから、いっそのこと上場廃止したい、株式を非公開化したいと考える会社が存在すること自体は、十分に理解できるものである。一方で、話はそう単純でもないのではないか、とも思う。

上場を廃止するコスト

上記のようなコストを単に削減できるのであれば、上場廃止は確かに会社にとっても”いい話”となり得る。ただ、上場を廃止するためにも相応の負担はあるという点を忘れてはならない。MBO*2などによって上場を廃止しようと思うと、ざっと思いつく限りでも会社には概ね以下のような負担が発生すると考えられる。

  1. アドバイザリー手数料
  2. LBOの元利金返済
  3. フィナンシャル・コベナンツ対応
  4. 再上場の可能性

以下で順番に説明しよう。

1.アドバイザリー手数料

詳細は後述するが、一旦上場した株式を非上場化するというのは、少数株主保護の観点から言えば必ずしも褒められたものではなく、先のエントリーにおいても「MBOというと常になんとなくキナ臭い感じになる」と申し上げた通り、MBOは訴訟リスクとは切っても切れない関係にある。こうしたリスクに対処するため、弁護士などのリーガル・アドバイザーや投資銀行などのフィナンシャル・アドバイザーとの間で、法的な問題点や買収価額について、綿密に対策を講じる必要がある。当然そこには莫大なコスト負担が生じる。
ざっと見積もって20億〜30億円程度の手頃な感じのMBO案件でも、何だかんだで1億円くらいの手数料は覚悟する必要があるだろう。ちなみに、案件の規模が大きくなれば、手数料額も増える。

2.LBOの元利金返済

こちらについても先のエントリーで説明した通りではあるが、MBOで非公開化しようと思うと、スキームは基本的にLBO*3になる。
借入コストと資本コストを比べると、実は資本コストの方が高いというのが現代ファイナンス理論における常識で、その意味では借入を増やして自己資本を減らせば全体でみたときの資本コストは実質的には下がるのだが、とはいえ借入は自己資本と異なり元金の返済を要する。元金の返済をコストとは言わないが、キャッシュフロー的には大きな負担となることは間違いない。財務キャッシュフローの負担が増えると、投資キャッシュフローを減らさざるを得ず、つまるところ設備投資や研究開発が削られることとなる。これらの削減が将来の企業価値にとってマイナスの効果を持ち得ることは言うまでもないだろう。

3.フィナンシャル・コベナンツ対応

LBOの恐ろしいところは元利金の返済による負担だけではない。LBOにおける貸付けは、ある特定の資産の担保価値に依拠するものではなく、会社のキャッシュフローを裏付けとして実行されるものである。当然、リスクの性質としては担保資産の方が静的であるのに対し、事業キャッシュフローの方は動的だから、LBOにおいては、資金提供者が会社をモニタリングする目的で多種多様なフィナンシャル・コベナンツ*4が設定される。例えばフリーキャッシュフローに対する元利払いの割合を一定以下に保たねばならないとか、純資産をいくら以上に保持しなくてはならないとか、勝手に借入をするなとか、配当は絶対するなとかいった具合である。そしてこれらのトリガーにヒットすると、最悪の場合、会社は多額の負債に関して期限の利益を失い、デフォルトさせられてしまう。こうした各種のコベナンツに対処するためのオペレーション上の負担は、上場時における開示義務に匹敵するか、むしろそれを上回るものであると言える。

4.再上場の可能性

極めつけはこちらで、株式を非公開化する際にPEファンド*5をスポンサーとした場合、少なくないファンドが自らがイグジットするために会社に対して株式の再上場を求めるから、その場合は上場に耐え得る管理体制を保持しなくてはならないということになる。何のことはない、元の黙阿弥である。再上場はしないという方針であったとしても、ファンドがイグジットしなくてはならないことに変わりはなく、上場以外のイグジット手法というと基本的には第三者への転売ということになる。転売先が非上場会社であるということは極めて稀で大体は上場会社に転売されることになるが、上場会社の子会社が対応する必要がある開示義務は、基本的に上場会社のそれと大差ない。


さて、上記のうち2〜4は、他人から資金の提供を受けるからこそ発生する負担であるから、自己資金でMBOすることで回避できるが、自社を買収できるほどの潤沢な資金を経営者が有しているケースというのは、ここで論ずるだけの価値が見いだせない程度にレアである。通常は銀行などからの借入を活用せざるを得ないことが大半で、多くの場合はそれでも足りず、更にファンドなどからエクイティ性資金が調達されることになる。

そもそもなんで上場したのという話

冒頭でも触れたとおり、そもそも単にコストが高いからと言って徒に上場を廃止するというのは、少なくとも個人投資家保護の観点から言えば、決して望ましいものではない。

株式の上場と同時に新株を発行し公募によって大勢の投資家に株式を販売することをIPO(Initial Public Offering)と言うが、IPOで株を売るときの重要な前提条件は、その株はこれから上場するからもし売りたくなったら市場で売れますよということだ。買ったら一生保有し続けなければならない株を買う人は少ない。いざという時に換金できるだけの流動性があるということは、投資家にとって何にも換え難いほどの大きな価値である。

その貴重な流動性をなくしてしまうのが株式の非公開化であるから、少数株主にとっては一大事である。よくTOBをすると、個人株主から「TOBに応募せず会社が非上場化したら自分の株は紙くずになってしまうのか」という問い合わせがある。実際は単に流動性がなくなるだけだが、たったそれだけのことが極めてクリティカルな事象であるということを物語っていると言えるだろう。

であるから、会社が株式を非公開化するにあたっては、すべての株主に対して保有株を売却する機会を与える必要がある。しかも相応の金額でだ。この相応の金額というのが実に厄介なのだ。要するに株式の価値というのはそれを評価する人が会社に対してどれだけ期待しているかに大きく依存するから、どれだけ金額の適正性を担保したところで、その金額に不満を感じる人は必ずいることになる。それを経営陣の勝手な言い分で巻き上げてしまおうというのは決して行儀のよろしい話ではなく、いくらアドバイザリー手数料を費やしたところで完全にクリアになる類の問題ではない。

【個人株主からすれば、万が一自分だけが売りそびれれば株式が非上場化し、自分の持っている株式が紙くず同然になってしまうという恐怖があるから、大抵の人は経営陣からTOBがかかれば応募するか、若しくは市場で売却してしまう。金額に強い不満を抱いた場合は、一応少数株主保護施策として株式の買取請求権なりの最低限の権利が法的に担保されているが、基本的には裁判をすることになるため、弁護士費用は嵩むし、そもそも「適正な株価」について争わなければならないわけだから、それなりにキチンとした価格算定を行わねばならない。常識的に考えて個人株主がこのような費用に耐え得るはずもなく、チンピラ系の弁護士なりが音頭を取って集団訴訟を行うケース以外は、泣き寝入りとならざるを得ない。集団訴訟を行うケースについても、要はチンピラ系の弁護士が日銭を稼ぐという裏のテーマがあるわけで、果たして本当に個人株主は保護されているのかという疑念は尽きない。】*6

私は別に会社の非公開化に反対というわけではないというかむしろ、仕事上はトランザクションが増えてくれた方が有難かったりもするのだが、安易な非公開化を見るにつけ、経営者の資質を疑いたくはなる。

決して小さくない負担を背負ってまで上場廃止を選択するならばそもそも何故上場したのという話で、結局は何も考えてないのではないのという話である。

追記

ここまで行くと、逆に清々しい。もはや株の売買で利ザヤを稼ぐディーラーと一緒。しかも自分が経営する会社であればインサイダー情報も活用できて百戦危うからず。

参考

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笹山 幸嗣 村岡 香奈子
金融財政事情研究会
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同著はLBOローンに関する解説書。内容は実務的で実例も多くかゆい所に手が届く内容となっている。当ブログを読んでいきなり実務書に手を出す人はあまりいないと思うが、なかなかわかりやすいので紹介しておく。読むと、LBOのローンは普通のローンとは少し違うものだということはわかると思う。

*1:「[https://twitter.com/#!/kuzyo/status/57242085316767744:title=コチラ]」や「[http://homepage1.nifty.com/maname/log/201104.html#120659:title=コチラ]」など

*2:経営陣が自分が経営している会社を買収すること

*3:買収対象会社のキャッシュフローを返済原資とする借入資金を活用し、買収を行うこと

*4:日本語で言うと財務制限条項

*5:未公開株への投資を生業とする投資ファンド

*6:【】内追記。4/13

電子商取引市場の伸びしろとCDS

少し前、TechCrunchの「インターネット販売でAmazonを出し抜くには 」というエントリーが注目を集めていた。内容は題名の通りで、電子商取引の分野でamazonを上回るためにはどういった戦略があるかということを考察するエントリーである。

新しいマーケットプレイスの創造

当該エントリーには、いくつか仮説が提示されていたが、私がもっとも共感したのは以下。

再販業者にならず、買い手と売り手のためのマーケットプレイスを作る。Etsy、eBay、IronPlanet、Copart、Elanceなどは、ネットワーク効果を守るための技巧に特化することによって、優れた価値を生み出した。この分野はまだまだ伸び代を残しており、ベイビーシッターからピアノのレッスンまで、待望されているマーケットプレイスはたくさんある。最高のマーケットプレイスは、頻繁に購入される商品で、さまざまな種類の売り手が豊富にいて、やりとりの繰り返しが少ない、という傾向にある。

インターネット販売でAmazonを出し抜くには | TechCrunch Japan

例えばヤフオクのような個人や小規模事業者が参加するマーケットプレイスで、CDSのようなデリバティブを流通させたら、取引は相当盛り上がり「Amazonを出し抜く」ことも夢ではないのではないかと思っている。

順に説明しよう。

CDSとはなにか

CDSというのはCredit Default Swapの略称で、よく保険のようなものと説明される。

例えばあなたが、ソフトバンクの発行する年利5%の債券を1億円分保有しているとする。年利5%だから、毎年500万円の金利が支払われる。CDSというのは、この500万円の金利のうち400万円を保証料として毎年支払う代わりに、ソフトバンクが万が一倒産した時に1億円の補償を受けられるという取引を指す。CDSの買い手(保証料を支払って保証を受ける側)は金利収入の大部分を失うが、もしものときにも損失が補てんされるという安心感を得ることができる。一方CDSの売り手(保証料を受け取って保証する側)は、万が一のことがあったときには多額の負債を負うことになるが、手持ちの資金を一切使わず、債権を保有することもなく、多額の保証料収入を得ることができる。

ここまでは確かに保険によく似ているが、CDSが保険とおおきく異なるのは、CDSの買い手は必ずしも保証の対象となる債券なりを保有しているとは限らないということである。ご理解いただけるだろうか。上の例で言うと、CDSの買い手は毎年400万円の保証料を支払うが、ソフトバンクの債券を保有しているわけではないので、400万円は完全な持ち出しである。何故そんなことをするかというと、ソフトバンクがデフォルトすると予想しているからだ。予想通りソフトバンクがデフォルトした暁には、数百万から数千万円程度の保証料に対して1億円の支払いを受けることができることになるわけだから、多額の収益を計上することができる。

これは保険というより、ただの博打である。ソフトバンクのデフォルトリスクを対象に、単に賭け事をしているに過ぎない。

利害関係者以外のものによるこの博打まがいの取引は、長らく法律で禁止されてきたが、2000年に米で商品先物取引現代化法が成立し、合法化された。以降CDSの取引市場は拡大の一途を辿り、2001年には8億ドルだった市場規模は、2006年にはなんと26兆ドルに達したという。

無限に膨らむバブル

CDSの最大の特徴は、販売量に上限がないということだ。何度も例に出して申し訳ないが、例えばソフトバンクの債券は、当然のことながら、販売量に限りがある。ソフトバンクが発行した総量以上にそれを売ることはできない。ところが、ソフトバンクの債券に関する博打であれば話は別だ。ソフトバンクの債券がデフォルトすると思う人と、デフォルトしないという人がいる限り、何百兆だろうが賭けは成立するのだ。

サブプライムローン債券を加工してつくられたAAA格の証券化商品に関するCDSを大量に購入し、実際にそれが相次いでデフォルトした際に莫大な富を築いた投資家スティーヴ・アイズマンは、CDSとは何なのか、いったい誰がこんなものを売っているのかを初めて理解した時の感想を、次のように語っている。

「連中は、不適格な借り手を大勢見つけて、不相応な家を買わせるために金を貸しつけるだけじゃ、飽き足りなかった。コピーで製品を捏造してた。百回も繰り返して!だから金融システムの被害は、サブプライム・ローンだけの損失よりはるかに大きなものになったわけだ。」
−世紀の空売り 第六章|遭遇のラスヴェガス P.218

当時住宅ローン債権の証券化商品は、その高い格付けを背景に飛ぶように売れていたから、住宅ローンの新規貸し付けは怒涛の勢いで行われ、終には十分な返済能力を有さない貧困層にまで貸し付け先が拡大された。当時は証券化すれば何でも売れたから、債務者の与信など関係なかったのである。そして、貧困層にまで貸し付け対象を広げてもなお、潤沢過ぎる投資マネーを消化しきれなくなったとき、CDSが売られたのだった。投資家は、同証券化商品に関するCDSを売ることで、当該証券化商品と同程度のリスク負担で、同程度の金利収入を得ることができた。まさにコピー製品である。そしてCDS取引の相手方として重宝されたのが、上であげたアイズマンのような、サブプライム証券化商品のデフォルトに賭けていた一部の投資家たちだった。

電子商取引市場への応用

以上でCDSの何たるかをご理解いただけたならば、これが簡単に現物商品を取引するマーケットプレイスにも応用できるということがわかるだろうと思う。例えばソニーの新型PSPが品薄で価格が吊り上ると考える人と、人気は限定的で価格はすぐに下がると考える人が賭けをすればよい。これによって取引は莫大に膨れ上がるのではないかと予想する。

これは何も生み出さない単なるゼロサムの博打だろうか。私はそうでもないと考える。かたちはどうあれ、市場参加者が商品の値下がりに賭けることができるようになることによって、価格形成が効率化する可能性は否定できないのではないだろうか。

以前紹介した通り、現状においてもヤフオクのようなマーケットプレイスを根城にして、商品に対する需要とはかけ離れたところで裁定取引のようなことをしている転売屋と言われる輩は厳然と存在している。ところがこの取引市場は買いからしか入れないから、商品の価格は高騰するばかりで実に迷惑でなのである。

もしヤフオクのようなマーケットプレイスにCDSのようなものを導入し、かつその取引価格を実物価格とうまくリンクさせる仕組みをつくることができれば、転売屋にいまよりも値下がりのリスクを負わせることが可能になるかもしれない。また、転売屋から高値で商品を買っても同時にCDSを購入し、商品が値下がりした時に利益を出すという使い方もできるかもしれない。CDSを売るのは商品を仕入れ損なったノロマな転売屋だとすれば、全体で見れば最初に転売屋に支払ったプレミアムを取り返すことに成功している。

こうした諸々の取引の拡大によって、より短い期間で適正な価格への調整ができるようになる可能性があるのではないかと私は思っている。

会社は何故非公開化するのか

震災の影響ですっかり鳴りを潜めてしまったものの、今年は年初よりTSUTAYAの運営会社であるカルチュア・コンビニエンスクラブや、アート引越センターのアートコーポレーション、ワインのエノテカ、システム開発のワークスアプリケーションなど、それなりの有名どころがMBOで非公開化する事案が相次ぐ、M&A業界にとっての当たり年だった。

MBOによる非公開化自体はかなり一般化してきた感もあり、多くの人は新聞やテレビなどでこの言葉を見たり聞いたりしたことがあると思うが、一方でその内実は市井の人々にとっては比較的難解で理解がしづらい面もあるやに思い、今日は少し解説を試みることとした。

タイトルの「会社は何故非公開化するのか」は、よくこうした問いが立てられるので採用したが、結論から言えば買収の対象となる会社側に非公開化する積極的な理由があることは極めて稀で、どちらかというと買収する側の都合でそうならざるを得ないことの方が圧倒的に多い

用語の意味

私の肌感覚では概ね6割から7割の人が混同しているように感じるが、MBOとLBOTOBは全部違うものである。また、これらの取引は株式の非公開化を伴うことが多く、こちらも含めてごちゃ混ぜになっていることが多いので、まずは下表に整理しておく。

略称 正式名称 日本語訳 内容
MBO Management Buy Out 経営陣による買収 経営陣が自分が経営している会社を買収すること
LBO Leveraged Buy Out (借入を)梃子にした買収 買収対象会社のキャッシュフローを返済原資とする借入資金を活用した買収のこと 日本女子ボウリング機構ではない
TOB Take Over Bid 公開買付け 買付けの予定を広く公表し応募を募り、株式市場の外で大量に株式を買付けること
なし Going Private 株式の非公開化 自社が発行する株式の上場を取りやめ、公開企業でなくなること

よって無理矢理一文にすると、LBOの仕組みを活用してMBOを行うにあたって、TOBを行った後に完全子会社化し、結果として対象会社の株式が非公開となるという整理となる。

例えばある会社の経営陣が自社を買収することを検討するとき、大抵の場合は経営陣の自己資金だけでは到底足りないので、同経営陣は買収資金を外部から調達する必要に迫られる。もっとも、その経営者がいくら有能だったとしても個人の与信で何十億や何百億という多額の資金を調達することは不可能なので、対象会社のキャッシュ創出能力を裏付けとして資金の調達を図ることとなる。これがLBOである。

今となっては懐かしいソフトバンクによるボーダフォン買収が日本では最大のLBO(MBOではない)で、買収総額1兆7千億円のうち1兆円近くがボーダフォンキャッシュフローを裏付けとした借り入れによってまかなわれた。同ローンはボーダフォンの通信料収入の証券化を絡めた複雑なストラクチャーで、LBOの応用型ともいえるものであった。

他方、買い手がそれなりの規模の企業で、かつ対象会社の規模がそこまで大きくないときなど、買い手自らの与信のみで買収資金を借り入れることが十分可能な場合も往々にしてある。こうした買収についても借り入れを活用して少ない自己資金で買収を行っていることからLBOの一種だと考える人は少なくないが、厳密に言うとこれをLBOとは呼ばない。LBOという場合あくまで、対象会社の与信で借入が行われるケースを指す。

何故非公開化するのか

さて、上記LBOの定義からも明らかな通り、LBOというのは、対象会社にとってみれば多額の負債を負わされるだけの取引で、LBOの結果、事業から創出されるキャッシュの大部分は、自社が買収された際の買収資金の返済という、会社にとってみれば何の意味もない使途に充てられることとなる。

株式会社という仕組みにおいては、会社が生み出したキャッシュは最終的に株主に帰属するということと、すべての株主は平等であるという大原則がある。LBOには上述の通り、ある特定の大株主が、買収資金の借入という本来自らが負うべき債務の弁済のために会社の資産を流用するという、少数株主の利益をまったく無視した一面があるから、株主平等の原則に明確に反するものである。

そして、こうした違法状態とそれに基づく株主代表訴訟のリスクを回避する唯一の方法は、買い手が、対象会社を100%子会社化し、自身が単独の株主となることである。少数株主をあらかじめ排除してしまえば、文句を言われることはないという理屈だ。

つまり、会社が非公開化する直接的な理由はここにある。即ち、LBOを法的にクリアなかたちで成立させる為には、対象会社を買い手の100%子会社にせざるを得ず、株主が1名のみとなった会社は当然上場を維持できないということだ。

株式の非公開化は、このように極めて現実的な課題を解決するために必然的にもたらされるものである。こうした背景に思いを馳せれば、対象会社が非公開化する理由として一般に語られることの多い、少数株主を排すことで迅速な意思決定が可能となるとか、長期の利益を優先して経営の立て直しを図ることができるとかいうストーリーは、全て単なる建前に過ぎないということがわかるだろう。

実際、経営者が資産家で十分な自己資金を保有しており、買収がすべて経営者の自己資金で行われた場合であれば、MBO後でも上場を維持しているケースというのは、普通にある。有り体に言ってしまえば、別に少数株主などいようがいまいがそもそも経営には大して影響はないのであって、非上場化することではじめて可能になる「迅速な意思決定」などというものはない。上場が維持できるのなら維持したい、というのが多くの経営者の本音ではなかろうか。

そもそも論

上記はLBOと非公開化の直接的な因果関係を説明するものであるが、LBOが実施されるそもそもの理由を説明するものではない。上述の通り、経営陣が買い手となるMBOでは資金的な問題からLBOが採用されることが多く、LBOにおいては会社が非公開化するのは当然の帰結だが、そもそもMBOが実行されるのは何故なのだろうか。

ひとつのシンプルな理由は、経営陣が自社株式の市場価格は割安であると判断したからだろう。安い時に買って高い時に売るというのは、株式投資の基礎中の基礎だ。

これは端的に言ってインサイダー取引との線引きが極めて難しい話ではあるが、将来の見通しに関する見解は当然千差万別だから、そういう意味では経営陣の見解と市場の見解に相違があること自体は何ら珍しいことではなく、勇敢な経営陣が自らの勘を頼りに市場の評価に異を唱え、株を買い集めるという図式は成立しないこともない。

ただ、その「見解の相違」が純粋な判断力の違いではなくて、情報の非対称性に基づいている場合、つまり簡単に言えば経営陣が一般株主では知り得ない情報をもとに投資判断を行った場合、これは原則的にインサイダー取引となる。どう考えてもどれだけ情報開示を適切に行なったところで経営陣と一般株主との間の情報の非対称性を完全に解消することは不可能だから、これは極めて厄介な問題ではある。つまり、程度の問題でしかなく、じゃあどの辺で線引きしましょうか、という話でしかない。MBOした経営陣と少数株主の間で大規模な訴訟に至った案件としては牛角レックスホールディングスのMBO案件が有名だが、MBOと訴訟が切っても切り離せず、MBOというと常になんとなくキナ臭い感じになるのはこのためである。*1

いずれにせよ、経営陣が「何らかの理由」で、自社の株価は割安だと判断した場合は、買収(MBO)という選択肢が当然に生じ得る。買収の経済的合理性が一定のレベルを超えると、計画は実行に移されることになるが、上述の通り大半の経営者は買収資金全額を自己資金で賄うことはできないので、スキームとしてLBOが採用され、結果として会社は非公開せざるを得ないこととなる。

PEファンドによる営業

MBOが実行されるもうひとつの理由として考えられるのが、PEファンドの存在だろう。PEというのは非公開株式を意味するPrivate Equityの略で、PEファンドと言うのはつまり、非公開株式への投資を専門に手掛ける投資ファンドのことだ。PEファンドは比較的リスクの高い、創業間もないベンチャー企業やリストラが必要な不採算企業に資本を注入し、経営が安定した暁に株式を売却して利益を得ることを生業とする。

PEファンドにはコンサル会社の出身者などが多く、投資先に対していろいろと経営上のアドバイスを行ったりする「ハンズオン」のスタイルが基本だが、そうはいってもやはり経営の専門家ではなく一種の金融業者であるから、会社を買収してもそれを経営する人がいないという問題にしばしば直面する。

この点、MBOであれば、経営陣が主体となって買収を行いその後の経営も彼らが担うから、PEファンドは資金提供に専念することが出来て都合がよい。よってPEファンドは、MBOをしてはどうかと企業経営者に打診することとなる。そうして実行に至る案件は決して少なくない。

PEファンドは運用資金の効率化を最大化するため可能な限りレバレッジをかけようとする*2一方で、ファンド自体には借り入れの担保となるような事業も資産もないから、スキームは必然的にLBOになる。PEファンドは、実に容赦のないレバレッジのかけかたをするので、売り上げの何倍もの負債を負わされ、それを返済するために研究開発や広告宣伝などのすべての投資活動を犠牲にしているような会社は枚挙に暇がない。

つまり、単純にPEファンドの資金調達環境が良好であればMBO案件は増えるし、環境が悪化すればMBO案件は減少するという関係にある。LBOがピークを迎えたのは2007年頃だったと思うが、当時は買収金額の80%近くが借り入れでまかなわれることが通例だったように記憶している。PEファンドが案件を競り落とすために無理矢理釣り上げた買収金額がトランチング(階層わけ)され*3、優先的に回収が行える順に上から50%程度を銀行が拠出することに加え、さらにその下のメザニントランシェなどと言われる謎の階層にも資金がついていた。買収を主導するPEファンドなどは全体の20%程度の資金だけを拠出すれば済むわけで、気持ちが大きくなるのも当然と言えば当然と言える。

ちなみにこの場合、対象会社の株式についてはPEファンドがほとんど持つことになり、経営陣が持つ株式はほんの僅かとなるが、PEファンドは少数株主よりも格段に口うるさいし、そもそも転売による儲けを前提とする株主なわけだから、MBOによって意思決定が迅速になったり、長期的な視野に立った経営ができるようになるという大義は更に空洞化することになる。

参考

東京ディール協奏曲
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栗山 誠
集英社
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同著はM&Aのディールを題材にしたフィクションもので、著者の経歴は明らかにされていないが、M&Aにおけるオークションやファイナンシングのプロセスに関する記述はリアルで、臨場感がある。ストーリーは、ある大手メーカーの子会社売却に際してのビッディング・プロセスを軸に進行するが、ファンドをスポンサーにしたMBOや時流に乗ったIT企業、ドバイ・マネーなどがひしめくなか、情報漏えいなどの事件も織り交ぜられ、盛りだくさんの内容になっている。さすがに現実のディールではそこまでうまく行かないだろと思うものの、同著で表現されているどこか浮世離れした軽妙なノリは、実際のディールにおけるそれをうまく表現しているようにも思う。
決して難しい内容ではなく簡単に読めるので、ちょっと気軽にM&A業界の雰囲気だけ味わってみたい人にはオススメしてみたい。

*1:インサイダーの誹りを逃れるために有効な対策は、市場価格に対して十分に高いプレミアムを上乗せした買収金額を提示することでしかない。MBOによるプレミアムの相場は40%とか50%とか言われるが、当然のことながら個別の事例として対処する以外に道はなく、一般論として解決できる問題ではない。ところが普通の個人株主は支払われるプレミアムが相応なものかどうかの判断がそもそもできないから、常に搾取されるリスクと隣りあわせということになる。

*2:買収資金の一部を自分たちの期待リターンよりも低いコストで調達することで、利益の絶対額は減少する一方で投下資本に対する収益率は上昇する。

*3:このあたりについて、詳細は過去エントリー:「[http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20091206/1260082366:title]」など参照のこと。

原発は「安全」なのか

福島の原発が緊急停止して以来フル稼働を続けている我らが池田信夫先生だが、その勢いはとどまるところを知らず、最近では原発を自動車と比較して安全だと強弁するのが先生のマイ・ブームのようだ。

自動車のリスクを「年間5000人」と書くのなら、同じ基準で原発のリスクを比較しないと不公平だろう。日本の原発事故の死者は、これまでゼロである。2名の死者が出た東海村事故は核燃料加工施設だが、それを入れても年間0.04人。少なくとも「原発のリスクは自動車をはるかに上回る」とはいえない。

池田信夫 blog : 自動車や石炭火力は原発より危険である - ライブドアブログ

過去のデータを援用して原発の「安全性」を訴えるその姿は、まるで住宅ローンのデフォルト率に関する過去の統計データを根拠に、サブプライム層向けの住宅ローンを証券化商品に加工したものを、理論上絶対安全と吹聴して世界中の投資家に売りまくった投資銀行家のようだ。

サブプライムローン問題においては、過去何十年に渡って安定していた住宅ローンのデフォルト率があるときを境に急増し、何百倍にも膨れ上がった。これは、端的にいえば証券化商品の販売が好調だったがために、信用力の低いサブプライム層に対しても貸し出しを増加させたためだが、過去の統計データが将来の結果も保証するわけではないという当たり前の教訓をもたらした。

今回の原発事故についても、未だ事態は収束しておらず、被害がどこまで深刻化するかわからないからみんな不安になっているわけで、統計上は安全であると主張したところであまり意味を持つとは思えない。

そもそも、今回と同規模の事故は過去にチェルノブイリとスリーマイルしかなく、統計データと呼ぶにはあまりにも心許ないという気もする。


過去の統計データなどによる推計からは考えられないような事象が起こることを、存在しないと思われていた黒い白鳥が発見されることで既存の常識が覆る現象に準えてブラック・スワンと呼ぶが、面白いのは、池田先生が上の記事を執筆される2週間ほど前に、「原発事故というブラック・スワン」という記事を執筆されている点である。

今回起こった福島の事故が本当に想定外の、理論上は起こり得ないようなものであればあるほど、過去のデータなど引き合いに出しても何の意味もないということにしかならない。これからまったく想定外の事態に発展して多数の死者が出るかもしれない。

私は原発について何ら専門的な知識を持たないので、福島でこれから起こり得る事態をある程度の論理的整合性をもって解説するようなマネはできないが、想定外の事故が起こったのであれば、今後想定外の被害が発生する可能性があるということはわかる。それは太陽系の惑星がすべて縦に並ぶような確率かもしれないが、そういうことが1週間続けて起こったりするというのが池田先生も大好きな「ブラック・スワン」の意味するところだ。

原発事故はブラック・スワンだと言うことと、原発は統計上安全だと言うことはまったく逆のことで、それを同時に主張するのは、まるで「まあデフォルトしますけどね」と言いながら証券化商品を売るようなものである。


私は別に原発に反対するつもりはまったくなく、むしろ安定した電力供給のためにできることがあれば協力したいくらいだが、原発のリスクを必要以上に矮小化するつもりは毛頭ない。

現状においても、原発から半径20キロ圏内の住民には避難指示が出され、30キロ圏内の住民には屋内退避指示が出されている。約40キロ離れた飯舘村の土壌からも、IAEAの避難基準の約2倍にあたる放射性物質のベクレル量が検出された。放射性物質による汚染の被害は数万年にも及ぶと言われ、こうした地域に住む人たちは、不安に苛まれながら避難所で生活し、生きているうちには自宅に戻れない可能性もある。特に農家の人々などは商売道具の田畑が汚染されてしまったわけだから、生活が成り立たないだろう。こうした被害は誰がどう見ても「自動車をはるかに上回る」もので、死者が何人出ているかという問題ではない。

死者が出ていないのは単に避難したからで、自動車事故と死者数で比べても何の意味もないことは明らかである。例えば本州の人全員が避難しなければならない事態に陥っても、死者が出なければ「安全」なのだろうか?

当たり前だけど、そういうことではないだろう。避難の結果死者ゼロで済んだからと言って、「安全」が事後的に決まるようなことがあるはずがない。常識的に考えれば、「危険」だからこそ避難した(させた)んである。